第5話
服を着せるのに十五分、そこから帰とうと説得するのに十分。もう日付は変わっていた。
「ちょっとこれ持ってよ。重いの」
どうしてこんなに横柄なのだろうか。そもそもこの酔っ払いを介抱する必要などあるのだろうか。
透はハンドバックを自分に差し出す優子を見て思う。もう名前も家の住所も聞き出していた。知らないのはどうして泣いていたのかくらいだろう。
受け取るとそれほど重くない。まだ重さを正常に認識できないほど彼女の世界が揺れている証拠だろう。このまま一人でも帰していいかもしれない。自転車を引く透はそう思う。ふらつく遅い足取りに合わせる為に彼は自転車に乗っていない。だが幸か不幸か家のある方向が一緒だったのでここまで来ると腐れ縁ともいえる。
透はそのハンドバックを自分の自転車の前籠に放り込んだ。
「なによ、丁寧に扱ってよ」
「ごめん」
キスの余韻で透自身も酔っ払っているようなものなのだろう。親切ぶって優子を家まで送っているつもりだが、月明かりの魔性と口付けで彼の若い欲望の蓋はもう半開きだった。確かに連続絞殺事件のこともありこんな訳のわからない女性を一人で帰すのは危ないかもしれないが、透がそれと同じくらいに下世話な見返りを期待して優子へ親切を施していたのは間違いない事実だった。
それほど広くない住宅街の道路を歩いていく。線が一本引かれて仕切られただけの歩道の中を優子、車道を舐めるように自転車を引く透。
「ずっとここに住んでるの?」
沈黙を嫌うのは慣れていないからだった。特に女性との間に生まれるそれは透にとってほとんど初めてだった。
「小さい頃から」
打ち解けたというべきなのだろうか。家に帰ることの説得の間に交わした言葉と不意の接吻が緊張と親近感を齎していた。外套を越えて、また次の外套を目指す旅を二人は続ける。その間、交わす言葉は二言、三言。相手が誰であっても良いような肌触りのよい言葉だった。常に質問するのは透で、それに答えるのは優子だった。
本当は酔っ払いに言葉など要らないのに、性への期待が透に余計な質問を作り出させた。
関心を繋ぎとめていたい透は柄にもなく舞い上がっていたのだろう。表情は普段と同じく冷静さを保っていたが、突如として湧き出したあらゆる初めてとその予感に、流れる血液は沸騰寸前なのだ。
優子と言えば、そんな彼の様子を知っては知らずか、花から花に舞う蝶々よろしく気まぐれに視線と変えて、だるそうにそのくだらない質問に答える。手には自分のヒールを持っており、裸足で歩く彼女にとって全ては夢の延長でしかなかった。
「歳は?」
「二十九」
「何してるの?」
「広告。アートディレクターってやつ。社会人六年目」
「どれくらい飲んだの?」
「さあ」
「ずっと江戸川って言ってたけど実家暮らし?」
「一人。両親はお父さんの実家に戻っちゃった。岡山」
一人暮らしと聞いて透の期待が膨れ上がったのは言うまでもない。下着姿だった数十分前の残像はまだ香りつきで彼の心を散歩しているのだ。その身体に纏っている薄い最後の一枚が脱がされて現実になる時も近いと彼は思う。
早川をそういう目で見れなかった。彼女を自分のセックスの為に利用しようとは思わなかった。だから向こうが好きと言ってくれたが透は振った。だが優しい理性的な彼はもう幻で、たった一度下着姿の女性に抱きつかれただけで消えてしまった。
幾ら月が不安なほどに輝く夜とはいえ、人間を狼に変えるのは不可能だと誰もが知っているのにも関わらず、すっかり馬鹿になった透は、狼になれると信じている。
「遠いね」
「そうね。みんなあっちにいるのよ。いとこも姪っ子も、みんな」
「たまに行くの?」
「全然」
「そっか」
会話が途切れることを嫌うが、紡ぐ言葉が貧弱な彼のボキャブラリーでは出てこない。そうして恐れていた沈黙が薄明かりの夜に生まれて、いつしか二人に別れが訪れる。
「ここ、あたしの家」
小さなアパートだった。一人暮らしにはおあつらえ向きの小奇麗な建物だった。自転車置き場には幾つかの自転車と一台の原付がある。ゴミ置き場は綺麗で管理が行き届いていることがわかった。アパートの細い通路には照明が灯っている。
「そう。うちから結構近いんだ」
別れを嘆くのは意気地のない透だった。妄想の中で何度も抱き締めた優子はもう数秒もすればアパートの通路に消えて、扉を開くと完全に姿を隠してしまうだろう。
「ありがと」
「うん」
自転車を引く為の手を彼はハンドルから放せない。
「それじゃまた」
優子はヒールを揺らしながら背中を向けて行ってしまう。
徹は最後まで見届けない。彼はすぐに自転車に跨り、敗北を置き去りにするように走り出す。
「さらば!」
後方から優子の叫び声。まだ彼女は夢心地だ。
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