―4月25日2004年
昨日から続いている雨は、その日の夜になっても静かに地面を濡らしていた。
さながら、これから起こるであろう惨状を察知した神が、涙を流しているようであった。
ワールドプレイスの会社近くは非常に閑散としていた。辺りはオフィス街だが、比較的残業の少ない会社ばかりが集まっているのであろう。七時を回ろうとしているその時刻にはすでに灯りを消しているビルも少なくなかった。
街灯も少なく、夜になると真っ暗になってしまう。そのために遅くまで残ってしまった女性社員などには一人歩きが怖いからと、最寄り駅までのタクシー代を請求されている会社もあった。
ワールドプレイスもその問題には敏感で、出来る限り社員を残業させないようにと努めている。もちろん社員は終わらない分の仕事を、家に持ち帰ってやらざるを得ないのだが。その日も、会社に残っているのはわずかばかりの社員と、社長である桜井秋彦のみであった。
会社前の道路にトラックが停車した。全国展開している大手の運送会社のトラックである。
トラックの運転席から男が姿を現した。佐藤誠一だ。運送会社の青色の制服と帽子を被っている彼は、トラックから下りるとすぐに荷台から細長い荷物を取りだした。
「…………」
誠一は帽子を深く被り直し、荷物を小脇に抱えてビルの中へと入っていった。
入り口とエレベータでそれぞれIDカードをかざし、セキュリティを解除して中へと入る。エレベータを昇り、会社のある二五階で下りた。
エレベータの前は閑散としていた。すでに外向けの営業を終了している社内は、エネルギー節約のためか不要な灯りを消しており、非常に薄暗かった。受付も空になっていた。
誠一は受付を抜け、平然とフロアの中へと歩いていった。フロアには誰もいなかった。パソコンのファンの音のみがひっそりと辺りに響いている。
そのまま堂々と歩き、フロアの一番奥にある扉の前で足を止めた。「社長室」と明記されている。
ノックもせずにドアを開ける。そこには桜井秋彦がデスクに腰を掛け、携帯電話で電話をしている途中のようであった。
秋彦は誠一の姿を確認すると、受話器を手でふさぎ、「そこに置いてくれ」と彼の傍らを指差していた。彼の電話はまだつながっていないようだ。視線を宙に置き、無言で電話を耳に当てていた。
誠一は扉を閉め、部屋の中へと入ってゆく。荷物の包装を破り捨てた。
荷物の中身は日本刀であった。誠一は刀を握って秋彦と対峙した。
それに気付いた秋彦は、目を見開いて椅子ごと後ずさった。
『もしもし?』
と、ここで電話がつながったらしい。誠一の耳にもかすかにスピーカーから洩れる音が聞き取る事が出来た。しかし、秋彦は言葉を発さない。無言で誠一を見つめていた。
誠一は秋彦に向かって合掌をし、刀を抜いた。蛍光灯の灯りに、その刀身は妖しく光っている。
しばらくの間、二人は見つめ合っていた。
「あ、ああ」
やがて秋彦は誠一から目をそらさないまま、電話口で返事をした。
「そうか……なあ、ちょっと抜けられない仕事が出来てな。そっち行けそうにないんだ……申し訳ないけど一人で食べてもらえないかな。本当にすまん……ああ。すまないな」
誠一は壁に掛けてある時計を一瞥した。七時二七分、これ以上は待つ事が出来ない。彼は刀を構え、一歩前に出た。
「あ……」
秋彦は声を上げて立ちあがった。
「あ……いや、なんでもない。帰り道、気を付けてな」
秋彦はそう言うと、電話を切った。
しばらく二人は机を挟んで対峙していたが、やがて秋彦がため息をつき、机を回りこんで誠一の前に立った。
「……すまんがもう一日だけ、待ってもらえないか?」
誠一は静かに首を横に振った。
「そうか。残念だ」
秋彦は息をつき、誠一を正面から見据えた。その目はとても静かで、澄んでいた。
恐らく、もう覚悟はできているのだろう。誠一はそう思って刀を振り上げた。
・ ・ ・
私の「仕事」。それは人を殺めることである。
そう。これは「仕事」である。だから私は対象者に対して一片の感情も抱いていない。
ただ、依頼されたから殺めるのだ。
当然この者がなぜこの世から去らねばならないのか、その事情は知っている。
桜井秋彦がどのような気持ちで私に向き合っていたのか、私は知っている。
だが私には関係のないことだ。
ただ、それが「仕事」なのだから。
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