―4月25日2005年

 引き金を引く瞬間、ゆずは遠い昔の記憶がフラッシュバックした。一瞬の内に映像が脳裏をよぎり、そのショックで瞳をきつく閉じた。

 雨は優しく雨避けを鳴らしていた。静かに規則正しい音色である。

 ゆずは引き金を強く引いたが、聞こえるはずであった火薬の爆ぜる音は聞こえてこない。静寂が辺りを支配していた。

 ゆずが恐る恐る瞳を開けると、誠一は自動拳銃の銃身を握っていた。スライドをわずかに後退させ、撃鉄が下りないようにしていた。

「……もう、いいだろう? 悪者は私一人で十分だ」

 彼は眉を寄せてゆずを見た。その顔は、わずかに苦しそうであった。

「…………」

 ゆずは拳銃から手を離し、その場に力無く膝をつく。

 そして力の限り泣き叫んだ。慟哭と言ってもいいくらい、腹の底から声を発した。

 あるいは、声は出ていないかもしれない。ゆずには解らない。それでも彼女は嘆き続けた。

 父親の顔が、浮かんで消えた。その父親の顔は、どれも笑っていた。

 そういえば。ゆずは泣きながら、冷静な心の一部分で考えた。

 そういえば、お父さんはずっとなにかを言いたそうにしていて、結局なにも言わなかった気がする。

 もしかしたら、あたしに謝ろうとしていたのかな。

 ゆずはそう思ったら、少しずつ心が軽くなっていったような気がした。

 そんなゆずの背中を、誠一は静かに撫でていた。その手がとても温かく感じ、父親の温もりを思い出した。

「……すみません。もう大丈夫です」

 ゆずはポケットからハンカチを取り出し、顔を拭った。大分心が落ち着いてきた。

 未だに彼女の心の中は整理がついていないが、それでも冷静に判断することは出来た。

「少しは落ち着いたようだな」

 誠一は無表情のままそう言って、彼女の顔を覗き込んだ。

 あんまり表情を変えない人だな。ゆずはそんなことを考えて、小さく笑った。

「……なにがおかしい?」

 憮然と言う誠一に、ゆずは曖昧な笑みを浮かべるだけで答えなかった。その代わり、言葉を溜めて彼女は言ったのであった。

「……ねえ。娘さんの事、愛してる?」

 ゆずがそう言うと、誠一はしばらく顔を伏せて考えていた。いや、考えているフリだろうとゆずは思った。照れを隠しているのだ。

「ああ。愛してる。仕事が忙しくて全く構っていないから、こんな事を言う資格はないかもしれないけどな」

 誠一ははっきりとゆずの顔を見てそう言った。

「……そっか。娘さんの写真とか、ありますか?」

 その言葉に、誠一はわずかに考えた後に、胸ポケットからパスケースを取りだし、ゆずに手渡した。

 パスケースの中に、少女の写真があった。中学校の入学式の前なのだろうか。学校の校門で緊張しているようで、固まった笑顔を見せていた。

「すごく可愛い娘ですね。お父さんに全然似てない」

「ああ。幸運にも母親似のようだ」

 ぶっきらぼうにそう答える誠一がなにかとても面白くて、ゆずは口元に手を添え、クスクスと笑い出した。

「……何がおかしいんだ?」

「なんでもないです。これおじさんが撮ったんですか?」

「ああ。一応、父親らしい所を見せないとかなと思ってな」

「娘さん、おじさんのこと大好きみたいですね。そう、顔に書いてありますよ?」

「そうか……」

 誠一がそう呟くと、ゆずは再び笑った。毒気が抜かれてくるのが自分でもよく解った。

「ちゃんと構ってあげないとダメですよ? でないと、あたしみたいになっちゃいますから」

「……そうだな。気をつけないといけないな」

 いつのまにか、雨は止んでいた。真っ赤な夕日が二人の頭上に輝いている。

 ゆずは一瞬己の心に説いた。どうする?

 その答えは、残念ながら出ることはなかった。

 しかし、彼女の考えは変わらなかった。

「……トモダチが待ってるから、もう行きますね」

 ゆずは雨避けから出て、誠一に軽く頭を下げた。

「これ」

 誠一は己の手の中にある拳銃をゆずに手渡した。ゆずはどうしようかわずかに考えた後、それを受け取った。

 そしてきびすを返して走り出そうとした。

「あ、最後に一つだけ」

 ゆずは思い出したように誠一のほうを向いた。その顔は真剣な表情に戻っている。

「ねえ、十四年経ったら、全部教えてもらえますか?」

 ゆずは静かにそう言った。十四年後。父親の殺人の時効が来るときである。

 誠一はその言葉にわずかに考える仕草をし、

「その時に私が生きていたらな」

「ダメよ。絶対に生きなきゃ。娘さんの為にも」

 ゆずは強い口調で言葉を残し、その場から走り去って行った。


          ・   ・   ・


 ゆずは走った。全力疾走で。

 彼女は晴れ晴れとした表情で住宅街を疾走した。

 完全に雨は上がり、彼女は軽やかに走っていた。

 途中、彼女は橋の中央で足を止めた。

 ポケットから拳銃を取り出し、しばらくそれを見つめ、川の中へと放り投げた。

 この結末を、李さんはどう思っただろう?

 ゆずは放物線を描き水面へと消える銃を眺めながら、そんなことを考えていた。

 その答えは出なかったが、それでもこれでよかったとゆずは考えることにした。

 ここで誠一を撃てば、今度は加奈子に恨まれることになる。そんな哀しい巡り合わせは、嫌だ。

 ゆずは再び歩を進めた。ようやく心は落ち着き、彼女はゆっくりと歩き始めた。

 途中彼女は思い立ち、カバンの中に入れていた携帯電話を手にした。雨に濡れたので少し心配だったが、電源は問題なく入った。奥の方に入れていたのがよかったのかもしれない。

 ゆずはすぐに由香に電話を入れた。

 電話はワンコールしない内に出た。

『ゆっち!』

 由香の慌てた声が聞こえてきた。

『ゆっち、なにしてたのよ! ずっと電話つながらないし……ずっと心配してたんだから』

 彼女は後半は声が震えていた。途中嗚咽が混じっており、電話の向こう側で泣いているのが解った。誠一の所に行くことは匂わせていなかったが、彼女には感じるところがあったのだろう。

 ゆずは苦笑した。こんなに心配してくれる友達がいたとは。

「ゴメンね由香。ちょっと、色々あったの」

『……どこに行ってたの?』

 由香のその問いを、ゆずは笑って誤魔化した。

「会ってちゃんと話すよ。それより由香、ちょっと聞きたいことがあるんだけど」

『なあに?』

「親との仲はどう? まだケンカとかしてる?」

 ゆずのその問いに、電話の向こう側はしばらく黙ってしまった。問いの答えを考えているのだろう。途中「うーんと」という声が聞こえてきた。

『えっと、今はそんなに悪くないよ。なんか一人暮らしで離れて暮らすようになってから、変わってきたみたい。私もお父さんとか大変なんだなーって思うようになったし』

「そっか」

 ゆずは笑い声を含んで言った。

『それがどうしたの?』

「なんでもない。それじゃあこれから行くから待っててね」

 ゆずは携帯電話を切って、歩を進めた。

 後で克美さんにも電話しとかなきゃ。

 ゆずはふとそう思った。

 もしかしたら、克美さんも気付いているかもしれないから。


 いつか、真実が解らなくてもお父さんを許せる日が来たら。

 墓参りに行こう。

 李さんはあたしを同類だって言ってたけど。

 確かにそうかもしれない。

 でも、あたしは生きることを選択した。

 ごめんなさい。

 ゆずはそう考えて、小さくくしゃみをした。


 完

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鉛の雨 福王寺 @o-zi

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