―4月25日2005年
「……ああ。悪いが今日は止めておく」
佐藤誠一は公衆電話の受話器を握り、冷静な口調でそう言った。
『了解。じゃあ今日のところは引き上げるよ』
電話の相手は急な予定変更の理由を聞くことも、異論を唱えることもなかった。誠一の気持ちは十分に分かっている。その「勘」に逆らうことはない。
「すまんな。急に予定を変えてしまって」
『気にすんな。そう思った時はやめときゃいいんだよ。俺にも心当たりはあるし』
電話の相手はそう言ってかすかに笑い声を上げた。
『ヘタを踏むよりもずっといい。じゃあ今日のところはゆっくりしときな。加奈子ちゃんも家で寂しくしているんだろ?』
「大きなお世話、だ」
『ははっ。まあ、また予定が決まったら連絡くれな。今日は引き上げるから』
「ああ。悪いな」
誠一はそう言って受話器を置いた。ため息をつき、ずれ落ちそうな眼鏡を直しながら、薄暗い空を眺めた。
雨の勢いは次第に強くなってきた。今や完全な土砂降りになっていた。
今日は「仕事」を止めておいて正解であった。どうも心の中に違和感を感じて仕方がない。しばらく雨宿りをして、雨足が落ちついた時にでも家に帰ろう。
誠一が空を眺めながらそう思っている時、一人の女性がずぶ濡れの状態で誠一の向かいに立っていた。二十代前半か、もう少し下かもしれない。彼女はこの雨をしのげる場所を探していたのだろう。肩で呼吸をしながら、ようやく見つけた雨避けを呆然と眺めていた。
「…………」
その女に、誠一は見覚えがあった。黒のロングヘアに、化粧気のない相貌。落ちついた服装のその女は、誠一がつい先日写真で見た女であった。
桜井ゆず。誠一は心の中でそう呟いたが、表情を変えることなく彼女が雨宿りできるスペースを空けた。
「あ、すみません」
女は軽く会釈をし、誠一の隣のスペースに身体を収めた。彼女は寒さで身を震わせていた。
「大丈夫か?」
誠一がそう聞くと、女は顔を伏せ「大丈夫です」と短く答えた。
しかし、彼女の身体の震えは収まることはない。何かを探るようにポケットの中に手を入れていた。
誠一は一瞬悩んだが、ジャケットの内ポケットからハンカチを取りだしてゆずに手渡した。一応、昨日洗濯をしアイロンを掛けておいた。汚くはないだろう。
「あ、どうも」
ゆずは礼をして、そのハンカチを受け取っていた。しかし、一瞬迷惑であったのではないかと誠一の心の中をよぎった。この世代の女性と接することはあまりない。厚意と余計なお世話の境界が分かりかねていた。
「こんなオヤジのハンカチなんて汚らしくて使いたくないだろうけど、こんなものしかなくてな。嫌なら返してもらっていいから」
そのため、己の保険として一言付け加えていた。
するとゆずはクスクスと小さく笑っていた。
「なにがおかしい?」
誠一はそう言いながら、女の横顔を一瞥した。
「いえ、律儀だなあと思いまして。助かります」
ゆずはそのハンカチで顔のしずくを拭き取っていた。その横顔は、ちょうど写真と同じ構図だった。
桜井ゆず。
あの、桜井秋彦の娘だ。
誠一は空を仰ぎ見た。雨の勢いは依然強いままである。
・ ・ ・
なぜ桜井ゆずがここにいるのだろうか。
確か今日は天野由香と二人で桜井ゆずの誕生日を祝う予定になっていたはずである。今は天野由香のアパートに向かっているはずだ。
私は瞬間的にそう思ったが、すぐに自分の中で答えが出た。
つまりは「そういうこと」なのだ。
桜井秋彦。
私がその「仕事」をしたのは、今からちょうど一年前だ。
あの日も、雨が降っていたような気がする。
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