―4月25日2005年

 誠一はすぐに「それ」に気付いた。

「おじさんはなんのお仕事されてるんですか?」

 ゆずにそう聞かれ、誠一はわずかに眉をひそめた。しかし、その変化はほんの微妙なもので、外からは彼の心の変化をうかがい知ることはできなかった。

「翻訳の仕事をしている。まあ、あまり儲かる仕事ではないがな」

「へぇ、すごいですねえ」

 誠一の言葉にゆずは大げさに驚いていた。

 まるで茶番だな。誠一はゆずに翻訳の仕事について語りながら、心の中で苦笑した。

 お互いがお互いを知らないフリをして、身の上話を話す。こんな馬鹿げた茶番が他にあるであろうか。

 今話した自分の表の仕事など、桜井ゆずが知らないわけがないであろうに。

 彼女が自分を「佐藤誠一」だと気付いていると、誠一は確信していた。だからこそ、お互い当たり障りのない身の上話は話しても、核となるお互いの家族については話を出さないのだ。

 誠一はゆずを横目で見た。彼女の左手は、彼女のポケットに収まっている。先程からずっとそうだった。

「……その左手に握っているのはなんだ?」

 誠一がそう言うと、ゆずはわずかに驚いたような顔をした。彼女は一瞬間を置き、笑顔を称えながらポケットから左手を取り出していた。

 そこにはハンカチが握られていた。

「もう濡れちゃって使いものにならないんですが、なんか掴んでいると落ちつくんですよ」

 彼女は四つ折りされたハンカチをさらに二つに折り、そのハンカチを握るような仕草をしていた。

「ああ。そうだったか。すまんな。ちょっと気になったもので」

 誠一が軽く頭を下げると、ゆずは「いえ、大丈夫ですよ」と笑顔で手を振り、ハンカチをポケットの中に仕舞った。

 そして彼女はそのまま左ポケットの中でなにかを握っていた。一瞬ハンカチを離し、別の物を握ったようにしているのを、誠一は見逃さなかった。

 そこにお前の「拠り所」があるのか。

 誠一はそう思ったが、言葉には出さなかった。


          ・   ・   ・


 私は「仕事」に感情を持ったことはない。

 私にとって、生き死には日常の一つにすぎない。

 殺人に才能があるとすれば、それは「死」に禁忌を感じるか否かにあるだろう。幸か不幸か、私にはその才能があった。私は歯を磨くのと同じように、顔を洗うのと同じように「仕事」をこなすことができる。そこに感情は発生しない。

 私にしてみれば快楽で殺人を行う人間は同種ではない。同種にしてもらっては困る。あんな奴等には破滅しか待っていない。

 私は「殺人」のプロだ。恐らく理解はされないであろうが、「これ」に誇りも自信も持っている。

 私は「仕事」に感情を持ったことはない。

 しかし、今回は例外になりそうだ。

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