栄町大通り

 昼、遠くの道路をバイクが走っていく音を寝床で聞いた。慥か今日の朝方にもこうやって布団のなかでバイクの走っていく音を聞いた気がする。それは一旦どこかで止まり、郵便受けの蓋がガタンと音をしていたのであれは新聞配達だと思う。それはついさっきの出来事のように思えたが、時計を見るともう昼なのでずいぶんと二度寝をしてしまったようだった。まだ頭が重くて動きたくないので、二度寝の最中、沼から上がる夢を見ていたのを思い出すことにした。深いところでは腰の高さまである泥沼に自分は半分浸かっていて、ねっばこい泥が気持ち悪かったので手足で沼をかき分けて地上に上がろうとしていた。そして沼の真正面にある駅に、検討をつけていた電車が既に停まっているのを見て非常に焦っていた。必死に這い上がり改札に駆け込んだのだが、電車などホームのどこにも停まっていなかった。線路をはさんで向こう側のホームに何人か人がいて、そのうちどれかが中学校や高校の知り合いだった気がしたが、自分は急いでいたのでしかたなく無視した。時刻表を見たのだが、よく見えなかったので駅員に次の電車はいつかと尋ねるが、にやついているばかりで答えてくれない。そんな内にホームに特急列車がやってきたので、乗ろうとしたのだが、開いた扉の前に背の高い車掌かなにかがふさがって、

「乗車券はあるか」

 と聞くので、そうだった乗車券が必要だったと外套やポケットをひっくり返してみるものの、乗車券がなかなか見つからない。慥かにポケットに入れておいたはずなのに、ない。沼艸しかでてこない。見かねた車掌が、沼に落としてきたんじゃないかと言ったので、自分は恐ろしくなった。なるほど言われてみれば、そんな気がしてきた。自分の背後にあるあの大きな沼に山吹色の切符が落ち葉と一緒にたよりなく浮かんでいる景色が想像できた。今吹いた大風で出来た波に煽られて沈んでしまいそうだった。自分は舌打ちして駅を出た。丁度改札をくぐったところで後ろから電車が出発したような大きい音が聞こえてきて、くやしくなった。沼はまだそこにある。が、表面に切符は浮いていない。絶対にここにあるはずなのだが、探すためにはまたこの冷たい沼に入らなくてならなかった、それは遠慮したかった。近くに落ちてた棒で水面の泥を引っ掻き回すが見つからない。暑くなってきた。段々曇っていた空が晴れて木々の切れ目から鱗状に日差しが沼を照らした。暑くて外套を脱いだ。汗がひどいので手ぬぐいを持って来ればよかったと後悔していた。まだ切符は見つからない。そのうち又電車がホームに着いた。そして暫く扉を開けて乗客を待っていて、又走り出した。まだ切符は見つからない。またまた電車が停まった。その車窓から黒い人がこっちを見ているのが分かった。しかし切符は見つからない。そうしてまたこの電車も逃してしまった。草臥れて沼のふちに自分は坐り込んだ。もう電車に乗ることは諦めようとしていた。すぐ帰って風呂にでも入りたかった。これだけ探しても切符は見つからないのだから、沼の底の泥に飲み込まれてしまったか、どこか別の場所に落っことしたかのどちらかだろうと考えていた……。

 嫌な夢を見たと思って回想しているうちに、どうやら目が覚めてきた。今日はなにも無い日なので、まだ布団に潜っていることにした。今の夢を日記に書けば面白くなるんじゃないかと思ったのだが、いざ机に向かいノートに書こうとすると何も出てこない。さっきまでの鮮明な景色はもう色あせて曖昧化してしまっていた。随分賞味期限の早い夢だと思ってまた布団に潜ることにした。こうなればまだどんな夢でも観れる気がしたが、結局二度目の夢は叶わなかったので、簡単な朝飯を済ませて外を歩くことにした。

 外は昼間なのに夕方のような琥珀色の空をしていたので、なんだか一日を損した気分になった。街を歩く。皆黒い服を着ていた。そういえば自分はどんな服を着ているだろうと思い見下ろしてみると、灰色の服を着ていた。なんだかすれ違う他人が自分をしきりに垣間見るような気がしたので、どこかおかしいところがあるのだろうと思って、鏡でも見てみようと公衆便所へ向かった。鏡に自分の姿が映っていた。あまり見栄えが良くないように感じるのは、鏡が汚れているせいだろうか。しかしくるりと一回転しても、背中にも裾にも糸くずがついてるわけでもない。泥汚れひとつない。今の自分はきっと街の往来の中では、赤の他人の赤の他人に成りきれる筈だ。便所を出て駅へ向かった。だがやはり中途の街の人々はこちらをちらと一瞥するように思われた。なぜだ、自分には糸くずひとつもついてないしチャックが開いているわけでもない、こいつらは一体おれの何が気に食わないんだ。苛立ちながら駅の高架下を通り抜けた。だんだんと遠ざかる繁華街によって、人通りも少なくなり、以外と自分をチラチラ見る輩もいなくなった。何気なく通った横丁の電柱柱に「大阪栄町大通り」とマジックの下手な字で落書きされていた。なんだろうと思ってその栄町大通りを辿ってみることにした。その横丁は舗装されてなく、あちこちに茶色の植木鉢や水を溜めたペットボトルが並び、ただでさえ狭い道をさらに悪路にしていた。殆どの民家はこの横丁に勝手口を構えておらず大抵はこの横丁の左右にある広いアスファルトの道に玄関があった。なので栄町大通りは、明かり取りの小さな窓が不揃いに並んだ民家の壁や硬くて低い塀に、窮屈に挟まれつづいていた。どこからか給湯機がシューと鳴いている。暖房の室外機の生ぬるい風が顔に当たったりもした。そして不意に一軒の民家の玄関前で横丁は終わっていた。辺りの土むき出しの地面には、割れた茶碗の欠片や、煉瓦や植木鉢の破片のようなものが所々埋まっていてこれをモザイク柄にしていた。その中に、ひときわに大きい俎板みたいなタイルがその家の玄関まで続いている。自分はそのタイルに足を乗せながら、玄関前まで水面を渡るように歩いた。民家の傾いた銀色の郵便受けに、「瓦市関宿 南関東朱雀大路」と見覚えのある下手糞の文字で書いてある。どうやらあの電柱に栄町大通りと落書きしたのはこの家の主人のようだ。耳を澄ますとよく聞こえる。このトタン民家からテレビの男性キャスターの声と、女性の怒鳴り声がよく聞こえる。怒鳴り声は日本語であるようだが、何故か自分には聞き取れなかった。しかも彼女が甲高く怒鳴り散らしている相手の気配もしないので、どうやら女性がテレビのついた部屋で独り叫んでいるだけのようだった。テレビの中から男性のくぐもった声が腹の底いにずっしりと響き、女性の恐ろしい怒鳴り声は聞いているだけで気分がわるくなった。玄関横についている土埃のついた野分柄の汚い曇り硝子に、テレビが遠くでちらついている光景が蒙昧に写っている。気味が悪いのでさっさと引き返すことにした。


 その夜、寝ていると台風がきているらしく、ふうふうと家々の壁を揺り動かす悲鳴が一晩中聞こえてきて、なかなか寝付けなかった。そしてふいに昼間の栄町大通りの事を思い出した。あの横丁も今はひどい嵐におそわれているだろう。風邪で植木鉢がずいぶん倒れているだろうと考え込んでいると、ぴしゃんと雷が鳴った。どこで落ちたのか検討がつかないが、きっとあのキ印の家に落ちたに違いないと思われた。その朝には誰かがしきりにチャイムを押してくるので、誰だと思って開けると中学校か高校の旧友がいた。顔は覚えているが名前が思い出せない。男はなれなれしく先輩先輩と肩を叩いた。

「お久しぶりです、先輩。いや、丁度仕事の都合でここいらまで来たので、折角だから寄ってみたんです。先輩は専門学校に進学されたのでしょう」

「いや、慥かにそうだが、どうしてここに住んでいるだなんてわかったんだい。誰かに聞いたか」

「誰にも何も、先輩が昔関宿に引っ越すからって連絡をわざわざよこしてくれたじゃないですか」

「そんなことは言ってない」

 男は物凄く色白で、声変わりもしていないようだしやけに顔つきも若々しいのでかえって気味が悪かった。昨日は夜が遅かったので、今日の朝はもう少し寝たいから後でもう一度訪ねてきてくれと言って追い返した。その日はいつ例の男が訪ねてくるのか神経質になってしまって、自分の部屋でもすごく居心地が悪かった。夕方になっても一向に現れる気配がない。もう気を使うのも億劫になってきたので、ひとりで買い物に出かけた。道路は昨日の夜の嵐で木の葉がちらばって景観が悪かった。近所で豆腐と缶麦酒を買って帰ってくると、家の前にあの男がいた。自分はもうあの耳鳴りを起こす様な甲高い声を聞きたくなかったので、遠くの物陰で男が帰ってくれるのを待った。あの男は自分の家のチャイムをしきりに鳴らしたり、大声で呼んだりしていたが、二分くらいして駅の方面へとぼとぼ帰って行った。彼の後ろ姿が街角に消えたのを見計らって、自分は自分の家にそそくさと入った。家に帰ってきただけなのに他人の家に忍び込む泥棒の心持ちがして、変な気分になった。

 翌日、チャイムが早朝に鳴ったが、自分は居留守した。どうやらまたあの男のようだが、何故か女を連れてきているようで、玄関の向こう側で二人の話し声がわずかに聴こえてくる。二人ともきんきんと甲高い声で話すので、よく聞き耳を立てていないと分別が付かなかった。そのうちまた一人男が増えた気配がした。これで自分の家の前には男女三人が会合をしていることになる。後から来た男は声が物凄く低いので悪魔のようだと思った。とんだ無礼者だと苛立っていると、ドンドンと戸を叩く音が聞こえた。重たいもので優しく叩く音だった。その加減の余裕は後から来た低い声の男のようだと考えていると、やはりそうだったようであの低い声が叫び出した。

「先輩、先輩」

 一度こいつらを怒鳴りつけようかと寝床から起きかけたが、やはり意地でも会いたくないと思い、居留守を続けることにした。

「よしてよ、寝てたら可哀想じゃない」

 女が言ったらしい。

「しかし、八時には電車に乗らなくちゃならんから、そういうわけにもいかんだろう」

 きんきんと男がそう言う。自分はそれで不意に今日の予定を思い返した。何か忘れているような用事があったかもしれないと思ったが、普通の休日のはずだ。何も約束はしていない。

「仕様もない、もう時間だ。先輩は置いてこう」

 例の気味の悪い低い声をした男が言った。それからまた三人は纏まりもなく喋り出した。自分のことでもあるようだし、ほかの話題も話しているように聞こえる。話し声がだんだんと遠のいて行って、もう少しで聞こえなくなってしまうという所で、遮るように家の前をバイクが通る音がした。郵便受けの蓋が上がる音がして、走り去って行った。そして、あの男女の喋り声はどこにも聞こえなくなってしまっていた。

 自分は日が昇った後も暫く布団に入ったまま目を開けていた。雉鳩が近くの電線に留まって鳴いている。窓を見上げると空は全部雲で真っ白と思われた。

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