―4月25日2005年

 開け放たれた窓から、少し冷たい風が入ってきた。オレンジ色の薄いカーテンが、ゆらゆらと不規則に揺れている。外は抜けるような晴天のようだった。電灯をつけていないリビングにも春の陽光が注ぎ込んでいる。

 ゆずはリビングのソファに座りながら、ジッと揺れるカーテンを眺めていた。

 とても静かであった。遠くで鳥のさえずりが聴こえてきた。

 静かに、ゆっくりと時間は流れていく。恐らくもう昼過ぎくらいであろうか。朝からずっとソファで過ごしているゆずには、時間の感覚もなかった。

 彼女は頭の中を空っぽにして、ただ時間が過ぎるのを待っていた。

 不思議と心は落ち着いていた。それが彼女自身、少し驚いていた。

 もっと色々考えるかと思った。意外と度胸があるんだな。

 ぼんやりとそう考えていると、不意にチャイムが鳴った。ゆずは身体を起こし、部屋の隅にあるモニターを見た。

 そこには佐藤克美が映っていた。マンションの入り口の映像である。

 ゆずは彼女の姿を確認すると、入り口のセキュリティを解除した。自動ドアが開き、マンションに入っていくのが見えた。

 克美は桜井秋彦殺害事件の時に、ゆずに付いた警察官である。それ以来、公私ともにゆずを気に掛けてくれている。

 今日も非番を利用して、ゆずの代わりに秋彦の一周忌に出席したのである。

 ゆずは秋彦の一周忌には行かなかった。どこでやっているのかもわからない。知りたくもなかったのだ。

 秋彦が殺害されてから、彼の残した財産分与で大いに揉めた。ゆずが見たこともないような親族も急に親しげにゆずの家に現れるようになった。

 秋彦の遺産がどのように分けられたのか、ゆずはわからなかった。ただ、克美が間に立ってくれたお陰で、今まで住んでいたマンションと大学卒業までの生活費は確保できたようで、彼女の生活に変化はなかった。

 あんな人達が集まる一周忌など、行きたくもなかった。そして、父親を弔う気にもなれなかった。

 再びチャイムが鳴った。モニターを見ると今度は家の前に克美が映っていた。玄関に移動し、ドアを開けた。

「ゆずちゃん、こんにちは」

 克美は黒いスーツを着ていた。少し疲れたような笑顔を浮かべていた。

 ゆずは克美をリビングに通し、紅茶を差し出した。ソファに腰をかけると、克美はようやくひと心地ついたように深い息を吐いた。

「お父さんの一周忌、終わったよ」

「そうですか」

 ゆずは興味がないように短く返事をし、向かいのソファに座り、自分用の紅茶を口に含んだ。

「ゆずちゃんはもう少ししたら出かけるんだっけ?」

「うん。由香と誕生日のお祝いをします」

「そう。あ、そうだ」

 克美は思いだしたように傍らに置いてあった革製の黒いカバンの中を探った。中から細長い包みを取り出した。

「これ、誕生日プレゼント。このカッコで言うのも変だけど……お誕生日おめでと」

「え? わ、ありがとうございます」

 ゆずは顔をほころばせて包みを解いた。そこには小さな石が付いたペンダントが入っていた。とても繊細なデザインで、陽光を反射して光り輝いていた。

「……いいんですか? こんな高そうなもの」

「もちろん。ゆずちゃんに似合うかなって思って。時々はつけてもらえると嬉しいな」

「今日つけていきますよ。ありがとうございます」

 そう言ってゆずはペンダントを身につけた。鏡で自分の姿を確認し、小さく笑った。

 そんな彼女を見て、克美も嬉しそうに笑った。硬化していた空気が緩和されたような気がした。と、ゆずは壁に掛けられた時計を見て、小さく声をあげた。時計は四時一五分を差していた。

「あ、もう行かなきゃ。……すみません。せっかく来てもらったのに」

「いいよいいよ。由香ちゃん待たせちゃ悪いし」

 克美は紅茶を飲み干し、腰を上げた。

「……ちゃんと由香ちゃんの所に行ってね?」

 ゆずはその声に答えることはなかった。彼女もまたソファから立ち上がり、二人揃って外へと足を向けた。

 聞こえなかったのか。克美はそう思い、それ以上何も言わずにゆずと歩調を合わせた。

 マンションの前まで出ると、二人は足を止めた。

「それじゃあ克美さん。また今度」

「うん。……一人で由香ちゃんの家に行ける? 私も一緒に行こうか?」

「やだな克美さん。一人で行けるに決まってるじゃないですか」

 ゆずが笑うと、「そうよね」と克美も苦笑した。

「あ、そうだ。克美さん」

 ひとしきり笑った後に、ゆずは克美の顔を正視した。

「親の一周忌に顔も出さないでトモダチの家に行こうとしているあたしって、オヤフコウモノですか?」

 ゆずは真顔であった。わずかに表情を失い、静かに克美を見ていた。

 克美は慌てて首を横に振った。

「そんなことないわ。変なこと考えちゃだめよ」

「ん。ありがとうございます。それじゃ、行ってきます」

 ゆずは笑みを浮かべて手を振り、走っていった。

「…………」

 克美の目からはゆずの姿が次第に小さくなっていった。その後ろ姿をずっと見つめていた。


 バレなかったかな。ゆずは走りながら、そう考えていた。

 克美が家に来てからというもの、ゆずの心に落ち着きはなかった。一応、外には出していない自信はあったが、それでも克美に気付かれるのではないかと気が気ではなかった。

 とりあえずは大丈夫かな。ゆずはそう思い、息を吐いた。

 ゆずは大通りに出て、地下鉄乗り場の階段を掛け降りていった。改札を通り、ホームで電車を待った。

 その電車は、由香の家とは反対の方角に行く。ゆずは出来るだけ目立たない階段の陰で待っていた。

 不意にカバンの中の携帯電話が鳴った。見てみると、由香からメールが来ているようだった。


 おいしいもの用意して待ってるからね。

 ぜったいぜったいぜーったい来てね  yuka


「…………」

 ゆずは由香からのメールを見ると、わずかに表情を落とした。

 ごめんね。

 携帯電話をしっかりと抱きながら、ゆずは瞳を閉じ、心の中で由香に謝った。

 ごめんね。由香の気持ちはすごくよく判るし、ありがたいんだけど。

 でも、ダメなんだ。

 ゆずは目を見開き、歯を食いしばりながら携帯電話の電源を切った。そしてカバンの奥底に仕舞いこんだ。

 ちょうどその時、電車がホームに入ってきた。少しして電車は止まり、ゆずからわずかに離れたところで扉が開いた。

 ゆずはその電車に乗り込んだ。

 その瞳に迷いはなかった。


          ・   ・   ・


 由香のメールで少し心が動いたけど。

 でも、やっぱり行かなきゃダメなんだ。

 じゃないと、あたしがあたしじゃなくなっちゃう。

 そんなのダメだ。

 タマシイを殺してまで生きて、何になるの?

 電車の中で、あたしはジャケットの左ポケットの中を確認した。

 そこには堅いモノが入っている。

 後もう少し。後もう少し。

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