―4月25日2004年

 ヴァイオリンの繊細な音色がレストランの室内に鳴り響く。その音は生演奏だがとても控えめで、落ち着いた空間にマッチしていた。

 ゆずは自分がその場所に不釣り合いなのではないかと、しきりに辺りを気にしていた。

 そのレストランは都内でも有数の高級レストランらしい。ゆずは高級な店などをあまり知らないが、周りの客がとても高価そうな服装を身につけていることはわかった。

 一応秋彦に言われ、大学の入学式用に買ってもらった黒のワンピースを着てきたが、それでも自分が浮いているのではないかとゆずは心配だった。

 早く来てくれないかな。ゆずは腕時計に目を移した。現在午後七時二〇分。秋彦との約束の時間まで後一〇分である。

 ゆずは家に帰るとほぼ同時に秋彦から連絡があった。一旦家に帰ると時間がロスするからレストランで待ち合わせしよう、という内容だった。

 その時は深く考えていなかったが、今まで外食と言えば由香とファミリーレストランが常であったゆずにとって、高級と冠するレストランに一人でいることは、想像以上に落ち着かないものであった。

 そわそわと、辺りを見回しながらゆずは水を飲んだ。なにもしていないのは間が持たないので、先程から頻繁に水を飲んでいる。するとウエイターがさりげなく水を注ぎに来た。

「あ、すみません」

 ゆずは顔をわずかに赤く染めて、ウエイターに頭を下げた。やはりこのような所は慣れない。

 お父さんはいつもこういうところに来てるのかな。ゆずがぼんやりとそう考えたとき、不意にカバンに入れていた携帯電話が鳴った。

「あ」

 辺りに無機質な着信音が鳴り響く。しまった。マナーモードにしておくべきだった。隣の高級そうなスーツを着た男性が眉をひそめてゆずを見た。

「すみません」

 ゆずは慌てて立ち上がり深々と頭を下げると、カバンを抱えたままトイレへと駆け込んだ。

 トイレには広く清潔な洗面所が備え付けてあった。光量も控えめで、ゆったりとした空間になっている。

 ゆずはカバンの中から携帯電話を取り出し、ディスプレイを見た。そこには「父親」と表示されている。ゆずは通話ボタンを押し、電話に出た。

「もしもし?」

 しかし、電話の向こうは無言であった。

「お父さん? もしもし?」

 ゆずが声をかけても、秋彦の声は聞こえてこない。

 喉を鳴らす音が、かすかに聞こえてきた。

「どうしたの? お父さん?」

「……あ、ああ。ゆず」

 ようやく秋彦の声が聞こえてきた。ゆずはホッと息を吐いた。

「どうしたの? 早く来てよ。なんかこういうとこ慣れてないから落ち着かないよ」

「そうか……。なあゆず。ちょっとお父さん抜けられない仕事ができてな。そっち行けそうにないんだよ」

「……え?」

「ごめん。申し訳ないけど一人で食べてもらえないかな。本当にすまん」

「…………」

 ゆずの顔から表情がフッと消えた。わずかに顔を伏せる。

 まあ、こんなもんか。

「いいよ、わかった。じゃあご飯食べて帰るよ」

「ああ。すまないな」

「いいよ別に。じゃあね」

 そう言ってゆずが携帯電話を切ろうとしたとき、

「あ、ゆず……」

 秋彦が声をあげた。

「なに?」

「あ……いや。なんでもない。帰り道、気をつけてな」

「はいはい。じゃあね」

 ゆずは素っ気ない口調で締めくくり、携帯電話を切った。ため息を一つつき、忘れない内にマナーモードに設定すると、自分のテーブルに戻った。

 ウエイターに一人分キャンセルになった事と、コース料理を始めて欲しい旨を伝えると、再びため息をついた。

 まあ、こんなもんだ。

 最初から期待はしていなかった。

 ゆずが物心ついてから今まで、秋彦は夕食時に帰ってきたためしがない。努力をしたことは認めよう。ゆずはそう考えて胸の奥の怒りを治めた。

 もはや周囲の雰囲気を気にする事はなくなった。

 ウエイターが運んできた前菜に口を付ける。テーブルマナーはあまり知らないので適当だったが、それすらもゆずは気にならなくなっていた。

 とても高級な食材を使っているようだが、今のゆずには味は感じられず、ただ機械的に出された料理を口に運ぶという動作を繰り返した。

 いつのまにか、コース料理は終わったらしい。食後のコーヒーが運ばれたときにゆずはそのことに気付いた。

 ナプキンで口元を拭き、コーヒーには口を付けずに立ち上がろうとしたその時、カバンの中の携帯電話が鈍くバイブレーションした。

 今度は落ち着いて対処できる。液晶を見ると「父親」と表示されていた。

「もしもし?」

 ゆずはテーブルで電話を取った。ウエイターに注意されるかもしれないが、もうどうでも良くなっていた。

「なに? お父さん。もうご飯食べ終わったんだけど」

 ふてくされたようにゆずはそう言った。しかし、帰ってきたのは予想外の言葉であった。

「ゆずちゃん、かい?」

 その声は秋彦のものではなかった。聞き覚えがある。でも、ゆずは思い出せなかった。

「あ、急にびっくりしたかい? 俺河合だけど、覚えているかな?」

「ああ河合さん」

 名前を聞き、ゆずはその声の主を思いだした。河合圭介。父が経営している会社の副社長をしている男だ。ゆずが幼い頃に何度か家に来たことがあったが、最近は全く会っていなかった。

「お久しぶりです。でも、なんでお父さんの携帯で電話してるんですか?」

「あの、そのことなんだが。ゆずちゃん、あの、落ち着いて、聞いて欲しいんだけど」

 河合はなぜかとても焦っているようだった。息づかいも荒い。事情のわからないゆずは、「はあ」と曖昧な返事をした。

「本当、落ち着いて聞いて欲しいんだけど。桜井さん、君のお父さんが……」

「はあ」

「……亡くなった」


 現実感が欠けていた。

 先程の電話も、なにかの間違いだったのではないかと、ゆずはあまり回っていない頭でぼんやりと考えていた。

 しかし身体はそんな考えとは意に反して街中を疾走していた。

 何度も心中で考えを否定する。なにかの間違いだ。そんなはずはない。

 地下鉄を乗り継ぎ秋彦の会社の近くまで来ると、そこには直面せねばならない「現実」があった。

 会社の前の道路に、パトカーが二台、停車している。その様子を通行人が遠巻きで眺めていた。

 赤色灯の明かりが目についた。ゆずは眉をひそめて野次馬をすり抜け、ビルの入り口へと駆け寄った。

 ビルの入り口は閑散としていた。賃貸ビルで、入居している他の会社が迷惑を被らないように配慮しているのだろう。そこには警察官の姿はどこにもなかった。

 ゆずはエントランスにある階数表示版を見た。二五階に「㈱ワールドプレイス」と書かれていることを確認し、奥にあるエレベータに乗った。

 二五階に着くと、エントランスの静寂が嘘のように人で溢れ返っていた。警察官が辺りを慌ただしく走り回っている。

 警察官の一人がゆずに気付いた。野次馬の一人だと認識したらしい。憮然とした顔でゆずに近づこうとしたとき、彼の背後から「ゆずちゃん」と声が挙がった。

 河合である。彼はゆずに向かって大げさに手を振り、ゆずに近づこうとしていた警察官に二、三言葉を交わしていた。すると警察官はゆずに一礼し、再び己の持ち場へと戻っていった。

「ゆずちゃん。早かったね」

「ええ。それより……」

 ゆずが切り出すと、河合の顔が大きく歪んだ。「こっちだよ」とゆずを手招きしてついてくるようにうながした。

 着いた先は社長室であった。入り口に、「Keep Out」と書かれたテープが貼られている。

 入り口で見張りをしている警察官に事情を話し、中へ入る許可をもらったのだが、河合は入り口でゆずを遮るように立ち止まった。河合の身体が邪魔して、ゆずの位置からは室内を確認することはできない。

 「どうしました?」ゆずがそう聞くと、河合はっと表情を落とし、

「いや……やっぱり、ゆずちゃんは見ない方がいいかもな」

 それは河合なりの気遣いであったのかもしれないが、気が急いているゆずは苛立ちしか感じなかった。ゆずは無言で河合を押し退け、無理矢理部屋の中へと入った。

 秋彦の姿はすぐに確認できた。彼は部屋の中心で、うつぶせに倒れていた。床の絨毯は、彼を中心に深紅に染まっている。

 秋彦は静かに横たわっている。遺体なのだから当然なのだが、未だ現実味のわかないゆずには、写真撮影や指紋採取に奔走している周囲の警察官と、物言わず静かに倒れている己の父親のギャップが、不思議でたまらなかった。

「ゆず、ちゃん」

 ゆずが茫然と立ちつくしていると、一人の女性が話しかけてきた。ゆずより少し年上のその女性は、警察の制服を着ていた。

「ここはまだ現場検証の途中だし、もうちょっと落ち着いた所に行こっか」

 ゆずは婦警にうながされ、社長室を後にした。しばらくの間会社の廊下を歩き、わずかに拓けた場所に来た。二機の自動販売機と、ソファが備え付けられてある。休憩所として使用されている所であろう。

 辺りには人の気配はない。そこは騒々しい社長室付近と異なりとても静かだった。

 婦警は缶紅茶を購入し、「はい」とゆずに手渡した。ソファに座り、「ひどい雨ね」と天気の話を切り出されたとき、初めてこの婦警が「慰め係」だということに気付いた。

「あ、自己紹介まだだったね。私は佐藤克美。よろしくね」

 彼女はあえて警察手帳を出すような事はなかった。ただ、優しそうな笑みをゆずに向けていた。

 ああ。そうなんだ。ゆずは心の中で納得をした。

 この状況で婦警さんが自分に優しくするということは、やっぱりお父さんは死んだんだ。

「あの」

「なあに? ゆずちゃん」

「なんで父は死んだんですか?」

 ゆずのその率直な質問に、克美は言葉を詰まらせた。彼女の笑顔はわずかに曇る。一瞬沈黙が流れたが、やがて意を決したように克美は口を開いた。

「まだ現場検証が終わっていないから断定はできないけど……他殺の線が濃厚よ」

「他殺……」

 ゆずはその言葉を反芻した。その言葉の意味するところがよく判らなかった。ただ、「たさつ」という単語がゆずの頭を巡っていた。

「うん。お父さん、携帯電話を握っていたわ。最期に電話していたのはゆずちゃんだったみたいだけど、心当たりはある?」

 ゆずは小さく頷き、カバンから携帯電話を取り出した。着信履歴には「19:23:父親」と記されていた。瞳を閉じ、先ほどの電話の内容を思い出していた。

 不思議と哀しみはなかった。頭の芯が冷え、冷静に頭が働いている。心に動きがなかった。

 ゆずは瞳を開き、辺りを見まわした。隣には克美が心配そうな顔を向けている。

 今会ったばかりのこの人は、自分の何がわかるのだろう。

 ゆずは静かにそう思った。


          ・   ・   ・


 「帰り道、気をつけてな」

 それがあたしとお父さんの間で交わされた、最期の言葉だった。

 その時、お父さんは何を考えていたんだろう?

 絶対に犯人を捕まえる。克美さんは力強くそう言っていた。

 でも。

 いつまで経っても警察は犯人を特定できないでいた。ワイドショーではその事を取り上げて、犯人はプロの殺し屋ではないかと言っていた。

 そうなのかと克美さんに聞いたら、曖昧に首を振っていたっけ。

 まだなんともいえない。でも、今頑張って捜査しているから。大丈夫、絶対に犯人捕まえるよ。そう言っていた。

 でも、あたしわかるんだ。現場には証拠になるものは一切なかったんだと思う。

 だって、一年経った今も、克美さん同じことを言うんだもん。

 この前、河合さんが逮捕された。罪状はなんだっけ。忘れちゃった。

 麻薬の密売だって言っていたっけ。

 会社ぐるみでの取引で、亡くなった桜井前社長も関与していたんじゃないかって夕方のニュースで言っていた。

 あれから、あたしの日常はなくなった。連日のようにテレビ局の人が家に来るようになって、心を休める時がなくなった。

 克美さんが守ってくれてたし、しばらくするとテレビ局は来なくなったけど、それでも前のような日常は戻ってこなかった。

 いつ頃からだっただろう? 憶えていないけど。

 熟睡出来なくなったんだ。

 いつも浅い眠りで、いつも夢にうなされて。

 どんな夢かは憶えていないんだけど。

 でも、決まってあたしは泣いているんだ。

 なんでかわからない。

 でも。

 泣いているんだ。

 だから。

 あたしは。

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