コーヒーにはミルクをいれて
咲良 季音
差し伸べられた手の向う
「笹井さん、やっぱりこんなことダメですよ。」
「かやちゃん、コントロールできない感情があっても、それは仕方の無いことだと俺は思うよ。」
「……。」
「大丈夫、酔っていて記憶には残らない。今日のことは、明日にはすべて忘れられる。」
「笹井さん、話がおかしな方向に向いてませんか?」
「そう?」
「お隣の席のお財布の忘れ物、勝手に中を見たらダメだって言ってるんです!」
「わかってるよ。ほんの遊び心だろ。かやちゃん、だいたいはノッテ来てくれるのに、たまに真面目なんだから。」
「悪ふざけが過ぎます。ドキッとしました。」
「ドキッとしてくれたの!?それは脈ありだなー。」
そう言いながら、さっきまで隣に座っていた見知らぬ人のお財布を、お店の人に笑顔で手渡す。
かやちゃんが、『やっぱりこんなことダメです』なんて色っぽい声で言うから。先にドキッとしたのはこっちの方だ。
職場の同僚で、年もぴったり10ぐらいは下だろう。
気が利く。仕事ができる。さっぱりしてる。冗談が通じる。たまにちょっと触るぐらいなら怒らない。まるで男友達のような女性。
右手を左手に重ねて、何となく結婚指輪を隠す。俺もただの男だよな。かわいいと思ってる女の子なら、やっぱり好かれたい。
結婚していることも、子供がいることも知れたことなのに、ついつい隠してみたりしてしまう。
それに、かやちゃんだって結婚している。
何も起こらないから、二人で飲みに来るなんて事実が起こりうるのだ。
期待してはいけない。
「笹井さんは、浮気したこととか無いんですか?」
「どストレートな質問だね。答えにくいわ。」
「無いって即答しないところがもう肯定してるじゃないですか。」
「そういうこと、許せるタイプなの?」
「良くわからないんですけど、毎日不機嫌で家にいられるより、外にいい人がいることで、家でも毎日ご機嫌なら、その方が嬉しいです。」
「ええ!!?そんなのってあり?心が広いというか、あまり女性的感覚じゃないね。」
「いい人がいるからこそ、家で文句ばっかり言っているならこれはどうしてくれよう…と思います。」
「そういう問題じゃないでしょ。」
「かやちゃんは浮気したことある?」
「どこまでが浮気ですか?」
「体かなー?」
「秘密です。」
「これすごい気になる展開だね。あったとしたら、今までのイメージかなり変わるな。ただ、親しみ安さは百万倍だね。」
「そんなことで得られる親しみやすさは要りません!」
この子と話していると心の底から笑えてきて、いつまでも一緒にいたいと思ってしまう。
いい大人だから、そこはちゃんとコントロールして見せないと。それぐらいのことはわかってる。そこそこの経験を積んできた。
この子は、ダメだ。
「そろそろ帰るか?」
「はい、今日もお付き合い頂きありがとうございました!」
「どう見てもこのシチュエーションは俺が付き合ってもらってるだろ。」
「そうですか?私ももう若くないし、笹井さんもいろんな人に合わせるのは大変ですよね?って思ってますよ。」
「いや、誰でも誘う、誰でも誘われりゃついてくって思ってる?そんなでもないよ?俺。一緒に飲みたい相手ぐらい選ぶでしょ。フツーでしょ。」
「選ばれて光栄です。またお付き合いください。」
そう言ってとても自然な笑顔を浮かべる。
身長差は20cmぐらい。意識しないように、さりげなく頭を撫でる。
「かやちゃんは礼儀正しくて良い子だね。」
「近所の子供に接するみたいですね。」
嫌そうにしない、かやちゃんの笑顔が、金曜まで頑張った自分の疲れを吹き飛ばしてくれる。
そうだ、この感情は癒しだな。俺はこの子に癒しを求めてるんだ。
*
「また昨晩喧嘩しました。」
通路を挟んで左斜め前の席に、向かい合うようにかやちゃんは座っている。お隣のゆりちゃんとは仲が良いようで、よく話している、けれど、うるさいと感じたことは無い。二人の会話が面白くて口を挟んでしまう事も多いほどだ。
かやちゃんの旦那なんて、想像もできないし、したくもないけど、何でこの子と喧嘩すんのか、不思議でならない。ただ、あまり絶好調で無い様子は今までの会話からも垣間見れる。
そんなことを考えながら恥ずかし気もなく見つめていたら、ふいにこちらを向いたかやちゃんとばっちり目が合う。反らしては逆に照れる展開だ。
「かやちゃんと一緒にいて喧嘩になるってのが不思議だな。」
心からの思いを何も考えず口に出す。
「かやちゃんと笹井さんは気が合いそうですもんね!」
と、すかさず周囲がかやちゃんと俺のことを茶化し始める。まずいこと言ったかな?でも本心だ。それにかやちゃんが、嫌そうな顔をして無いからきっと大丈夫だ。この子はそういう子だ。小さなことで相手を恨んだり妬んだり、くよくよしたりはしない。そんなかやちゃんを大事にできない男なんて大したこと無いやつ確定だな。大方始めだけ優しくして近づいて、自分の世話してくれりゃ後は相手の気持ちなんてどうでも良いタイプのグズ男だ。そんなグズ男が毎晩この子の隣にいるなんて。
そんな合っているかどうかもわからない、要らない妄想で腹が立ってくる。まずいな。こういう感情卒業したいんだよ。良い大人なんだし。
「かやちゃん、人を幸せにする力が君にはあるよ。自信を持って。」
年上らしく、ほんの少し上から目線で、あくまでも今の関係性を守ることを自分に言い聞かせた台詞のつもりが、またしても「くさい」とかなんとかはやし立てられる。かやちゃん悪いね、今日はどうも上手くいかない日だ。
「カッコつけられないんだなー俺。残念。」
心からの残念だった。周囲は楽しそうにいつまでも笑っていたけれど、折れかけた心をそっと撫でながらパソコンに目を写す。
ふと、かやちゃんの視線を感じる。ためらいながらも顔を上げると目が合う。気のせいじゃなかった。折れかけた心は1/3は修復する。
「そんなこと言われたら落ちちゃいますよ。」
消えそうな、甘い声。女の子の囁くような声はいつでもみんな、こんなに甘さを含む物なの?
「落ちといで、絶対に受け止めてやるから。」
同じ空気振動で返す。
心臓が年がいもなくうるさく鳴り、高校時代の自分が脳裏をかすめる。こんな感覚、ものすごい久しぶりだ。それでも絶対にそうと感づかれないように、余裕の笑みを浮かべる努力をした。
虚しく終わったのか、余裕のフリができたかは謎のままで。かやちゃんが今朝の何倍も緩やかな表情で仕事をし始めたので、全て良し。折れた傷跡には柔らかなハンカチまで巻かれ、胸が鳴る久々の感覚に自分の精神年齢の幼さを感じて笑えてくる。
コーヒーには、ミルクを入れないと飲めない。なんと今もだ。
年取ったからこそ苦味が痛い日々に、どれだけその存在が必要か。
かやちゃんを、心の中で「ミルクちゃん」と呼んでから、変態だなと一人愕然として、心の中とはいえ、そんな不謹慎な発言をした事を詫びるつもりで、机の中からチョコを取り出し、かやちゃんの方に差し出す。
「一息入れな。」
て、言ったら、
「みんな味方だから。」
とゆりちゃんが言った。
なんて素晴らしいタイミングだろうゆりちゃん。今の俺の台詞とゆりちゃんの台詞で、ようやく満足のいく雰囲気になる。
胸を撫で下ろしたのも束の間、かやちゃんの、口許を軽く手で隠しながら、少し照れたように笑う顔に、ぐいぐいと胸の奥を押される。
かやちゃん勘弁して!
高校生かって俺。この感覚はもう本当にまずいんだよ。
*
「あっ、笹井さん。アールプリントの石井さんからお電話あって、仕様についてのfax受け取ってます。今出しますね。」
「え?かやちゃん宛に電話来たの?」
「はい。」
「俺宛に電話くれたことなんて無いのに。」
「私が以前お問い合わせのお電話したので、その流れだと思いますよ。」
「そうかな…かやちゃんだからじゃない?」
「何が言いたいんですか?」
「なんか妬ける。」
「え!?石井さんから電話をもらった私が羨ましいの?」
「違うわ。石井さんがかやちゃん狙いじゃないかって言ってんの。心配。」
「そんなこと、思っても無いくせに。うまいんだから。」
かやちゃんはさらっと流すと嬉しそうにfax資料をこちらに差し出す。
嫌そうにしない。
こういう軽い発言をすごく嫌う女性もいるけれど、自分は親しみやすさとしてこのキャラを上手く使いこなしてきたつもりだし、わりと誰にでも軽く言えてしまう方だと思う。
それなのに、かやちゃんの反応は気になって仕方ない。本当に、石井さんがかやちゃんに下心が無いか、モヤモヤが残る。
受け取った資料にまで、腹立たしい気持ちがわいてくる。
いやまて、仕事だ。しっかりしろ。
「かやちゃん、今度の新規立ち上げのデザイン事務所、今度の挨拶に行ったらかやちゃんに引き継ぎたいんだけど、挨拶も同行でお願いできる?」
「何日ですか?」
「来週月曜午後なんだけど。」
「大丈夫ですよ。わかりました。」
一緒に出張。小さいな俺。そんなことで石井さんに勝ったつもりでいる。小さいと自分でわかっていながら、この優越感で何とか平静を保って毅然として振る舞う。
壁に掛けられたホワイトボードに目を移すフリをしながら、かやちゃんの方へ視線を向けると、緩く口端を上げて、目を細めて、おそらく今決まったばかりの出張の予定を手帳に記入する仕草に釘付けになる。
俺には、顔に『嬉しい』と書いてあるようにしか見えない。自惚れか?最近ちょっと気になりすぎて、自分に都合よくなってるか?
ホワイトボードを見るフリをしていたことをすっかり忘れてから5秒後、ゆりちゃんから「かやちゃんのこと見すぎです。」と小声で突っ込まれる。
「だってなんかすごい楽しそうなんだもん。」
自己防衛のためにかやちゃんを売ってしまった。
いつもの緩さからは想像の付かない速さで顔を上げたかやちゃんが、頬を手で押さえながら、
「変な顔してました!?」
と明かに焦っている。
目が合わなくて、そのままパソコンに向い仕事を始めるフリをしている。ようにしか見えない。
まただ。かやちゃんの反応が、その表情が、自分のすごく弱い部分にグイグイと入り込んで来る。普段絶対に口にしない愚痴を誰かに
ちょっと前まではそんな時、自分はどう対処していたか、誰を思っていたか、全く思い出せない。
この感じは何なんだろう。
癒し。
それは確かにそうだけれど、それ以上の心強さと、自分への価値を与えてくれている気さえする。
弱さをさらけ出しても、自分を認めてくれる自信があるのだ。
ごめん。かやちゃん。これ以上はもしかしら、もう女の子としてしか見られなくなってしまうかもしれない。
そうなったら、
かやちゃんは自分から離れるだろうか?
心のどこかで、少しは喜んでくれるだろうか?
これまでの経験から、全く自分に興味がない訳では無いことぐらいは何となくわかっている。
でももう、純粋に恋愛するような社会的立場ではない。お互いがその存在に救われたからといって、何をしても許されることになどならないのだ。
息苦しいほどの無力感と年甲斐のない鼓動で、目の前に座っていることさえ辛くなる。自然な仕草を心がけながら席を立とうとした瞬間、かやちゃんから差し出された手にまた釘付けになる。
「何?」
「倒れちゃうかと思って、大丈夫ですか?疲れてませんか?」
「そんなだった?ごめん、大丈夫だよ!」
差し出された手の上に、四つ織りにされた付箋。さりげなく受け取って、トイレに向かう途中で開いて見る。
『来週月曜、出張直帰で一杯どうですか?』
俺がこんなに悩んでんのに。
まあ、あっけらかんとよくも。
仕方ない。そんなに俺と一緒にいたいなら付き合ってあげるか。
あの手は、俺のために差し伸べられた手。その事実だけでまた一週間は頑張れる。でも、その向こうには、いつものかやちゃんの屈託のない、信用しきった柔らかな笑顔があって、支えにさせてもらったとしても、決して握りしめてはいけない。
「かやちゃん、俺を落としたいの?」
かやちゃんの席の横を、わざとギリギリまで近寄って、通りすぎながら小声で囁く。
俺の反応が予想通りだったのか、かやちゃんは少し余裕の表情で見上げてから微笑む。
「落ちてくれるの?」
「当たり前でしょ。」
小さくガッツポーズを決める仕草と眉の下がった笑い顔がまた胸をおす。
これであと三週間は頑張れそうだな。
単純な自分。
全てを見逃すはずのないゆりちゃんが一言。
「二人がまたあやしい。」
「あやしかったらもっとコソコソするわ。」
コーヒーには、ミルクが必要。
ただそれだけのことなんだよ。
コーヒーにはミルクをいれて 咲良 季音 @saccot
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます