―4月25日2004年
朝から空は厚い雲で覆われている。しとしとと、静かな雨が街の音を掻き消していた。
誠一は自室の机に向かいながら、瞳を閉じて雨音に神経を集中していた。
それは彼の一種の儀式であった。己と向き合って心を鋭化させてゆく。己の立てた計画に破綻がないか、不足がないか。それをゆっくりと確認する。
それが「仕事」を行う日の誠一の日常であった。
二〇〇四年四月二五日。桜井秋彦を殺害する予定の日である。その日の夜に決行される。
四月二四日、ワールドプレイスと富沢組の最後の取引が行われた。その日の取引を以て、両者の取引は無期限で停止することとなったのである。
その意思決定を行ったのは、他でもない桜井秋彦であった。もちろん河合は猛反対したが、合意しなければ警察に全てを打ち明けるという秋彦の強行に、渋々ながら頷いたようであった。
最後の取引が決定したのが四月二日。そして殺害の決行日を高村から聞かされたのが、その翌日である四月三日。つまりは河合の気持ちが治まらなかったのであろう。
今日か。誠一は椅子の背もたれに身体を預けて、深く眉間に皺を寄せた。
誠一には気付いていた。なぜ秋彦ががその日を最後の取引にしたのか。
秋彦は富沢組との最期の取引を、四月二四日に指定してきた。本来なら五月上旬の予定であったが、それを彼が早めたのである。理由は仕入れた覚醒剤を出来るだけ早めに売った方が良いということであったらしいが、恐らくそれは方便であろう。
彼はその日までに全てを精算したかったのであろう。
昨夜遅くに高村から連絡があった。その日の取引には、秋彦の姿があったようであった。普段なら河合に一任して自分が現場に行くことはないらしいのだが。
とても毅然とした態度で場を取り仕切り、はっきりと最後の取引の旨を伝えたようであった。
誠一がそう考えていると、不意に自宅の電話が鳴った。誠一は手を伸ばし、机に置いてある電話を取った。
電話の主は高村であった。
『やあ、元気にしているかい?』
彼の声は普段と変わらず落ち着いていた。
「まあな。何のようだ?」
『つれないなあ。ちゃんと仕事の話だよ。先程河合から連絡があった。桜井の荷物は無事受け取ることが出来たそうだ。今は倉庫の奥に置いてあるらしい』
「そうか。もうそんな時間か」
誠一は短くそう答え、手前にある置き時計を見た。デジタルのその時計は午後四時三〇分を記していた。
秋彦は今日、夕方に配送を依頼している荷物を受け取って帰宅する予定になっている。その荷物は私用らしい。荷物は一旦社長秘書が預かる事になっている。
その秘書は河合派の内偵である。秘書が秘密裏に荷物を隠し、配送が遅れている旨の連絡があったと虚偽の報告をする。
そしてオフィスに人が居なくなる午後七時、配達員に扮装した誠一が秋彦の元へ行く。そういう手はずになっている。
『この調子だと予定通り行けそうだな』
「そうだな」
『あ、そうそう。桜井が頼んだ荷物の中身、なんだと思う?』
「さあ」
『包装されているから詳しくはわからないけど、でかいぬいぐるみだったんだって。愛人にでも贈るのかねえ』
高村は小さく笑っていた。
「……本当にわからないのか?」
『は? 何が?』
「いや、なんでもない。じゃあ予定通り今日決行する。じゃあな」
誠一は電話を切って机に置いた。
なぜ、わからないのだろう。
今日は、桜井ゆずの誕生日であるのに。
「ただいまー」
と、玄関の方から声が聞こえた。加奈子の声であった。
誠一は腰を上げて身支度を始めた。もう、出かけなければならない。
軽い準備が終えた誠一は自室を後にした。
加奈子はリビングに居た。誠一の姿に気付くと、彼女は飛び跳ねるようにして誠一に近づいてきた。
「お父さん、ただいま。あのね、今日はね」
「加奈子」
誠一は今日の出来事を話したがっている加奈子を制した。
「これから出かけてくる。恐らく帰りは夜遅くなると思うから。飯を食べて適当に寝てくれ。施錠はしっかりしておくんだぞ?」
加奈子は一瞬寂しそうな顔をしたが、すぐに笑顔を作って「はあい」と答えた。その笑顔は少し無理をして作っているようであったが、誠一は気付かない振りをした。
「それでは行ってくる」
誠一が玄関へと足を運ぶと、その後ろを加奈子がついてきた。
「ああ。加奈子」
玄関のドアを開ける途中、誠一は何かを思いついたように振り返った。
「そういえば昔、ぬいぐるみを買ったような気がする。確か誕生日か……クリスマスか。あれ、まだ持っているか?」
「持ってるよ。一昨年の誕生日だよ」
「そうか。それ、見せてくれないか?」
加奈子は「うん」と返事をし、自分の部屋の方へと走っていった。
彼女は熊のぬいぐるみを抱えて戻ってきた。身体のほとんどが隠れるほどの大きさであった。
そのぬいぐるみを見て、買った当時の事を思い出した。それは彼女がどうしても欲しいとねだられて買ったのだ。あまりに大きくて配送を頼もうとしたが、自分で持って帰るとうるさくて、結局加奈子が少し引きずりながら持って帰った物である。
「これがどうしたの?」
「いや、なんでもない。ただ気になってな。じゃあ行ってくる」
「行ってらっしゃい」
加奈子はぬいぐるみの両手を持ち、ぬいぐるみの手を振っていた。
誠一はそれを見ながら家を後にした。
扉を閉めた瞬間、誠一の表情はその顔から抜け落ちていた。
「仕事」の顔になっていた。
それから、私は富沢組所有の雑居ビルに足を運んだ。そこに高村が用意した配送会社に似せたトラックがある。
計画は予定通り進んでいた。定刻通りワールドプレイスの前にトラックを止め、桜井誠一の居る社長室に向かった。
桜井秋彦は電話をしていた。恐らく桜井ゆずに電話していたのであろう。
私の正体を知ったとき、彼は全てを諦めた顔をして、電話に予約のキャンセルを伝えていた。
私はせめて、電話が終わるまではとしばらくの間待った。桜井秋彦も、すでに覚悟は出来ているのであろう。特に取り乱すことはなく親子の最期の会話が続けられた。
時計の針は七時二七分を刻んでいた。もう、余り時間の猶予はない。私はそう思い、電話の途中ではあるが、「仕事」をこなそうと考えた。出来れば発覚を遅らせるためにも、電話は違和感なく終わらせてもらいたかったのだが。
幸い桜井秋彦にはその意向が伝わり、電話をすぐに切り上げた。
私は刀を振り上げ、彼の肩口を狙った。
後もう少し。後は彼を仕留めて逃走を図るだけである。
その時桜井秋彦は、ある言葉を発した。
私はこれまで行った「仕事」の瞬間を忘れることはない。今まで行った全てを覚えている。それが己の身を守る事になるからである。
しかし、桜井秋彦の「それ」は、今までのどれよりも鮮明に覚えている。
もしかしたら、一生忘れないかもしれない。
・ ・ ・
秋彦と対峙した誠一は、ゆっくりと刀を振り上げた。もはや秋彦は抵抗する素振りを見せなかった。わかっているのであろう。助けを呼んだ所で、犠牲者が増えるだけだということが。
誠一は狙いを定め、刀を持つ手に力を込めた。
「なあ……」
その時、秋彦がかすれた声で口を開いた。その声は聞き取ることが困難なほど小さかったが、彼にとっては精一杯の声量なのだろう。
誠一は一瞬考え、次の言葉を待った。まだ、幾ばくかの余裕はある。
「私の娘は、君の予定には入っているのか?」
「……いや、私は貴方の殺害しか依頼されていない。無駄な殺生はするつもりはない」
誠一のその言葉に、秋彦はホッとした表情を見せた。
「娘が心配か?」
「いや、別に」
秋彦は我に返り、表情を硬化させて誠一を見つめた。
「私は娘が大嫌いだ。だからどうでもいい。ただ、少し気になっただけだ。忘れてくれ」
震えるような声で秋彦は言った。その言葉が、明らかに本心ではないことを、誠一は容易に感じることが出来た。
「無理しなくても良いぞ? 自分の弱みだと悟られないようにしていたのだろうが」
「大嫌い、だよ」
次第に秋彦の声はしっかりとしてきた。声量も、先程よりも大きくなっている。
そしてそれに伴い、彼の瞳からは大粒の涙が流れた。涙は頬を濡らし、そして一滴落ちた。
「大嫌いなんだよ」
涙は止めどなく流れていった。彼は嗚咽を漏らしながらも「嫌いだ」と連呼していた。
その手には、携帯電話がしっかりと大切そうに握りしめられていた。最期に親子を結んだ道具である。
誠一は表情を削ぎ落とし、再び刀を持つ手に力を込めた。
「せめて、痛みは与えない。天国でゆっくりしな」
誠一は刀を振り下ろした。
彼の最期の言葉が、耳から離れなかった。
刃が肉体に食い込む寸前、かすれた声でこう言ったのだ。
ゆず、と。
桜井秋彦の最期の言葉は、娘の名前であった。
妻であった桜井冬子の名ではない。
そのことに対して、天国で再会した桜井冬子は怒るであろうか?
いや、恐らく許すだろう。
なぜなら桜井秋彦は一六年間、一日も欠かすことなく桜井冬子の墓を参っていたのだから。
やはり、この家族には運がなかったのだろう。
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