第3話

 透よりも身体は小さいとは言え、力一杯に暴れられては抑えつけるのは難しい。アルコールで弛んだ脳みそは触れるもの全てを敵に変えてしまう。

 一方、透はそうもいかない。全力で殴れば話は早いが見ず知らずの女性を酒に溺れて川にも溺れようとしているからとはいえ、そうするわけにもいかないのはわかっている。なのでなるべく傷をつけないようとするのだが、水飛沫が顔まで上がるほどに暴れられてしまうといつまで経っても埒が開かない。

「止めろって」

「あんたぁ! 変態なんでしょ! さては最近流行の首絞め野郎ねぇ!」

 手を結んで上から振り落とすようにして透に殴りかかる。「この野郎! あんたも女の敵よ! ろくでなし!」

「違う。違うよ」と言いながら透は空いているほうの腕でそれをガードする他ない。

「じゃだったら何よ!」

「助けに来たんだって」

 お互い両足を川に浸していた。止まると踝を撫でていく水の流れが想像以上に冷たく早いことがわかった。

 一思いに暴れた後だったのか、透がそう言うと、これまた突然、酔っ払いの女、斉藤優子の動きが止まる。また蝉の鳴き声が響いていた。幸い、近隣住民が見に来る様子もない。夏の川である。こうして馬鹿みたいに遊ぶ輩も多く、ちょっとやそっとのことに一々反応をしていては身が持たないことを知っているからだった。これが長々と続けばきっと警察を呼ばれることにはなるが、この分ならその心配もなさそうではあった。

「だったらどうしてもっと早く来ないのよぉ~、馬鹿~」

 怒って暴れたと思ったら、今度は泣き声を出して彼に身を預けるようにして近づいてくる。

「な、なに?」

「うぅ~ん。もっと早く助けに来いよ~」

 下着姿の斉藤優子は透の首に腕を巻きつけ、彼の鎖骨に唇を置くようにして無理やりに寄り添った。腰が引けるのは未だにセックスを経験してない透だった。こんなにも至近距離でほとんど裸の女性を見ることなどこれまでなかったのだから。下着姿で浅瀬に浸かる優子は彼の胸を叩く。一回、二回、三回。猫のような振りで叩くのだからそれほど強くはない。いや弱かっただろう。

「も~」

 どうやら自殺は止められたことを透は悟る。いやこの反応を見る限りだと自殺を想っていたのかさえも怪しい。ただの酔っ払いの酔狂だったのだろう。「抱き締めて」

「え?」

「強く抱き締めて」

 壁に徹しようとしていた童貞の透の心を見透かすような言葉だった。女の身体を知らないのだ。そんなこと言われてすぐ出来るはずもない。だから彼は聞き返すし、優子はそんな彼にもう一度、同じ言葉を投げかける。「強く抱き締めるの、あたしを。助けに来たんでしょ、馬鹿」

 千鳥足でないのが良かった。狙いは定まっている。だが今度は透の心が揺れるのだ。踝を冷やす濁った川の水の流れにそのまま連れ去れてしまいたいほどに彼は動揺していた。自分の腕が一体何のためにあるのかその数秒の間に何千も自問を繰り返した。抱き寄せればジーンズの中で隆起した男性器が女に悟られてしまう。それはきっと恥ずかしいことだ。子供のような心配が彼の頭を過ぎる。背中にその腕を回そうと伸ばすが、これほどまでに己の上肢を長く感じたことは今までなかった。彼は探るよう壊さぬようにその長い腕を折り畳み、下着姿の女を抱き寄せた。

「これで?」

「うん」

 女の頷くその声が見た目と違って子供のようだった。いつまでこうしていれば良いのだろうかと透は思う。視線を一回り小さい優子のつむじに向けていても時間が早送りで進むわけない。むしろ彼を取り巻く全ては、湿気の多い夜、蝉の泣き声、優子のついている香水の匂い、足を撫でるような川の流れ、視線に入る誰も居ない近くの小さな橋は、何の変化も表さず時間が永久に止まったような印象を彼に与えた。

 そうして永遠とも思える数十秒程度の時が過ぎると、優子は透の胸で泣き出すのだ。女性が泣く光景を見るのは今夜で二度目だった。一度目はそんな姿を見て肩に触れることも躊躇っていたのだから、抱き締めている今回は上出来かもしれない。しかし透の胸の内は達成感で満たされない複雑さがある。彼は酔っ払って下着姿で入水し、誰だか知らない若い男の胸を借りて泣く女の物語を想像した。

 もちろんそれは悲劇の物語以外に有り得ない。心を突き刺すような痛ましい何かがこの女性に起きたのだろうことは容易に想像がついた。しくしくと優子は啜るように泣く。早川の滝のような泣き方に比べたら幾分が汐らしいのは重ねた年齢がそうさせるのかそれともそれぞれの性格からのかはわからない。

「大丈夫?」

 声を掛ける。それに返事がないのにももう慣れていた。

 一度声を掛けて駄目なので、彼はもう黙ってやることにする。一度目の経験が生かされている時間だった。

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