居候

 自分は旅行者なのだが、最近はやけに景気が悪いので人々は自分のことを浮浪者だと思うかもしれない。実際のところ、自分は浮浪者同然の動機を以ってして旅を始めたので、強ち旅行者だと強がるというのは間違っていない。自分の家にはフローという小さな犬のような猫のような、四つん這いの生き物を飼っていたのだが、十分に餌を遺してきたというもの、これだけ家の中に閉じ込めていたのならくたばってしまっているかもしれない。その他にも窓際の仙人掌にも一ヶ月に一度の水やりもできていないし、床は埃まみれだろうし、もしかすると鍵を掛け忘れたかもしれない。空き巣にやられたのかもしれない。いいや、自分は今鍵を持っていない。家の鍵は、中途で無くしてしまった。少し荷物から目を離した隙にやられたのだった。あれは砂漠に飲み込まれかかったような悲しそうな街の十字路だった。ほんの少しの間、億劫な行李を降ろして向かいの飯屋に道を訪ねようとしたのだった。……あっと思った時には自分の旅行鞄はどこにも無くなっていたのだ。その時覚えているが、丁度禿の爺が運転する古びたトラックが十字路を走り去るところだったので、きっとそいつの仕業に違いないと思う。ともかく、自分は鍵がないので、家に帰ったとしても、扉を突き破るか、窓を割って入るかしないと駄目だろう。それこそ浮浪者のようで、空き巣のようなので憚れることだったが、今となってはこの旅行を続ける意義も有耶無耶になってしまったので、一刻も早く家に帰りたくなったのだ。家は、丘の上にある。街の西の田圃の最中にある。そして今自分は故郷に帰ってきて、あとは西のはずれの丘を目指せば、もう家に着くというのに、何故かこの繁華街でとどまっている。それも、見慣れない旅人である自分を気にかけた爺が声をかけてきたのだ。

「おまえ、何処に行く、そっちは田圃しかない」

「自分の家があるのです。あの丘の上の屋敷のものです。随分と留守にしました」

「そうか、なんてこった。あの空家の家主か。実をいうと、人が居ないのをいいことに、数年前からあそこに外国人の夫婦が住んでいる。皆おまえのことを死んだもんだと思っていたし、言葉も通じないので厄介がって誰も関わろうとしなかったのだ。見逃してくれ」

「なんという。……今すぐ追い出してやる」

「よしなさい。彼らは祖国の風習だろうが、草を束ねては祝日に家の前でそれを燃やすのだ。聞くところによるとあれは悪魔祓いの儀式のようだ。今、丁度それをやっている。連中は儀式の最中にちょっかいを出すときちがいのように怒り狂っておまえを殺そうとするだろう」

 慥かに丘の上から、灰色の煙がもくもくと湧き上がっている。それは、丘の下に住む異民族である我々を威嚇しているのであった。自分は我慢ならない。あそこは自分の家で、いくら留守にしようとそれは変わりないことであって、居候など許されない。殺してでも追い出してやると意気込んだ。自分はそっと丘の上の屋敷に向かって歩き出した。灰色の煙が凄い勢いで天に昇ってゆく。気がつくと、空の色というのも灰色で、もしかしてこの空を覆う雲の源流というのは、この異教の儀式の煙なのではないかと疑ったくらいだった。煙は、家の前の開けた場所、自分がかつて諸般の道具を仕舞い込んでいた倉庫があった筈の場所で燃えていた。こいつら、倉庫を潰して薪にでもしたのだろうか。怒りがどんどんこみ上げてくる。なんとしてでも頭に殴りかかって相手を昏倒させないと気が済まなくなってきた。近づくにつれ、この煙が酷い異臭を放っていることに気がついた。鼻をつまんで息を止めたくなるような、つんとする刺激臭がする。これは、まさか野草を蒸しただけでは出てこないだろう。何か悪魔の心臓をバクバクさせるような毒草を仕込んでいるのかもしれない。そう考えていると一層、口で吸い込むたびに嫌な味がするようになったので、自分は手ぬぐいで顔を覆って駆け足で火葬場から去り、玄関に向かった。扉には鍵はかかっていなかった。中は薄暗く、人の気配はない。しかし、生活の痕跡がある。今日の朝まで生活していた痕跡がある。自分が何年間もかかって使い勝手がいいように配置した家具の位置など面影もなく、ここの家は居候によって本当に他人の家に成り代わってしまっているようだ。他人の匂いがする。しかし、当の外国人の夫婦というのは、どこにも居ない。二階にも便所にも床下にも、どこにもいないのだ。そのうち、外の怪しい煙がどこからか家の中に入ってくるので、だんだんと視界が灰色にぼやけてきたのだった。あの刺激臭もする。そのせいで自分は家の中で迷子になった。慥かに自分の家だ。ここに便所があって、台所があって、二階へ上がる階段がその横にある。しかしどうして自分はこの家の使い方がわからないのだろう。居候夫婦はすごく上手に、家の中身を都合のいいように作り変えていた。自分の何年前かのこの家に於ける生活知識という知識は全く役に立たなくなってしまっていた。全てのかつての動線は悉く切断され、他人の不快な匂いと煙が充満し、見慣れない服に箪笥、皿にコップ、知らない趣味、知らない文化、知らない知識がこの家にぎゅうぎゅう詰めにされていて、それが見知った筈の自分の家の変わりようだと思うと気持ちが悪くなってどうしようもなくなって、自分は自分の家の中で困り果てて立ち止まった。視界は煙という煙で満たされ、どこをひんむいても灰色、振り返っても灰色だった。自分は昏倒して坐り込んだ。そしてそこで、まんまとこの居候たちにいっぱい喰わされたと勘附くのだった。街の声がする、かちどきだ。誰かが玄関の扉を開けて、こちらにやって来る。そして私の背中を蹴り飛ばした。両手を後ろに回されて縄で縛られた。私は長い長い旅の間で、すっかり無法者になってしまったようだ。

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破壊論 @ika60

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