―10月15日2003年

 辺りに終業のチャイムが鳴り響く。ホームルームが終わると、ゆずのクラスは帰り支度をする声で活気付いた。

 高校三年生の秋である。もうすぐ高校生活が終わるということが実感できるようになったその時期は、クラスの中はこれからの未来に浮き足立つ者と、受験戦争に打ち勝つために戦っている者とで二分されていた。

「なーなーゆっち。これからどこ行くー?」

 クラスメイトの天野由香が教科書をカバンに詰めているゆずに話しかけてきた。由香は金髪に染め上げた髪をもてあそびながら、人懐っこい笑みを浮かべていた。

 彼女はゆずの、高校一年生からのトモダチである。軽くウェーブをかけた金色のロングヘアが特徴的な小柄な少女であった。彼女が放課後にこう訊いてくるのはいつものことである。特に進路が決まっているわけではないのだが、彼女は毎日遊んでいた。卒業後の事は特に考えていないらしい。以前訊いてみたら、「なるようになるよー」と脳天気に答えていた。

「……ごめん。帰って勉強しなきゃ」

「えー? また? ゆっち最近付きあい悪いよ?」

 由香は頬を膨らませてゆずを軽く睨んだ。そんな仕草がとても似合う。同性のゆずが見ても可愛らしいと思う。

「ごめんね。今追いこみだから。大学受かったらまた遊ぼうね」

「ぶー。つまんない。昨日オヤジと喧嘩したから、今日はゆっちとクラブ行こうと思ってたのに。じゃあ桜っちでも誘うかー」

「……またお父さんと喧嘩してるの?」

「うん。これで、ね」

 由香は笑いながら金色に染まった髪を指差した。

「ウチの親、口うるさくてねー。ゆっちのところはホーニンシュギなんだよね。うらやましいなー」

「そっかな」

「うん。あたしもゆっちの家に生まれればよかったなー。あ、桜っち」

 由香は教室から出ようとしていたクラスメイトの桜子の方へと走って行った。桜子を引きとめ、二、三言話していた。

 彼女は誘いに乗ったようだ。由香はゆずに向かって大振りに手を振っていた。

「…………」

 ゆずが答えるように手を振り返すと、彼女たちは教室を後にした。

 気付くと、教室の中はゆず一人になっていた。

 放任主義でうらやましい、か。

 ゆずは帰る支度を再開させ、先ほどの由香の言葉を思いだしていた。

 あたしの家のは放任じゃなくて、無関心なんだよ?

 今はもういない由香に向かって、心の中でそう呟いた。


 ゆずの家は高級住宅街にある高層マンションの十二階である。テレビに出ている芸能人が多数住んでいるらしいが、ゆずは今まで一度も会ったことがなかった。

 入り口のセキュリティを解除し、エレベータと部屋の入り口にもある別々のセキュリティをそれぞれ解除する。それでようやく部屋の中へと入ることができる。

 部屋の中は真っ暗である。誰もいない。当然である。父親と二人暮らしで、父親は仕事から帰ってきていないのだから。

 ゆずは玄関の明かりをつけ家の中へと入った。

 家の中はガランとしている。広いリビングには高級で趣味の良さそうな家具や大型テレビが配置されているが、それらが主に使用されるのは、深夜と、稀にある父親の休日のわずかな時間のみである。ゆずが使用することはほとんどない。

 ゆずはリビングを素通りして、キッチンに入った。こちらも様々な道具が揃えられているが、使用するのはごく一部だけである。

 一人分の食事を手早く作り、腹を満たすとすぐに彼女は自分の部屋にこもった。

「さて、と」

 椅子に腰を掛け、参考書を開き勉強を開始した。

 集中し、眼前の問題を黙々と解いていく。時間が流れるのを忘れ、ただひたすら参考書と格闘していた。

 そして気付いた時には午前一時を回っていた。ああ、もうこんな時間かとゆずは軽く伸びをして身体を休ませた。

 もう少しで今日のノルマは終わりそうである。もう一頑張り。ゆずは渇いた喉を潤すために席を立った。

 ダイニングキッチンに向かうために自室のドアを開けた。すると、普段は真っ暗なはずのリビングから、わずかな明かりが洩れていることに気付いた。

 ゆずは首を捻り見に行くと、そこにはソファに腰を掛けてテレビを見ている父親、秋彦の姿があった。

 部屋の明かりを消してテレビのみをつけているために、テレビの場面が変わるごとに部屋の光量も変化した。

 彼はゆずから背を向けた状態で、微動だにしなかった。ゆずからは起きているのかどうかも判別がつかない。

「今日は早かったね。おかえり」

 ゆずがそう声をかけるが、返事は返ってこない。寝ているのか、それとも言葉を返す気がないのかはわからなかったが、ゆずは気にすることなくキッチンへと足を運んだ。

 冷蔵庫からミネラルウォーターのペットボトルを取りだし、一気に飲み干した。冷たい水がゆずの身体に浸透してゆく。とても心地よかった。

 さて、もう一息だとゆずは部屋へと足を向けた。

 途中、家の構造上リビングを通らなければならない。リビングでは相変わらず秋彦がソファに座っていた。今度は声をかけずにその場を通り過ぎようとした。

「ゆず」

 その時、急に声をかけられ、ゆずはビクッと身体を揺らした。秋彦はゆずから背を向けたまま変化はない。一瞬、ゆずは聞き間違いだと思った。

「呼んだ?」

「いや、なんでもない。おやすみ」

「…………」

 ゆずはしばらくその場に立ち止まっていたが、会話が終了していたので、

「おやすみ」

 一言だけそう言って自室に戻った。

 そして残りの勉強をして、その日は眠りについた。


          ・   ・   ・


 これが、あたしの毎日だった。

 なにかを言いたそうなお父さん。でも結局は何も言ってくれないお父さん。

 あたしは結局なにを言いかけていたのか、聞かなかった。ずっと興味ないように振舞っていた。

 意地、だった。あたしとお父さんの戦い? 小さい頃構ってほしかったけど、「構って」って言わなかったのに似てるかもしれない。

 あたしは一生懸命勉強に取り組んだ。毎日。相変わらずくっついてくる由香の誘いを断りながら。

 一生懸命勉強したあたしは、見事都内の一流大学に合格した。お父さんと同じ大学。日本でイチバンの大学だ。

 合格発表の日、お父さんは仕事で帰ってこなかった。結局日付変わってから帰ってきたみたいで、その日は顔を合わさずに寝た。

 で、翌日に合格したことを伝えたら、「ああ」の一言で会話が終わった。

 そんなもんだ。予想はできた。

 ちゃんと言ったことは理解しているようで、入学の手続きとか、学費の払いこみとかはやってくれて、あたしは晴れて大学生になった。

 それでもお父さんとの日常は変わらなかった。

 入学してしばらく経って、あたしは一人暮らしを始めようかと考えた。大学は家から通えるけど、家を出て行こうと考えた。

 一応お金は多少あるし、これからバイトすればいい。お父さんに頼らないで一人立ちしようと考えたんだ。

 それを朝ご飯を食べながら言おうと思った。

 その日は特別な日。

 あたしの誕生日、だった。

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