007. マキローと殺虫剤
涼一が脇腹の怪我を指すと、彼女はピクリと眉を上げるが、それ以上の反応は無い。
「ちょっと待っててくれ。確か、医薬品コーナーがあったはず……」
棚には擦り傷用の薬くらいしかないが、とりあえず、噴霧型のマキローを手に取る。殺菌液のスタンダードな商品だ。
「効くか分からないけど、試すだけ試そう」
レーンに傷を見せるように身振り手振りで訴えたところ、断固許否された。
女の子相手に無理やり服を剥ぐ訳にも行かず、涼一は困り果てる。
使い方が分かれば、自分で処置してくれるかもしれないと、仕方なく彼女の服の上からマキローを噴きかけた。
レーンは慌てて跳び
予想もしない現象に、涼一も心配そうに彼女の表情を窺う。
しばらくして、レーンは彼の目を見て力強く頷いた。問題無いってことらしい。
彼女の様子に安心した彼は、商品棚を背もたれにして、その場に座り込んだ。
マキローをレーンに渡すと、彼女は手にした容器をしげしげと観察する。
食料の他に、必要な物はなんだろうか。涼一は店内を見回しながら明日からの生活を想像した。
――また、カラスのような連中がいては堪らないな……
武器になるようなものが欲しくはあっても、調理場で使われていた包丁くらいしか見つからない。
自分が化物と斬り合う姿を想像した涼一は、溜息をつくと、元の場所に包丁を戻した。
レーンの方は、ナイフを持っているようだ。ローブの下に装備している金属製の物体が、たまにライトの光を反射している。
彼と違い、彼女が戦闘を厭わない人種であることは明らかだ。
涼一から見た彼女の印象は、ニュース映像で知る中東辺りの兵士が近い。
無駄な動きもなく周囲を警戒し、物音には素早く反応して銃を構える。目つきは鋭く、今のところ、弛緩した態度を取ったことは無い。
栗色の髪にエキゾチックな顔。耳が縦に長く尖っていなければ、砂漠の兵士で通っただろう。
変わった形の耳には食事中に気づいた。こちらはエルフを連想させる。
全てが非現実的な一連の出来事に、もはや耳くらいでは驚く気にもなれなかった。
目の前のことだけ考えるべきだろう。スライスされた駅も、エルフ似の少女も、身の安全を確保してから考察すればいい。
諦念のような極端な順応性は、両親を早くに亡くした涼一が得た一つの武器だった。
食料を運ぶのに使えそうなリュックを手に入れて、そこに資材を詰め込んでいく。
リュックはレジの前で見つけたもので、キャンペーンの景品として置いてあった物だ。珍妙なマスコットが、ファスナーの先にぶら下がっている。
持って行くのは水や食糧――チョコレート、カロリーフレンド、ドライフルーツといったものを選んだ。
食べ物以外では、小さいラジオ。そのうち雑音以外の電波も拾うかもしれない。
絆創膏とタオル、それと、なんとは無しにガムテープも放り込んだ。
レーンもあれこれ自分のリュックに取り込んでいたが、そのチョイスに涼一は面食らう。
見ていた限り、食糧は無視。乾電池、化粧水の小瓶、百円ライターをしげしげと眺めた後、いくつか袋へ。
マキローを棚にあるだけ全部。気に入ってくれたのは、何よりだと思う。
ジェット噴射の殺虫剤については、かなり長い間、調べていた。
アブ・蚊・ハエのイラストが缶に印刷され、その上に大きくバツ印が描かれている。それを二つほど取り込むと、最後にレジの前の棚へ。
五月飾りのコーナーを調べた後、キャンペーンのくじ引きの景品の前でも、レーンは随分長く立ち止まっていた。
人気アニメのグッズが並ぶ中、青いモフモフの塊を手に取る。妹の好きなマスコットキャラ、モルロの実物大ぬいぐるみだ。涼一が失敬したリュックにも、その小型版がぶら下がっている。
女の子なのだから、不自然ではない。しかし、状況と、兵士然とした彼女の佇まいからすると、酷く違和感があった。
結局、ぬいぐるみは棚に戻し、レーンは涼一の方に振り向く。
いつの間にか自分の手を止め、ぶしつけに様子を眺めていた涼一は、彼女とまともに目が合った。
「あー……、ん……」
彼女は何か伝えたいようだ。言葉では伝えられないなら、どうするか。
涼一は文具コーナーからサインペンを掴むと、床に小さくグルグルと落書きする。彼女にそのペンを渡し、様子を見た。
レーンはペンを右手にもったまま、しばらく考え込む。やがておもむろに、床に三十センチくらいの円を描き、円上に一点、黒い丸印を付けた。
黒い点をトントンと人差し指で叩きつつ、涼一の方を向く。
「リョウイチ、レーン」
「どういう意味だ。俺とレーンが何だって?」
レーンは黒点の横に、数字の8のような記号を書き加える。
――ああ、なるほど……
“8”は、このコンビニ、サークルエイトのロゴマーク。とすると、黒点は現在地点のことだ。
自分の立つ床をコツコツと叩き、涼一が言う。
「涼一、レーン」
レーンが大きく頷く。
彼女は次に、黒点から円の中心に向かって線を引いた。
涼一がしっかり目で追っているのを確認すると、今度は中心から外周へ線を折り返す。
レーンのサインペンは外周で止まらず、そのままレジカウンターに阻まれるまで黒い線は続いた。
何かを期待して、じっと涼一を見つめるレーン。
――これは……これからの行動進路か? 彼女はいずれ、この地を遠く離れるということだろうか。それなら、最初に描いたこの円はなんだ?
その様子を見て、レーンは自分の額から腹まで、縦に手刀を下ろすようなジェスチャーをした。
「なっ…!」
涼一の頭に浮かんだのは半身の駅員、数時間前に強烈な印象を残したあの死体だ。
この円は、駅ごと断ち切ったような、あの切断面を表しているらしい。彼の理解が正しければ、伏川町は円形に切り取られたことになる。
そんな馬鹿なと呟けど、レーンの図が本当か確かめる術はない。
――自分の目で確認しなければ。
涼一はペンを返してもらうと、レーンの線をなぞるように書き加える。黒点、つまり現在地から円の中心へ。そのまま中心から、反対側の円周まで続ける。
本当に街が、孤島のように切り取られたのか。その規模は? 外周を確認できれば、手掛かりは得られる。
今度は涼一が、彼女をじっと見る。
床の図を前に、しばし考えるレーンを前に、彼は返事を待った。できれば、レーンには一緒に来て欲しい。情けない話だが、カラス一匹に対しても、自分だけで対処できる自信がなかった。
レーンに何か目的があるのは間違いないが、もう少しだけ彼女の力を借りたい。
顔を上げ、涼一と見つめ合う形になるレーン。大きく首を縦に振り、肯定の意を示した。
「ありがとう。助かるよ」
軽く拳を握り、日本語で感謝の言葉を伝える。
言葉は分からなくても、涼一の心を見透かすように、レーンは笑みを浮かべた。
落書き大会の後は、ひたすら夜明けを待つ時間だった。
カウンターにもたれつつ、外を覗うレーン。少し離れて、疲れた様子で脚を投げ出す涼一。
二人とも、眠ることなく、ジリジリと夜明けを待ち続けた。外では爆発音が断続的に響き、意味のある人の声は聞こえない。
ガラス張りのコンビニの店内に、オレンジ色の朝日が差し込んだのは、サインペンのやり取りから四時間後くらいだろう。
どちらが促すこともなく、二人は外に歩み出す準備を始めた。
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