―4月25日2005年

 その日は夕方から急に雨が降り出した。

 朝の天気予報ではどの局も一日晴れだと言っていたので、駅前では傘を持たずに走って家路を急ぐ姿が数多く見受けられた。新たに傘を買うほど雨足は強くないと判断したのだろう。手で頭を押さえながら走るサラリーマンの姿もあった。

 桜井ゆずも、その中の一人であった。彼女は洋服が濡れるのを気にしながら、全速力で駅前の商店街を走っていた。

 もう、なんだって「今日」は雨なのよ。ゆずは走りながら、心の中でそう毒づいた。彼女は雨は好きではない。いや、嫌いである。

 だから先ほども駅前で傘を買おうか、随分と悩んだ。当時は地面を軽く濡らす程度で、ほとんど降っていなかったのである。結局傘を買わずにそのまま走り出したのだが、次第に服が濡れていく感覚に、彼女は不快感を募らせていた。

 雨足が次第に強くなってきた。彼女は駅前の商店街を抜け、閑静な通りへと入った所である。辺りに雨を遮るアーケードはない。彼女は小さく舌打ちをして、さらに走るスピードを早めた。

 しかし、彼女の走るスピードを上げるとともに雨足も強くなってゆく。やがて完全な土砂降りになった。

 すでに服が濡れて不快だというレベルを超えていた。彼女は寒さで身体を震わせながら、アーケードを探してひたすら走った。激しく息を切らせながら。

 やがて彼女は走るスピードを緩め、その場に立ち止まった。中腰になりながら肩で息をした。心臓が破れそうなくらい激しく脈打っている。もう、走るのは限界だった。

 ゆずはしばらく呼吸を整えながら、辺りを見まわした。雨で視界が悪くなっているが、そこが住宅街だということはわかった。彼女の右脇に高層マンションが軒を連ねている。この雨である。辺りには歩く人影は見当たらない。

 そして、通りのしばらく先に、小さい雨避けのようなものが見えた。恐らく何かの店が店先に取りつけてあるアーケードのようなものであろう。ゆずはもはや雨宿りする気にはならなかったが、それでも身体が冷えて風邪を引きそうだったので、その雨避けで身体を休めることにした。

 風邪、か。歩きながらゆずは苦笑した。いまさら風邪を引くことを心配するなんて、どうかしてる。

 そんなこと、もうどうでもいいのに。


 雨避けは煙草屋の店先であった。青色のビニール製のシートが、店先を雨から守っている。今日は煙草屋は休みのようだった。シャッターが閉められている。雨避けは人が二、三人並んで立つことしかできない小さなスペースであった。

「…………」

 そこには先客がいた。眼鏡をかけた背の高い男であった。歳の頃は三〇中盤くらいであろうか。無表情に空を眺めていた。彼も不意な雨から逃れてきたのだろう。短く揃えられた髪から水が滴っていた。

 男はゆずの姿に気付くと小さく会釈をし、右端に寄り、ゆずが立つスペースを作った。

「あ、すみません」

 ゆずは軽く頭を下げ、男が空けてくれたスペースに身体を収めた。隣の男を一瞥し、彼と同じように空に視線を置いた。

 身体の震えが止まらない。ゆずは己の身体を抱きながら、震えが収まるように身体に言い聞かせた。

「……大丈夫か?」

 そんなゆずに、男は心配そうな声をあげた。

「え、ええ。大丈夫です」

 ゆずは目を伏せ、ジャケットの左ポケットを探った。手が震えてうまく探れなかったが、目的の物はすぐに見つかった。左手にそれを握る。

 と、男はソフトジャケットの内ポケットからハンカチを取りだし、無言でゆずに差しだした。

「あ、どうも」

 ゆずは礼をして、そのハンカチを受け取った。きちんとアイロンが掛けられた、奇麗なハンカチである。

「こんなオヤジのハンカチなんて汚らしくて使いたくないだろうけど、こんなものしかなくてな。嫌なら返してもらっていいから」

 男は無表情で空を眺めながら、素っ気なくそう言った。恐らく「イマドキの若者」が抱くであろう感想に先回りしたのであろう。ゆずはそんな男の言葉がおかしくて、クスクスと小さく笑った。

「……なにがおかしい?」

「いえ、律儀だなあと思いまして。助かります」

 ゆずはそのハンカチで顔のしずくを拭き取った。気休め程度にしかならないがそれでもなにもしないよりはましである。

「ありがとうございます」

 ゆずはハンカチを男に返した。

「ああ」

 男はそう言うと、口を閉ざしてしまった。何かを考え込むように、空を仰ぎ見ていた。

 しばらくの間、沈黙が流れた。聴こえてくるのは雨が地面を打つ音のみである。

 気が付くと、ゆずの身体の震えは止まっていた。彼女は男の横顔を盗み見るように眺めた。彼の横顔からは感情をうかがい知ることはできなかった。ただ、表情を映さない顔で空をジッと眺めていた。

 お父さんにそっくりだな。

 ゆずはそう考え、慌てて己の中で否定した。自分の父親は、多分びしょ濡れであってもハンカチを渡してくれるなんて事はなかっただろう。

 似ているところは無口なところだけか。

 そう思ってゆずは瞳を閉ざした。

 彼女の左手は未だにポケットの中の物を握っていた。


          ・   ・   ・


 お母さんは、あたしが物心つく前にこの世からいなくなった。

 お父さんはお母さんの思い出を全部捨ててしまっていた。だから、大きくなって押入の奥の奥から一冊のアルバムが出てきて、その中にあったお母さんの写真を見ても、正直その人がお母さんだって実感が湧かなかった。

 お父さんは、あたしが物心つく前から忙しい人だった。家に帰ってこない日も少なくなかったし、帰ってきてもあたしが寝ている時間で、顔を会わせるのは翌朝の数分間だけ。

 だから、久しぶりに会っても、この人がお父さんだっていう実感は湧かなかった。

 昔は家に帰るのが凄く嫌だった。家に帰っても誰もいないから。

 だから、雨降りが嫌いだった。雨はあたしを家に閉じ込めるから。

 高校に入ると、あたしは少しだけ夜遊びをするようになった。

 動機はなんだっけ。忘れちゃった。家にいても暇だったからかもしれないし、なにか別の理由があったからかもしれない。高校で知り合ったトモダチに誘われたのかも。

 その頃は、楽しかった。トモダチの由香とよく明け方までカラオケで歌ったりしてたっけ。

 お金は、あった。お父さんはお小遣いだけはあたしに山ほどくれたから。お金に不自由したことはなかったな。

 夜遊びはしたけど、グレるということはなかったな。トモダチに恵まれてたのかも。いや、トモダチに恵まれなかったのか。本気に付き合う友達じゃなかったからかな。

 それに、意地もあった。悪いことをして父親の気を引くなんて、みじめな事はしたくなかった。

 だから、夜遊びに飽きたあたしは、一生懸命勉強をしたんだ。

 いい大学に入って、いい会社に勤めれば。あの時はそんなことばっかり考えていたっけ。

 ばっかみたい。お父さんなんて、大嫌いなのに。

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