―1月12日2005年

 その日、ゆずは克美のアパートにいた。

 河合が昨夜麻薬密売の容疑で逮捕された。それを事前に知っていた克美は、その後に報道がゆずに集中する事を予想し、自分のアパートに避難させたのである。

 克美のアパートは郊外の住宅街にある。ワンルームの部屋で、ゆずの住んでいるマンションに比べると古い建物であったが、部屋の中は奇麗に整理されていた。

 白を基調に整えられたその部屋はとても女性らしかったが、部屋の隅のスチール製の本棚だけが、異質を放っていた。見てみると犯罪学や警察関連の本が並べられてあった。

 時刻は午前五時半。とても朝早い時間であったが、ゆずの頭は冴えていた。

 キッチンの方から物音が聞こえて来た。克美がお茶を煎れているようだった。

 ゆずはソファの前にあるテレビの電源をつけた。まだ早い時間なので、どの局もまだ放送していない。しばらくチャンネルを変え、ようやくオールナイトでニュースを放送している局にぶつかった。

 ニュースでは世界情勢を放送していた。ゆずはイライラしながらテレビ画面を見ていた。

「……まだニュースはやってないわよ。せめて六時くらいにならないと」

 克美はカップを二脚ガラステーブルに置いた。部屋に甘い香りが広がる。ゆずにはホットココア、自分にはコーヒーを入れたようであった。

「しばらくここに居ていいからね。私、今日は非番だから」

「……はい」

「なーんにも心配しなくていいからね。すぐに元の生活に戻れるから」

 克美はそう言って笑みを浮かべていた。

 しばらくして、朝のニュースが始まった。

「あ……」

『……ワールドプレイス社長、河合圭介容疑者が、麻薬取締法違反の容疑で逮捕されました』

 ニュースキャスターが事務的な口調でそう言っていた。

 画面が切り替わる。昔どこかのワイドショーで放送された、河合の自宅訪問の映像が流されていた。映像では河合は自信に満ち溢れた笑顔で、青年実業家としての生活振りを説明していた。

 次に帽子を深く被った河合がパトカーに乗り込むシーンが映された。深夜らしく表情までは解らなかったが、カメラのフラッシュに照らされて、一瞬だけ彼の顔が確認できた。画像もその瞬間で止まっている。

 河合は目の下に隈を作り、ギョロっとした目でテレビカメラを睨んでいた。先ほどの優雅な表情とは大違いである。

 テレビではワールドプレイスの一部社員も密売に関与しており、一年前に殺害された桜井秋彦との関連性を含めて捜査を行う予定だと言っていた。

「…………」

 ゆずは唇を閉めて、傍らにあったクッションを引き寄せて抱いた。克美は何も言わずにゆずの頭を撫でていた。

「……ねえ克美さん。あたしの父はコレに関与してたの? だから、殺されちゃったの?」

「……これから捜査するわ。まだ、解らない」

「そんな当たり障りのない事じゃなくて、ちゃんと答えて」

 ゆずの言葉に克美は口元を引き締めた。

「本当にまだ捜査中ではっきりとはしていないけど、ゆずちゃんのお父さんが密売に関係していたのはかなり濃厚みたい。でもどちらかというと河合が主犯で、お父さんはやめさせたがっていたみたいなの。それが原因で、ね。お父さんは被害者よ」

「でも、麻薬の密売はやっていたんですね?」

 ゆずのその言葉に、克美はしばらく間を置いた後に小さくうなずいた。「まだ確定じゃないけどね」と後から付け加えていた。

「そう……」

 テレビ画面はゆずのマンション周辺を映していた。いつも通っている道をテレビ画面越しに見るのはとても不思議な感覚だった。

「……間一髪だったね」

「…………」

 ゆずは無言でテレビを注視していた。

「あ、ゆずちゃん。面白いDVDがあるの。私若手のお笑いにハマっててね。一緒に見よ?」

 克美は努めて明るくそう言って、テレビの下の棚からDVDを取りだしてプレイヤーに挿入した。

 ゆずはもっとニュースを見ていたかったが、克美が気を遣って言っているのがよく解っていたので、それに従った。

 DVDはゆずの知らないお笑いコンビのライブの映像であった。克美の解説によると、若者の間では結構な人気らしい。ゆずが知らないという事に克美は驚いていた。

 DVDの内容はゆずの頭に入らなかった。しかし克美への配慮のために、彼女の笑い声に合わせて笑顔を作った。


 それから一ヶ月後、ゆずは再び中国人の街を歩いていた。

 河合の逮捕後、ゆずの家は家宅捜索され、秋彦が密売に関与していた証拠が見つかったようであった。しかしメディアの桜井一家への扱いは好意的であった。被害者であったという向きでの報道がほとんどであった。

 警察の調べで主犯は河合で秋彦はほとんど関与していなかったということはわかった。河合は未だに否認しているようであったが。

 メディアでは河合が唯一悪であると扱った方が都合が良いらしい。世の中をなめきっている金持ちの若者が、地の果てに転落するという作りにした方が面白いのだろう。どの放送局も河合を悪の権化のように扱い、秋彦はその被害者という立場で扱っていた。

 ゆずはその報道で、初めて会社での秋彦の印象が良い事を知った。社員想いで仕事一筋の真面目な人間。会社ではよく笑う気さくな人であったらしい。

 ゆずが向かった先は、いつも李と会っていたマンションであった。いつも目にしていた四〇三号室と表記された表札を確認し、ドアをノックした。

「ゆず?」

 中から聞こえてきたのは女性の声であった。

「はい。ゆずです」

 ゆずがゆっくりした口調でそう言うと、ドアが開かれた。

 中に居たのは小柄な、固い表情をした女性であった。彼女はゆずの顔を確認すると、部屋の中へとうながした。

「はじめまして。私、李のトモダチの、張麗です」

 小柄な女性は片言の日本語でそう言って頭を下げた。

 この張という名の女性から、ゆずに連絡があったのは、今から一週間前の事であった。その頃には桜井家に対する取材をするテレビ局もなくなり、ゆずは自分のマンションに帰っていた。その時に李との連絡用に使用していた携帯電話が鳴ったのである。

 電話の主は張であった。「渡したいモノがある」と、張はこのマンションに来るように言ってきたのである。

 相変わらず部屋の中には物がなかった。前来た時と同じようにソファがあるだけの部屋。以前来た時が遠い昔のように感じられ、その光景がすごく懐かしかった。

 ゆずがそうやって眺めている事に気付いたのだろう。張は固い表情のまま、口を開いた。

「アレが、李」

 張は窓のそばにある小さな木箱を指差した。

「……え?」

 ゆずは近寄り、その木箱を見つめた。両手で抱えるほどの大きさのその箱の意味を、なんとなくゆずは理解できた。

 張は無表情のままその木箱の上蓋を取った。中にはゆずの想像通り、真っ白な骨が入っていた。

「…………」

 ゆずは無言で両手を合わせた。李の骨は、日光を反射して、光り輝いていた。

「李、は死ぬ前の夜に、私の所に来た。そして、アナタに伝言を残した」

 そう言って張はゆずに「これ」と紙袋を差しだした。

 その紙袋は見覚えがあった。中を見ずとも、何が入っているのかわかる。念のため空けてみると、案の定小型の自動拳銃が入っていた。

「『これを、どう使うかはお前の勝手だ。私のカタキなど考えなくても良い』」

「…………」

 ゆずは無言で自動拳銃を眺めていた。

「ホントは私がカタキ、討ちたい。だけど、これは、李、の意思。だから、渡す」

 張は眉間に皺を寄せ、歯をくいしばっていた。

「……失礼かもしれませんが、張さんから見た李さんは、どんな人でした?」

「なぜそれを聞く?」

「いえ、なんとなくです。答えたくなければいいです」

 ゆずがその事を言うと、張は表情を落とした。無表情だった相貌が、次第に怒りと哀しみに満ちてきた。

「李はトモダチ想いのヤサシイ人だった。私、日本に来てからずっと仕事なくてお金なかったけど、李、は自分の分のゴハンを私にくれた。サトウがワルイ、んだ。サトウが李、を変えた」

 張はそこで言葉を切った。李を思い出しているのか、目を細めて宙を眺めていた。

「私、詳しい事は解らない。でも、李は、ヤサシイ人。大切な人を裏切らない。タブン、今は、トモダチと会えて喜んでいる」

 そう言って、張は涙を流していた。

 ゆずは掛ける言葉が見当たらず、ただジッと彼女の頬を伝う涙を眺めていた。

「本当は私が、カタキを、討ちたい。でも、李の、意思」

 張はそう言うと、きびすを返して部屋を後にした。これ以上は日本人に弱みを見せたくないのだろうか。顔をこわばらせて涙をこらえているようであった。

 一人取り残されたゆずは、無言で部屋を眺めていた。

 ここで李の声が聞こえないのが、とても違和感を覚えた。

 ゆずは紙袋から拳銃を取りだして、グリップを握った。その堅い感触に、少しだけ李の顔を思い出した。


          ・   ・   ・


 色んなことが、浮んで消えた。

 お父さんが死んで、李さんがいなくなって。

 それでもあたしは、真実が知りたかった。

 お父さんはなぜ殺されたんだろう。

 李さんは。

 あたしが知りたい事は、テレビは教えてくれなかった。

 カタキとか、あたしには正直解らなかった。張さんにも李さんにも申し訳ないけど。

 あたしは真実を知りたかったんだ。

 だから本当は拳銃なんて、捨ててもよかった。

 こんな物騒なもの、持っていないくてもよかった。

 でも、あたしは結局克美さんにバレないように保管して。

 今、あたしの左ポケットの中に入っている。

 だって、コレは李さんの分身だから。

 結局今もあたしの手のひらにある。

 李さんと一緒だ。

 だから、あたしはなにも怖くない。

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