今宵は月も

安佐ゆう

第1話

 そろそろ暑さに辟易し始める季節、 京子に病気が見つかった。

 子どもたちがそれぞれ中学と高校に進学し、新しい生活にもようやく慣れてきたところだった。

 病院から送られて来た健康診断の欄に黒く影を落とす「悪性腫瘍」の文字。

 今頃は本人に内緒にはしないものなのだなあと、他人事のように思う。もしかしたら、「……の疑いあり」などと書かれてあったのかもしれないが、動揺した京子には「悪性」の文字以外はただ記号のように流れていくだけで、頭には入らなかった。


 ちょうど廻ってきた学校の役員の仕事を、理由を話して頭を下げて断り、家庭訪問の順番を変えてもらい、学校行事の参加は義母にお願いし、一週間後に精密検査を受けた。

「次に来る時には、ご家族と一緒にいらしてください」

 優しくゆったりと担当医が言う。ほぼ確定だと、本人にも分かっているのに、やはり告知には家族の付き添いが必要なものなのだ。

 一週間後、京子は夫とともに癌の告知を受けた。それからの1ヶ月は飛び去るように過ぎていった。

 手術の予定が決まり、何種類もの検査をし、毎回何枚もの書類にサインした。保険会社に連絡し一時金を受け取らなければいけないほど、検査のたびに金が飛んで行く。

 手術は5時間にも及んだが、幸い転移もなく、予定通り患部をごっそり取り出し、無事終わった。手術前は家族の顔を見ると涙が浮かぶ毎日だったが、終わってみればスッキリして、明るい未来が開けているように思う。


 4人部屋の病室は明るく、窓からは海に浮かぶ島がぽつぽつと見える。

 同室の患者たちとはたまに顔を合わせることもあるが、さほど社交的ではない京子はいつも窓から海を眺めていた。

 昼には陽の光を照り返し眩しいくらいの海も、夜は暗く、底も知れない。明かりを消した病室から外を眺めていた京子は、ふと、耳を澄ませた。廊下から何か、歌声が聞こえる気がしたのだ。

 それは一瞬のことで、もう聞こえない。他の入院患者さんが歌っているのだろうかと考えたが、どうでも良いと、すぐに忘れた。

 次の晩のことだ。やはり夜更けに歌声が聞こえる。物悲しいメロディーを震える声で、か細く歌う。それは懐かしい、古い歌だった。京子の子供の頃よりももっと昔に流行った歌。時々母が家事をしながら歌っていた。

 母は今でも元気にしている。京子の病気のことで心配はかけたが、手術も無事終わり、今は安心していることだろう。

 翌日、順調に回復した京子は、担当医に退院を告げられた。

「順調ですね。では管を抜いて、明日エコーで確認してから、退院しましょう。ご家族もお母さんが帰ってくるのを楽しみにしているでしょう」

「ありがとうございます。嬉しいけれど、帰ったら家事が待っているんですよねえ」

「そうですね。ふふふ。しっかり動いてください。体力作りは大切ですからね」

「甘くないですね」

 がっくりと肩を落とす京子に笑いかけて、担当医は次の患者へ向かった。


 病院で過ごす最後の夜、やはり京子はあの懐かしい歌を聞いた。歌声は切れ切れに、でも何度も聞こえ、京子は子供の頃の事をあれこれと思い返して、懐かしんだ。

 退院の朝がきた。検査も無事終わり、夫が荷物を持ちに来てくれた。2週間世話になった看護師たちに挨拶をし、ふと問いかけてみる。

「あの、歌を歌っていた方は、まだ入院されているのかしら。懐かしい歌でしたね」

「え?歌ですか?」

「昨日と一昨日は、夜の間、どなたかが歌ってましたよね?」

「……いえ、夜に歌うような方はこの階の病室にはいませんでしたよ。夜は静かに過ごすようお願いしていますし。眠れませんでしたか?何か問題があれば夜勤のものが記録に残しているはずなのですが」


 確かめましょうか?と聞く看護師に、もう退院ですしと断り、京子は夫と家に帰った。最初のうちは恐る恐る接していた家族も、元気に動く京子にすぐ慣れて、日常が戻って来た。癌が発覚してから3ヶ月足らずの出来事だ。


 今日も京子は家で慌ただしく子供たちの世話をして過ごしている。

「あら、今日は新月かしら。月も出ないのね」

 懐かしい歌が聞こえるのは、決まって新月の前後だ。家族には聞こえないというその歌は、いつしか京子の日常に溶け込んでいた。

 何も変わらない。

 今日もその声と一緒に歌を口ずさみながら、京子は何も変わらない日常を過ごしていく。

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