―4月25日2005年

 しばらくの間、沈黙が続いていた。誠一が静かに空を眺めていると、鳥が一羽雨に濡れながら空を滑空しているのが見えた。

 雨は多少落ち着いてきた。次第に空が明るくなってきた。もうすぐ止むのであろうか。

 誠一が隣りに意識を集中すると、ゆずは深く深呼吸をしているようであった。

 そろそろ来るのか。誠一は表情を変えずにわずかばかりの心の準備を行った。

 やがてゆずが口を開く。

「なんで、お父さんを殺したんですか?」

 ゆずはそう言って誠一を正面から見据えていた。

 概ね、予想通りの言葉であった。茶番は終わりということか。

 誠一は無表情のまま空を眺め、やがて口を開いた。

「先程言ったとおりだ。運が悪かったんだ」

 そうとしか、言いようがない。まさか自分の口から事件の真相を伝えるわけにはいかない。それは、自殺行為に等しい。誠一から伝えられる、精一杯の言葉であった。

 しかしそんな誠一の気持ちを解らないのであろう。ゆずは口元を歪め、左手を誠一に向けた。

 彼女の手に握られているのは、誠一の予想した通りの物であった。

 またしても予想が当たってしまった。なぜこんなに嫌な予想はよく当たるのだろうか。誠一は表情には出さずにそう思い、心の中で苦笑した。

 そうであるなら、この後に起こることも、予想通りになってしまうのであろうか。

 誠一は右手の指をわずかな動作でジャケットの裾の中に入れた。左側にいるゆずからはその動作は見えないであろう。

 裾の中から出された指には、小さな折り畳みナイフが握られていた。彼はそのナイフを手のひらにそっと隠した。

「あたしは、本当のことが知りたいんです。教えてもらえませんか? なんで父が殺されたのか」

 誠一は右手のナイフを持ち直した。音を立てずにブレイドを起こす。心の中で近い未来の出来事を想像した。

 ゆずの頸部にナイフが突き刺さっている姿が想像出来た。はっきりと心の中に具現化した後に、彼はゆっくりと口を開いた。最後に、確認したい事がある。

「君は、お父さんの事をどう思っている?」

 誠一がそう訊くと、ゆずは不意をつかれたようで眉を寄せていた。

「あたしの質問に、答えてください」

「いいから。君は、お父さんの事をどう思っているんだ?」

「……大っ嫌いよ。あんな人。向こうもあたしのこと嫌いだったみたいだし、これもソウシソウアイっていうのかな?」

 ゆずはそう言って、乾いた笑いを上げていた。その顔は、複雑に歪んでいた。

 一瞬、秋彦の顔が浮かんだ。ゆず、と呟いた最後の顔が。

「……哀しいな。君のお父さんは、君の事を愛していたぞ?」

「ウソ! そんなわけない。あたしにはそうは見えなかった」

「私にはそう見えたが。君の幸せを誰よりも願っていた」

「じゃあ、なんであたしは独りだったの? あたしは、なんでサミシイ思いをしなきゃならなかったの?」

「言った通りだ。運が悪かったんだよ」

 誠一はそこまで言うと、瞳を閉じた。

 哀しい親子だ。お互いの気持ちを押し隠して、「嫌いだ」と言い合わなければならないのだから。

 彼らに「悪」はないのに。

「可哀相に」

 誠一は、無意識のうちにそう呟いていた。ふと、心から自然と出た言葉であった。

「可哀相?」

 その言葉に、ゆずは強く反応した。大きく顔を歪め、やがて口元だけで笑みを作った。

 まずい。誠一は左手を振り上げて、ゆずが持ってる物を強く掴んだ。

 辺りはシンと静まり返っている。先程までと同じように、雨音だけが響きわたっていた。

 誠一は口の奥で小さく舌打ちをして、ゆずの方を向いた。

 ゆずの顔は大きく歪んでいた。瞳はきつく閉じられ、何かを耐えるように、歯を食いしばっていた。

 なぜこんな小娘が、このような顔をしなければならないのか。誠一はわずかに表情を落とし、唇を噛んだ。

 誠一はしばらく考えた後、右手の折り畳みナイフを元のジャケットの裾に仕舞った。そして左手はゆずが持つ物を握りながら、彼女が気付くまで待った。

 ゆずがゆっくりと瞳を開けた。目の前の状況に、軽く驚いているようだった。

「……もう、いいだろう? 悪者は私一人で十分だ」

 誠一がそう言うと、彼女はしばらく沈黙し。やがて膝をついて泣き出した。

 口を大きく開け、泣き叫ぶように息を吐いていた。しかし、彼女の慟哭は声として外に出ていない。ただ、深く息を吐いているのみであった。

 もうずっと泣いていないのだろうな。泣き方も忘れてしまったか。

 誠一はそう思いながら、彼女の背中を軽くさすった。


・    ・    ・


「…………」

 誠一は傍らに設置してある公衆電話に手を伸ばした。

 テレフォンカードを差しこみ、ボタンを押す。電話はすぐにつながった。

『もしもし?』

 声の主は高村であった。

「ああ。佐藤だけど。ゆずをやる必要はなくなった。彼女の中から私への気持ちがなくなったようだ」

 誠一は辺りを眺めながら、言葉を選んでそう伝えた。

 あの後落ち着きを戻したゆずは、しばらくのやりとりの後に天野由香の元へと去っていった。恐らくもう二度と己の元へ来ないだろう。

『なにかそっちであったのかい?』

 高村はいぶかしそうにそう聞いてきた。

「いや、なにもない。ただ、必要がなくなった、それだけだ。もらった前金もいずれ返す」

『ああ。それは別に返さなくていいけど……でもなあ……』

「いずれにせよ、私は降りる。このような意味のない仕事は私は好きではない」

 何やらブツブツと呟いている高村に、誠一ははっきりと答えた。釈然としない所があるものの、何を言っても誠一の言動がくつがえらない事を把握したのだろう。高村はため息混じりに「解ったよ」と呟いた。

『解った。じゃあ契約は破棄しよう。別にこっちも殺したところでメリットはないし、もう放っておく事にするよ』

「そうか。わかった」

 誠一は抑揚のない声でそう言った。

『だから、調べすぎるなと普段から言っているんだ』

「なんのことだ?」

『いや、いいよ。じゃあ俺は忙しいからこれで切るぞ』

 誠一は短く返事をして、受話器から耳を離そうとした。その時、「佐藤」と高村から呼び止められた。

「なんだ?」

『丸くなったな』

 そう言う高村の声は幾分明るかった。とても、「仕事」の話を一方的にキャンセルされた男の口調ではないように感じられた。

「なんのことだ?」

『別に、なんでもない。じゃあな』

 今度こそ、電話を切られた。誠一はしばらく受話器を持ったまま立ち尽くしていたが、やがて自宅の方へと歩いて行った。

 丸くはない。

 そう、心の中で思いながら。

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