架け橋
その橋を思い出したのは、友人宅で夜を迎えて酣になったころ、彼があついと言って三階のバルコニーの窓をがらがらと勢いよく開けた時のことだ。にわかに秋の風がぴゅうと吹き付けて火照った我々の頬を打った。
その橋は先日友人宅に向かう道すがら見つけた。その日はやや早く着きすぎたので、駅から友人宅までのふだんの道のりをちょこっとばかし外して、横町に入り遠回りに彼の家に向かっている途中であった。附近はたいそうな木造の古民家だったり、トタン壁の長屋があったりと、どれもこれも背が低く年代物で、ずいぶんと侘しい場所である。車一台がよやっと通れるくらいの道の脇にびっしりと猫よけのペットボトルだの手入れのされていない小さな植木鉢だのがずらずらと、誰もが自分の家の壁に沿ってびっしりと並べてあって、非常に勝手の悪い道であった。しばらくゆくとその道は右に曲がってあって、そのまま委ねると途端、坂道が現れた。いや、先を覗いてみると、坂道はほんのわずかで、またすぐに下り坂であった。なんだろうと、よく見ればその坂には欄干も附いてあって、材質も今迄のアスファルトとも違うコンクリート質のようで、雲梯が植わった様なその形は坂というよりアーチ橋であった。が、しかし小川や水路が橋の下に流れているわけでもないのだ。ただの横丁の途中に、意味もなく橋が架かっている。長さは20メートルくらい。相変わらず道の両側は隙間なくぎゅうぎゅうずめに民家が建っていて、その橋の持ち上がり具合に沿って真横の民家の入り口や窓も器用に上下していた。皆あたかも太古の昔からこの道はこんなぐあいにへんちくりに持ち上がっているのだ、と私に説得してくるのだが、この不可解な橋は、どうも引っかかるものがあった。
私は友人宅の窓から、明かりの参差にぼんぼりと光った様を見ていると、その昼間の橋を思い出した。あの橋の周りの家並にも明かりが燈っただろうか。そのことを友人に言った。すると彼はどうやらあの橋について知っているようだった。
「あそこはね、てこなが居たんだよ」
彼が言うには、あそこにはもともと川やら沼があったそうで、それがあのてこなの入水した場所だと言うのだ。それで数百年が経っていつのまにか沼は埋め立てられ、橋は残された。……たぶん、ここいらでこのことを知っているのは俺だけだ、皆なんでこんなところに橋があるのか、わからないんだぜ。ただ自分のじいさんばあさんが生きてた時代から、ずっとあそこにあるから、ってただそれだけなんだよ。……と彼は笑いながら言った。
明け方、始発にあわせて帰ろうと彼の家を出た。藍色にそまった、電線に羽交い絞めにされた空がだんだんと明るくなってきたのがわかった。自分は遠回りしてあの橋へ向かった。やはり、橋はまだあった。薄暗い電灯に照らされて、往来で黒く汚れたコンクリートの橋がちらちらとしていた。自分は橋とその横にある民家の隙間を覗いた。唸り声を上げている外付けの給湯器がすこし邪魔だったが、膝をつけてゆけばなんとか橋と民家の外壁の隙間を通ることができた。私は四つんばいになって隙間に身体をねじ込ませそのまま橋の下に入った。橋の下には、裸の女が仰向けに眠っていた。地面と橋との円弧の空隙に彼女は静かに横たわっていた。確かにその横顔はてこなだった。白いはだえがきらきらと粉雪のように暗がりに浮き上がっている。瞼の閉じた顔は生気に満ちて、頬にも紅がさしているので数百年前に死んだ人間だとは到底思えなかった。鼻筋がすっと通っていて、その横に携えた瞼からは、生前の彼女のさまざまな褒め言葉を懐古できた。その頸根から肩、鎖骨から肢体の艶線が、今まさに上がりかけた朝の青白い光を捉えて神秘的な陰を作っている。四肢はすらとしていてか細く儚げであって、手のひらも空を摑んでいた。私は彼女が動き出すところを見てみたくなった。しかしもし私が彼女の肩を揺すったり腕を叩いたりしてしまったら、恐らく彼女はすぐに消えてなくなってしまうであろうと考えられた。私は彼女に触れることを怖がってただ傍に居たのだ。
自分はその美しさにいつまで見とれていたのであろうか、気づくとすっかり明るくなっていた。私は誰か人が来るとまずいと思って、橋の下から這い出た。駅に向かう途中、地元の人なのだろうか、爺や婆や若い男が、私が通り過ぎるたびに睨むような気配がしたので、帰途は非常にけだるかった。もしや自分の早朝の不徳が、バレてしまったのではないかと思うと冷や汗がとまらなかった。自分はてこなを暴いたのをひどく後悔した。
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