第2話
「本当にいいの?」
「うん。大丈夫だから」と早川は気丈に答えるが、頬にはまだ涙の筋が残っている
「けど首絞め事件もあるし。もう、十一時過ぎてるし」
「ほんと、大丈夫だから」
彼女はまだ毀れる涙を手の甲で拭う。
「そう」
強く否定されると踏み込んでいけないのが透の性格だった。「じゃ後ろには気をつけて」
「うち自転車だから大丈夫」
二人の住む江戸川区では今年の夏になって女性が相次いで首を絞められるという事件が連続していた。多いときには週に二回ほど、通算して五回ほど既に事件は起きており、夏休みを迎えようかという学校も児童、生徒に注意を喚起していた。
「なら。そっか」
「じゃまた」
「また」
少し妙だが一緒に帰ることを拒否されたのだがら透はその場に立ち竦むしかない。土手を登り、頂点に達するとまた下っていく。するともう透の視界から早川の姿は消える。
しばらくすると自転車の鍵が勢い良く開かれる音とそれに続いてペダルを踏み込みチェーンがしなる音がした。透は早川が行ってしまったんだろうことを知る。
泣いていた人が一人いなくなると代わりに存在感を増したのは蝉の鳴く音だった。熱帯夜の夜、湿度も気温も高いじめじめとした雰囲気に纏わりつくように鳴り響く求婚の合図。
もう家に帰っても良いはずなのだが、透の足はなかなか動かない。女性を泣かせてしまったショックもあったが、本当の理由はそれだけじゃない。彼には実家に帰りたくない別の理由があった。
緑の芝生の斜面に腰を下ろす。住宅街を分割するような細い人工の川の揺れる水面を見ても何も変わらないのはわかっていた。
今日も兄の家に泊りに行こうか、と彼は考える。透の兄、宏は家を出て同じ街で一人暮らしをしていた。長男の宿命なのかせっかく家を出たというのに彼は遠くに行こうとはしなかった。だがつい二日前も兄の家に泊ったばかりで、そう何度も世話になってはいられない。宏は事情を分かっているので「いつでも来いよ」とは言ってくれるが、額縁どおりに言葉を受け取るほど透は馬鹿でもない。
しかし幾ら夏とは言え終業式の前夜に河川敷で野宿は気が引ける。一度携帯を開いて、電話の着信もメールの受信もないことを確認する。液晶画面が煌々と光り、透の顔を白く照らした。
「ああ~。もぉ~う」
唸るような声が突然、響いた。女性の声だった。驚いた透は携帯を閉じて、その声のほうを見る。土手の上に一人の女性がいた。サイクリングロードに突っ立っている。外套のすぐ横なのでその姿は夜の世界にあってもはっきりと見える。OLらしい恰好と言えば良いだろうか。胸元が開いたシャツと黒いパンツを履いていた。高くはないヒールと長く少し乱れた印象の髪の色は仄かだが茶に染まっている。右手には缶ビールが握られており、「死ね! 馬鹿野郎」と叫びながら、その女性は川にその空いた缶ビールを投げ込んだ。
黙っていれば美人だろうが、酔っていては美の価値はいくらでも目減りしていく。善良な市民である透は厄介な人間が来たなと思う。例えばそれは彼女と夜に入った公園に不良がやって来るような心境に近かった。だが幸い、まだ透がそこにいることには気づいていない様子で彼女はただそこに佇み、投げ込まれた缶が水面に波紋を作るのを見終える。
「もう!」
酒乱なのだろうか。何か怒りが収まらない様子で彼女は地団駄を踏む。名前も知らない女だがその様子にはどこか愛嬌があった。腰を下ろしたまま透は年上の女性のそんな姿を監視する。趣味が悪いかもしれないという背徳感があった。向こうもきっと自分がいたら空き缶を川に投げ込んだり、地団駄踏んだりなんていうはしたない真似はしなかっただろう。わざと気づかれるように立ち上がってそのまま去ることも考えるが、もうそうするには遅い気もした。そんなことをしては向こうに羞恥心を与えるだけになるだろうし、もうこうやってひっそりと女性の姿を監視することも出来はしない。
そうやって透が決断を先延ばしにしていると、その女性は左手に持っていたハンドバッグを地面に落とすように置いて、ヒールを脱ぎ始めた。一体何が始まるのかと見ていると、彼女はそのままシャツのボタンを一つ一つ解いていく。
思わず透は唾を飲み込んだ。もう出て行くことも出来ないが、隠れるために動き出すことさえ危険に思えた。そのまま河川敷で彼は腰を下ろしたまま行方を見守るしかなかった。
女性はシャツを脱ぐと、今度はパンツのボタンを外して、それすらも脱いでしまう。ブラジャーとショーツ姿になるまでもうそれほどの時間は掛からなかった。少しあばらの浮き出ている痩せた身体に良く似合う小さな胸と細い腰の女だった。乱れた髪は鎖骨を隠し、そのまま一部が小さな胸の谷間に流れ込んでいる。
透は突然のことに股間を熱くさせると共に戸惑う。背徳心は大きくなり、幸運に出逢ったということよりも罪を犯しているという意識が強かった。だがそれこそ健康的な若い性的興奮の最大のスパイスでもあるのだから皮肉である。止めることも出来ただろう。声を掛けて、呼び止めればよかった。だが名も知らぬ女性がボタンに指を掛けたその時から下世話な本能が心の半分を埋め尽くしていた。言い訳は後で幾らでも捻り出せばいい。
下着姿になった女はそのまま土手をゆっくりと降りてくる。相当酒が回っているのか、どこまで来ても透の姿には気づかない。そもそも酒に酔わなければ外で下着姿になんてならないだろう。
再び透が唾を飲み込むとき、彼の額から流れた汗が顎まで伝って重力に従い地面に落ちた。一体どこまで行くのだろうか? 股間が目一杯隆起した透はその行き先に不安になる。河川敷まで降りてく来ても尚、名も知らぬ女は歩みを止めず、流れる水に向かって一直線に進んでいくのだった。
それからほどなくして彼女は透の不安を現実のものにするために音もなく入水する。
「ちょっと――」
酒に溺れた後に川に溺れたのでは笑える話もオチない。悲劇の幕切れでは誰もその話を伝えようとはせず、ひっそりと秘密にするしかなくなる。誰か友人に話してやろうと企んでいた透も目の前でその最後が入水自殺となったらもうそれを一生の秘密にしておくより他ない。元より誰かを自分の目の前で死なすわけにはいかないのだ。名前さえ知らない酒乱の女であろうが、命は尊い。
彼は立ち上がり右足の踝まで水に浸した女を今度こそ迷いなく呼び止める。「何やってんだよ!」
勃起をしていたのはご愛嬌だがその下半身と違って透の顔は真剣そのものだった。透はすぐに距離を詰めて、その手を掴んだ。
女はそのとき初めて透に気がついたように目を丸くして、掴まれた手首を咄嗟に振りほどこうとする。そもそも酒に酔っている。理性的な判断など下着姿になった時点で期待は出来ない。
「何よ! 変態! ちょっと止めて!」
自分勝手にも女はこう叫ぶのだ。彼女の名前は斉藤優子といった。ついさっき婚約破棄をされたばかりの女だった。
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