初夢

 原始人間は全く違う生物としてあって、遺伝子に含有されているそういったふるい記憶の筋を指でなぞりながら、大切に思い返している真冬の夜中のようなまどろみが今はある。自分はそれまで全く違う生物として生きながらえていて、そしてそこらの幹の皮を食んで回っていると、いつのまにか人間界に降りてきてしまった気まぐれの鹿のような存在だったのだ。そしてもう日が傾きかけているのだが、知らない町であったし、そもそも人間界に無案内であるのだ。どこに行くわけでもなく風に吹かれるがままにありく。もしかしたら徘徊することを目的としていた記憶もあるようには、有るのだが、今となっては結局どうでもいいことのように曖昧になってしまっていた。自分は川の横を歩いている。川自体は随分、現在歩いている道よりも下を流れているので、歩道の横に付いている欄干に手を乗っけて、身を乗り出して見下ろすことになる。川と言ってももはや一筋のちょろちょろとしたものだった。川幅は広く殆ど干上がって、川底であったであろう丸石がその余裕を示している。自分はどうして歩いているのだろう。暫く歩いていると川が大きな道路になってしまっていたのだ。しかし、川というものも、大きな道路というものも、どちらも生足で歩く人間にとっては障害であることには変わりのない事実であった。川は橋がないと向こう岸に渡れないし、道路であっても横断歩道や歩道橋がないと向こう岸には進めない。しかし大きな道路となってしまった今も、やはり車の通行量は少ないようで、川の流れが緩やかで浅ければ橋を通らずとも裾を括って川をばしゃばしゃ歩いて渡ればいいもので、こちらの道路も機会を見計らって急ぎ足で行けば信号を待たずとも渡れるように思えた。しかし、自分をそうさせないような桎梏が、此岸に留まらせるという、何か例えば心臓の底いの抽斗の奥に挟まっているような、つっかえた内包の感じがしていた。先ほどから同じ場所をぐるぐるしているので、非常に不安になってきた。このまま家に帰れない気もしてきた。腹が減ったのでどこか喰える場所がないかとも探したが、どこも営業時間外だった。この大通り沿いには、幾らかコンビニの看板を背負った民家がよくあった。しかも明るく光っているので、しばしば騙されて苛立った。どうしてただの民家なのに商売の看板を出しているのかよく分からなかったが、それも自分が現在の人間の文化に長いこと疎遠であったからと理由付けた。もうすっかり日が暮れて真っ暗だ。先ほどまで日が照っていたのに、非常に時間の流れが早い。ちらちら通っていた車も、もう一台もこの大通りを走って行く気配が無い。信号が無意味に不気味がって光っているのみだ。すると、歩道の真ん中で男が蹲っているのが分かったので、近くに寄って見た。

 男は非常に息を荒くしていて、肩が上下しものすごく汗をかいているので、見える部分の皮膚はちかちかする信号でてかっていた。救急車を呼びますかと聞くと、いらないと息切れ切れに言った。どうにもこのままじゃまずいのは分かっているが、しかし男は助かりたくないらしい。暫くしてもう一度救急車を呼びましょうかと尋ねた時には、もう周りの声に反応する余裕すら無くなってしまっていた。どうやら死ぬようだ。男は息を大きくする袋になっていた。段々とその息も静かになる。もう少しで途絶えるという所で、男は声を上げた。痰がからまったようなしわくちゃな声だ。自分が隣に居ることを理解していないようだったので、独り言だと思う。

「おれは、昔鳥だった。翼を広げればその端から端で黒目川を全部抱きかかえるくらいの巨大な翼を持ったものだったのだ。おれは世界中を飛んで飛び回って、色んな国を見て回った。なぜかと言うと住処を探していたんだ。そこに帰れば安心してゆっくり眠りにつける寝ぐらを探したんだ。だが、結局見つからなかった。何処に行ってもそこは既に誰かのもので、おれの居場所は地上には最早無く、この空くらいしか無かったのだよ。だからおれは、鴻になって空を渡り続けていたのだと気付いた時には、両翼は余りにも酷使し過ぎたせいで千切れてしまって、地上に叩きつけられ、おれはただの人間になりさがっていたんだ」

 そうひとりごちてすぐ、鴻は大きな息をひとつすると永劫だまりこくった。

 自分は彼が巨大な鳥だった頃を想像した。大きな雲のように大空を覆うそれは、自分が今まで見てきた空の景色とかぶるのだった。あの時土手で見た大きな雲海というのは、もしかしたら地上に立つことの叶わなかったかわいそうな鴻だったのかもしれない。それが余りにも簡単に想像できるようだったので、自分も昔は大空舞う鴻だったのかと思い出したのだった。かの鳥たちは果たして飛びたくて飛んでいるやからというのは、これっぽちも居ないのだろうかと感じたのだった。するとこいつは、近い将来の自分の事のようにも考えられたので、自分はかなしくなって泣いた。

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