―10月15日2004年

 その日、ゆずは今まで感じていなかった恐怖を少しだけ覚えた。

「…………」

 ゆずは初めて通る街並みを歩いていた。古びたビルが建ち並び、昼間だというのに薄暗い雰囲気がある街である。

 辺りを歩く人はいない。先程二人連れの男とすれ違ったが、彼らは中国語で会話をしていた。

 そこは中国人が多く居を構える街である。ゆずは後から知ったのだが、そこは日本の警察が介入しにくい街のようであった。そのような事実を知らずとも、異質な雰囲気をゆずは感じていた。薄ら寒くなり、ゆずは身震いした。

 出来るだけの早歩きをしながら、ゆずは指定されたマンションを探した。李に口頭で教わった住所を、地図片手に探していった。

 しばらくして、マンションは見つかった。

 五階建ての古いマンションだった。昔は真っ白な外装だったのだろう。しかし今は色あせ、淡い黄色になっている。外壁は所々ヒビが入っており、今にも崩れそうであった。

 このようなマンションに人が住んでいるのだろうか。ゆずはあまりに自分の住んでいるマンションとかけ離れたその外観に、建物を間違っているのではないかと疑った。しかし地番もマンションの名前も合っている。ゆずは意を決したようにマンションの中へ入っていった。

 指定された部屋は四階、四〇三号室だった。エレベータはないので、階段を上っていく。

 階段を上りきると、廊下に沿って一列にドアが並んでいた。ゆずは手前から三番目のドアの前に立ち、深呼吸を一つしてノックした。

 一拍置き、ドアが開かれた。

「ああ。よく来たな」

 部屋の中から姿を現したのは、李であった。彼は外と変わらずサングラスを掛けていた。

 李はゆずを部屋の中へと通した。

 部屋の中は整然としていた。いや、物が置いていないと言った方が適切であろう。キッチンの傍らに小さな冷蔵庫があり、キッチンと一帯になっている部屋には小さなソファとテーブル、ラジオしか置いていなかった。

「此処は普段使っていない部屋だ。だから、物がない」

 李はゆずの考えを先回りしたのだろう。唐突にそう言った。彼はゆずをソファに座らせ、冷蔵庫から缶コーヒーを取り出し、ゆずの前に置いた。

「あ、すみません」

「ああ。さて、具体的なハナシをしようか」

 李は己の分のコーヒーを開け、一口飲んだ。彼はゆずの向かいに立ったまま話始めた。

「基本的には私が佐藤を仕留める。だが、マトモに行くのは無理だ。ヤツは用心深い。よほどのことがない限りは隙を見せない。そこで、お前に協力をしてもらう」

「どんな協力?」

「私は佐藤を狙撃する。私は狙撃が得意だ。私が潜むポイントにヤツが来れば、絶対に外さずに仕留めることが出来る。そのポイントに誘導するのが、お前の役目だ」

「……どうやって誘導すればいいんですか? あたしが呼んでも来ないでしょ?」

「いや、お前が呼べば来るさ。『桜井秋彦の娘だ』って言えばな」

 その言葉に、ゆずは沈黙した。李を見ると、彼は口元で笑みを作っていた。

「コイツは殺し屋のクセに感傷的な男だ。自分が手を掛けた男の娘だって言えば怪しくても来るだろうさ」

 そう言って、李はコーヒーを一口含んだ。

 ゆずは眼前の缶コーヒーを見つめがら、ジッと沈黙を守っていた。色々な事が頭をよぎった。

 そして、一番心に残った事を訊ねる事にした。

「ねえ、なんであたしなんですか? 被害者の身内だったら誰でも……李さんでもいいんじゃないんですか?」

「……私じゃダメなんだ。お前じゃないと、ダメなんだよ」

 李はわずかに表情を落としたが、すぐに表情を戻し、やがて彼は缶コーヒーをテーブルに置いた。そしてゆずに詰め寄った。

「では私も聞くが。なぜお前は此処に来た? 素性も解らない男が犯罪の手を貸せと言っている。そんな男の部屋に、なぜ来る? 何をされるか解らないのに」

 李はさらにゆずに詰め寄った。腰を浮かせて逃げようとするゆずの肩を掴み、ソファに押し倒した。

「…………」

「ここは我々の街だ。助けを呼んでも警察は来ないぞ」

 ゆずと李はしばらくの間近い距離から見つめ合った。ゆずは李から目をそらさない。鋭い眼光で、李を見返していた。

 李は鼻を鳴らし、ゆずから身体を離した。

「度胸があるな」

「……別に」

 ゆずは李から目を逸らし、服装を正した。

 なぜか、この時はゆずは何も感じなかった。李が本気ではないことが伝わってきたのだ。

「安心しな。私は佐藤以外に興味はない。乱暴にしてすまなかったな」

 李はそう言ってサングラスを外した。わずかに影のある瞳で、ゆずを見ていた。

「……私は他人を信用しない。信用していたら、恐らく今まで生きて居られなかった。お前はテレビで見た。すぐに解った。同類だと」

「……前も言っていたけど、同類ってどういうことですか?」

「私には解る。佐藤を殺したがっているってな。お前自身、気付いていないかもしれないが」

 李はそう言って口の端を吊り上げた。

 ゆずはその言葉に応えなかった。ただジッと、眉を寄せて俯いていた。


          ・   ・   ・


 あたしが犯人を殺したがっている? まさか。そんなことはない。

 あたしは心の中でそう強く否定した。

 でも、それは言葉として外には出なかった。

 なぜ口から出なかったかは、ナントナク解っていた。もちろん今は完全に解るけど。

 あたしはその時こう思ったんだ。だから言葉が出なかったんだ。

 あたしが殺したいのは犯人なんかじゃない。

 お父さん、なんだ。

 やっぱり、同類かもしれないな。

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