もしも一日中、太陽を眺めることができたなら
うにまる
もしも一日中、太陽を眺めることができたなら
尾崎は夕日の熱を顔いっぱいに浴びながら、あの赤黒い円を自由に動かせないかと念じてみた。やはりびくともしなかった。当たり前だ。尾崎の人生もこんな調子だった。
尾崎は北海道札幌市の郊外で生まれた。家庭は裕福ではないが貧しくもなく、専業主婦の母がいて、市役所に勤める父がいた。尾崎は公立の小学校に進学し、クラスの中では『もやし』というあだ名が付いた。色白く、痩身だったからだ。運動が大の苦手で、徒競走はふとっちょの丸井君よりも遅かった。やがて尾崎は家から近い中学校へと進学する。そのころ、メガネをかけ始めたせいで、クラスメイトからは『尾長メガネざる』と呼ばれるようになった。いじめられてはいない。あくまでいじられていた、と思っている。やはり運動が不得手で、特に高跳びのベリーロールはとことんひどかった。たしか、女子数人は自分の跳ぶ姿をみて、悲鳴をあげていた気がする。そんな尾崎も高校生になった。高校入試でめざましい点数をたたきだし、市内有数の難関校へと入学した。高校時代、尾崎の親友であった野崎は、尾崎のことを『考える葦』と命名した。これはパスカルの言葉からの引用だったはずだ。野崎は命名理由について、『彼はすこぶる頭が冴える。しかし、いかんせん外見に華がない。そういった意味で、そこらへんの雑草とは違うが、やはり尾崎もまた雑草なのだ』と皮肉めいたことを語っていた。トイレの鏡の前で懸命に髪をセットしている野崎の隣で、尾崎もまた、ぼさぼさになった自分の髪をいじくった。それから、やっとのことで一本の白髪を抜くのであった。いよいよ尾崎は大学生となる。北海道をとびだし、関西の教育大学へ通うことになった尾崎は、地下鉄を利用して通学できる距離で、ひとり暮らしを始めた。自宅近くの書店で、アルバイトもやってみた。当時、書物を素早く並べ、在庫整理を寡黙に淡々とこなす尾崎を、頭の禿げた店長は『見えざる手』と名付けた。アシの次はテか、と尾崎は少し辟易していた。アルバイトを二年ほど勤めたとき、とある女性が新しく入ってきた。結局のところ、尾崎とその女性は恋に落ちる。やがて、小さな家庭を築くのだ。そして、尾崎は家族を養うために決意する。
俺は教師になるべきだ、と。
夕焼けに照らされて、少しずつ顔が温かくなっているのを肌で感じながら、尾崎はかれこれ一分ほど窓枠の外を眺めた。下に視線をずらすと、グラウンドに少年野球の子どもたちがぽつぽつと立っていて、黒い帽子のつばが、バックフェンスの方に向けられていた。カーンと甲高い音が、窓の厚みに緩衝されながら聞こえてくる。黒点がざわざわと動いた。尾崎はかけていたメガネを中指で整える。
尾崎はゆっくりと深いため息をついた。およそ一分で回想できる、自分の人生。こんな人生なんて、誰にでも歩めるような気がした。誰とも差がつかないように頑張ってきた結果、誰とも区別がつかない人生が出来上がってしまった。いや、これは生き方うんぬんの話ではなく、天から与えられた宿命なのかもしれない。
そもそも、偶然天から与えられた唯一の力さえ、結局のところ、パッとしない一芸に過ぎなかった。
尾崎は誰も真似することができないであろう、ある超能力を持っている。それは、一円玉を念力だけで自由に動かすことができる、という能力だ。もっと正確に言うと、10g以内であれば、物質の特性いかんにかかわらず、まるで魔法のように操ることができるのだ。
自分にその能力があることを初めて知ったとき、尾崎は漫画に出てくる、赤いマントを身に纏い、胸元の”S”を輝かせながら空を舞う、ひとりの男を思い浮かべていた。勧善懲悪の旗を掲げ、ここぞというタイミングで現れるその男に、世界中の人々は魅了され、憧憬の念を抱いた。尾崎もご多分に漏れず、その男に憧れていた。この能力さえあれば、自分もあの男のようになれるかもしれない……。尾崎は経験したことがない胸の高鳴りを感じた。
困っている誰かを救う、特別な存在になれるかもしれない。
しかし、尾崎の期待は、あっけなく打ち砕かれることとなる。それはいうまでもなく、自由自在に操れるのが『10g』までだったからだ。驚くべき能力には違いない。おそらく現在の科学でも、証明することはできないだろう。ただ、尾崎の能力は『驚くべき』止まりだった。
道端に落ちている空き缶を、拾わずにゴミ箱へと捨てることができる。
誰にもできやしない。でも、誰も救えない。
チョークを持たずに文字を書くことができるから、黒板の前に張り付かなくても授業ができる。
SF的なロマンがある。でも、誰も憧れない。
最近世間を賑やかにさせている話題といえば、『タンクローリーの下敷きになっていた小学生男子、奇跡の生還』、『不法投棄を一掃? 森林に捨てられたゴミが忽然と姿を消す。誰がやったのかいまだ不明』と種々様々であったが、自分の能力がもし、ニュースとして取り上げられるとしたら。
『天才マジシャンあらわる?! タネも仕掛けもない浮遊コインマジック』
せいぜいこれくらいが関の山だろう。人々の眼差しは、白い歯を二カッと見せる男に向けるそれではなく、どちらかというと、炎の輪をくぐるライオンに向けるそれと同様の類だろう。
あぁ、すごい技なのね、もっと見せてよ、という具合だ。
尾崎は外の景色から目を逸らし、教室の中へ向きなおった。校舎の三階に位置する6年3組で、尾崎は七瀬佳恋と二人きりだった。もっとも、七瀬は自分の席に座り、問題を解いている。尾崎は学年主任から、七瀬に補修をさせるよう頼まれていて、通常授業が終わった後の数時間、七瀬とともに居残っていた。
七瀬はなんとも不規則な登校習慣が目立つ児童で、一か月間きちんと学校に来るときもあれば、一週間ずっと学校を休むときもあった。休むわけを尋ねても、『地球防衛活動をやっている』の一点張りで、担任の尾崎はいささか頭を抱えていた。授業中の七瀬は真面目そのもので、隣の生徒と遊ぶこともなければ、授業そっちのけで居眠りをすることもなく、姿勢のいいまま終始集中している。休み時間に七瀬を含む女子数人が、仲良さげに談話をしているのを見たこともあった。
尾崎は七瀬に何か欠陥があるとは思えなかった、謎の言い訳を除けば。
七瀬には算数のプリントをさせていた。しかし、しばらく手を動かす様子がなく、鉛筆を置いたまま、頬杖をついてぼーっとしている。問題がわからないのだろうかとも思ったが、どうやら計算について考えあぐねているようではないらしい。尾崎は妙な違和感を覚えていた。長年小学生の相手をしているからこそわかる、独特のオーラ。声をかけたほうがいいかもしれない。尾崎がそう思ったとき、七瀬の頬杖がかくんとなり、そばに置いてあった小さな消しゴムが、ぽろっと床に落っこちた。七瀬は消しゴムが落ちたことに気付いていたようだが、一向に取る素振りをみせない。むしろ、さも自分が床に叩きつけられたかのように、ぐだっと気力が抜けているようにみえた。
やはり七瀬の様子がおかしい。
尾崎はゆっくりと意識を消しゴムに集中させた。やがて床に転がっていた消しゴムはふわりふわりと宙を浮いた。そして消しゴムは、七瀬の机へと移動し、机のすみっこへ戻った。
もはや、ほぼ屈服した体勢となっている七瀬の視界には、尾崎の超能力はうつっていないようだった。
「七瀬ちゃん、何かあったの?」
尾崎は意を決して声をかけた。
七瀬が尾崎の方を向く。いつもは健気な表情をする顔だったが、今ばかりは、どこか暗澹とした憂いを帯びていた。
「今日、みんなで将来の夢を発表したでしょ。先生は覚えてる?」
もちろん覚えている、尾崎は言いかけたが、その前に七瀬が語を継いだ。
「佳恋は、一日中太陽を眺めたいって言ったんだよね」
尾崎は4時間目を思い起こす。それは国語の授業で、将来の夢を正しい方法によって発表してみようという内容だった。やはり男子の大半はサッカー選手だったりパイロットだったりで、女子は美容師やアイドルが多かった。どうも児童たちは、将来の夢=職業を連想しているらしい。そんな中、七瀬だけは不思議なことを語っていた。尾崎は一瞬どういうことだろうと首をかしげたが、なるほど、宇宙飛行士になりたいのか、表現がうまいな、と解釈していたはずだ。
授業の終盤、尾崎は尾崎で将来の夢を発表したが、もう夢は叶えましたという締めくくりで、みんなから割れんばかりの拍手をもらっていた。
今さらながら恥ずかしく思う。
「でね。4時間目終わりのお昼休みに、ある男子から少しからかわれたの」
「何か言われたの?」
「うん。『お前みたいな学校をすぐさぼるやつが、宇宙飛行士になんてなれるわけねぇだろ。だいたい、お前なんてすごい特技なんてねぇだろ。宇宙飛行士は才能を持っている人にしかできないんだよ。わかったかぁ』って」
七瀬は暴言を吐いたであろう男子の口調そのままに再現した。やはりその男子も、七瀬は将来、宇宙飛行士になりたいのだと勘ぐっていたようだ。彼は彼なりの理論を、嫌みたらしく並べたのだろう。
「その男子が言っていることなんて、何から何までおかしい! 最初はそう思ったの。でも、だいぶ時間が経ってね、ふと思い出すと、佳恋の方が間違えていたかもって思えて。なんかなー。うまく説明できないけど、心がもやもやとしてきちゃって」
七瀬の語調がだんだんと強く、そして早くなっていた。
「やっぱり、佳恋みたいな人が、大きな夢を持っちゃ駄目なのかな。真っ赤で大きな太陽を一日中眺めたり、青くて美しい地球をずっと守ったり」
七瀬は必死に堪えていた感情が、堰を切ったようにどっと溢れ出したせいで自分自身をコントロールできなくなっていた。身体が小刻みに震えていて、固く握られた両の拳が、机の上に置かれている。
尾崎は一歩ずつ七瀬が座る席へと向かった。なるべく足音を立てず、教室の静謐さと同化するように。それは悲哀に暮れている七瀬に対する、尾崎の配慮だった。
「七瀬ちゃん、算数のプリントもらっていい?」
七瀬は困惑した顔を浮かばせたが、やがてこくりと頷いた。尾崎は名前の欄しか書かれていない紙の端を、右手でそっとつまみ、七瀬の机の上で順序よく折りたたみ始めた。
「七瀬ちゃんは、紙ひこうきをつくったことあるかい? あれって、ただの紙きれ一枚だけで作れちゃうでしょ?でも、空を飛んじゃうんだよ」
尾崎は言い終えると同時に、数式でデザインされた、一機の紙ひこうきを完成させていた。そして、その紙ひこうきを手に取り、窓ぎわへと向かう。七瀬にも来てもらうよう目で合図した。七瀬は不可解だと言わんばかりの面持ちながらも、素直に応じ、席を立って尾崎の元へと近づいた。
尾崎はちょうど教室の真ん中に位置する窓を開ける。開いた隙間から風が少し吹いて、七瀬の黒い髪を揺らした。尾崎の首の両側を、冷涼な風が通り過ぎていく。
空に夕日の姿はなく、陽の残像だけがしつこくねばっていた。
空はちょうど、夕べと夜の隙間のような明るさだった。
尾崎は右手に持っていた紙ひこうきを、顔の前にかまえる。
「先生はね、生まれながらの才能とかってやつはあると思っている。だから、天才ってやつもきっといて、普通の人にはできないようなこともなんなく達成してしまえるんだと思う。でもさ、じゃあなんの能力も持たない普通の人は、指をくわえて天才の光を眺めるしかできないっていうの? それじゃあんまりだと思うんだよね。つまりさ、普通の人は普通の人で、すごいことできるんだって信じてるんだよね」
尾崎は七瀬の方をちらりと見やるが、七瀬の両目には、指と指の間に挟まれた紙ひこうきだけしか映っていないようだった。
「先生実はね、紙ひこうき作るの上手なんだ。平凡な紙きれだって、やるときはやるよ」
尾崎は右手をまっすぐ平行に伸ばした。指の先から紙ひこうきが放たれる。紙ひこうきは暮れなずんでいる空を、ひたすら一直線に進んだ。下へ落ちることもなく、ずっと先まで同じ位置をキープしている。尾崎は、自分の能力がどの程度離れたところまで発揮できるのかわからなかったが、どうか念じる限り、効果はなくならないでほしいと願った。
七瀬は声こそ発しないものの、気張っていた表情は、じょじょに緩んでいるようだ。自分の送ったエールは、きっと七瀬に伝わりきれていないだろう。ただ、普通の女の子だって、大きな夢を描き、その夢に向かって努力すれば、必ず夢は叶うということは、七瀬に知ってほしかった。駄目なんてことは絶対にない。尾崎自身が果たせなかったから、なおさら七瀬には諦めてほしくなかった。
このまま七瀬が落ち着きを取り戻すまで、教師として見守ってあげよう。尾崎は黙ったまま、見えなくなるほど遠くへ飛んだ紙ひこうきに、超能力をかけ続けた。
空は緋色に紺青色を練り混ぜたように薄暗くなり、ちらほらと小さな星も瞬きつつある。気づけば先ほどまでの金属音や、少年の威勢いい声は聞こえなくなっていて、尾崎と七瀬がしゃべらないで外を眺めている間、音のないときが刻まれていた。
尾崎が紙ひこうきを飛ばしてから、かなり時間が経過したころだった。
「やっぱり先生はすごいね! 佳恋ものすごく元気出た! ありがとう先生! せっかくだから先生にお礼してあげる! 先生の夢が叶えられるように! 願いごとの準備をして!」
七瀬のきらきらとした声が教室に響いた。どうやら少しは回復したらしい。ただ、お礼とはいったい何なのだ? 尾崎は考え込むように視線を上へと動かした。
一方の七瀬は、開いた窓から顔を出し、空を見上げた。
そして、七瀬がそっと目を閉じる。
すると、次の瞬間、尾崎の両目は、凄まじく異様な光景をみた。
空に浮かんでいた星が、みるみると下降していったのだ。しかもひとつだけではなく、見えている限りの星が次々と。
星が、流れていた。
「先生願いごとした?もうやめてもいい?」
七瀬は目をつぶりながら問いかけてくる。尾崎は慌てて両手を重ね、祈るようなポーズをとった。そして数秒後、もう大丈夫だと返事をする。
七瀬がまぶたを開いた。すると、ぽろぽろとこぼれていた星々は一斉に動作をやめ、今度はこともなげに佇んだ。
「星、ちゃんと動いていた? 10t以上だったら動かせるはずなんだけど……」
七瀬が心配そうにつぶやく。そのときだった。尾崎の思考に突如として強力な電気が走り、脳がフル回転した。
謎と謎がつながりあって、一枚の絵になっていく。
今まで失くしていたジグソーパズルのピースが、ベッドの下からひょっこり出てきて、急いで作りあげる行程とよく似ていた。
あとのピースはぴったりと当てはまるのだろうか。
尾崎は確かめずにはいられなかった。
「七瀬ちゃん、地球防衛活動は順調?」
「うん! 最近は佳恋と同い年くらいの男の子を救ったんだよねー。佳恋がすぐタンクローリーをどかさなかったら、彼はたぶん助からなかっただろうねー」
「勝手にゴミを山へ捨てたらいけないよね」
「そうだよ! 大人はなんでそんなことも守れないのかな。仕方ないから佳恋が綺麗にしていってるもん。捨てられたゴミはどこに移せばいいかわからなくて……、宇宙に飛ばしちゃってるけど、大丈夫かな……」
七瀬はもうすっかりいつもの声色に戻っている。尾崎はというと、瞬きをすることすら忘れて、ぽかんとしていた。
外はもう夜と化しつつある。そろそろ七瀬を帰らせなくてはいけない。尾崎はなんとか意識を取り戻し、壁にかけられた時計をみた。
尾崎の動作から思わくを察知した七瀬は、無邪気に駄々をこねる。
「佳恋まだ帰りたくない! そうだ! これから太陽持ってきちゃおっか! なんか、小学生の佳恋が、何も知らないままに太陽を動かしたら駄目かなと思って、佳恋の夢はまだ実現できていないんだけど、今なら叶えられそうな気がする! 先生! ずっと太陽を眺めていようよ!」
あどけなさを湛えた姿は、将来への希望に満ちているようにみえた。そして、自分はこういうときこそ冷静を装うべき、ひとりの教師なのだ、と尾崎は再認識した。
「七瀬ちゃん、それだと困っちゃう人が出てきちゃうかもよ。太陽を望んでいるのに、待っても待っても来ないのは、とっても悲しいじゃないか。七瀬ちゃんの夢はすごくいい。だけど、今はまだとっておいて」
この返答が今の尾崎にできるすべてだ。
「えー。先生がそこまで言うなら……。今日はいさぎよく帰るとしよう!」
七瀬は自分の席に戻り、かばんに筆記用具をしまって、そそくさと教室を出ようとする。
尾崎は七瀬を目で追うことしかできない。
七瀬が教室の扉を引く直前、尾崎の方を振り返った。
「そういえば先生。先生の夢はなんだったっけ? 先生が発表しているとき、うとうとしちゃってて……」
七瀬がうたた寝をすることはまずない。おそらく、別の理由で聞いていなかったのだろうが、ここで問い詰める必要もないだろう。
「先生の夢は……」
「そっか。佳恋とおんなじだね! 素敵な夢だよ! じゃあ先生! また明日!」
七瀬は納得したようにクラスを出ていった。廊下を猛ダッシュする音が鳴り響く。七瀬家の門限に間に合わなかったら、きっと七瀬の両親から主任に連絡がいくだろう。
そして、尾崎は主任にどやされるだろう。
尾崎は開いた窓枠を背にして、おもむろに腰かけた。
主任に怒られる”S"ってかっこ悪いな、尾崎は不意に想像してしまって、ニカッと笑ってしまった。
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