―4月25日2005年
改札を抜け、ゆずが駅を出ようとしたときに小雨が降ってきた。
「…………」
ゆずは小さく舌打ちをして、一歩出そうとした足を引っ込めた。
地面が少しずつ濡れてきた。もう、何だって「今日」雨なのよ。ゆずは心の中でそう呟いた。
今日は天気予報では一日晴れのはずであった。なのでゆずは傘を持ってきていなかったのだ。
雨は小振りではあるが、止む気配はなさそうであった。夕方の帰宅時間なのでサラリーマンや学生の姿で混雑していたが、彼らは悩みながらも自宅に向かって走って行っていた。
後ろを振り向くと使い捨ての傘が売られている。ゆずはしばらく考えたが、そのまま走りだした。
ゆずは心の中で幾度となく舌打ちをした。雨の日は大嫌いだった。
一年前の、あの日を思いだしてしまうから。
あの日、桜井秋彦が殺害された日、ゆずの周りには様々な音があった。だけど、雨だけが奇妙にその時の光景と結びついている。元々雨が好きではなかったかもしれないが、雨音を聞くと、その時の父親の亡骸を思いだしてしまう。
感傷的になってはいけない。ゆずは自分の心を鼓舞しながら、一生懸命走った。
雨足が次第に強くなってくる。傘を買えばよかったと後悔する時には周りが見えないくらいの土砂降りになっていた。
ゆずは足を止め、前屈みになって肩で息をした。日ごろの運動不足が祟っているのだろうか。心臓がはちきれそうなくらい早鐘を打っていた。
少し寒気がしてきた。身体は完全に濡れ、冷えきっていた。
このままでは風邪を引いてしまうかもしれない。
ゆずはそう考えている自分に気付き、苦笑した。
もう、風邪なんて関係ないのに。
ゆずは煙草屋の店先で雨宿りをする事にした。辺りに雨宿り出来る場所はなく、そこしかなかったのである。煙草屋はシャッターが閉められて、ひっそりとしていた。
近づくと、そこに先客が居る事に気付いた。背の高い男である。ゆずよりもずっと年上であろう。眼鏡を掛けたその男も、突然の雨から逃れてきたのだろう。
男はゆずの存在に気付き、目が合った。その瞬間ゆずの身体中に電撃が走った。彼女の目が大きく見開かれる。
ゆずはその男に見覚えがあった。
いや、見覚えがあるというレベルではない。
佐藤誠一、だ。
ゆずは心の中で呟いた。
誠一はゆずと目が合うと、さりげなく右方向に身体をずらし、スペースを開けた。
「あ、すみません」
ゆずは頭を下げ、男の隣に身体を収めた。
身体の震えが止まらなかった。心臓も、さきほど以上に早く脈打っている。
それらは走ってきたからでも、雨に濡れたからでもない。それはゆずには十分すぎるほど解っていた。
まさかこんなところで会うとは思わなかった。まだ心の準備が出来ていない。うまくいくだろうか。ゆずは震えを止めるように身体に言い聞かせるが、そんな思いと反して彼女の身体は小刻みに震えていた。
「大丈夫か?」
「え、ええ、大丈夫です」
ゆずは声が上ずっていないか心配であったが、思いのほかスムーズに声を出す事が出来た。ゆずは左ポケットの中を探り、目的の物をしっかりと握った。硬質な強化プラスティックの感触が、彼女の心をほんの少しだけ落ちつかせた。
それでも、彼女の心臓は、今にも破裂しそうなくらい早鐘を打っている。
・ ・ ・
まさか、こんな所で会うとは思わなかった。
まだ、全然心の準備が出来ていないよ。
この人は自分の事を気付いているだろうか。
佐藤誠一はずっと空を眺めていたので、なにを考えているのか、全然読めなかった。
ただ、この人が佐藤誠一なんだって、心の中で何度も何度も思った。
佐藤誠一。
お父さんを殺したのかもしれない人だ。
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