靉靆
空が暗くなってきた。曇っている。今にも降りそうだが、なかなか降り出さない。覚えている限りでは、年末の日曜のことだった。広くてひどく閑散とした駐車場から白くて大きな建物を見上げていた。ショッピングモールか娯楽施設かなにかだろうか。しかし、中学校の校舎だよと言われれば、慥かにそうだと思う。よく見るとちいさく凸凹した外壁には黒い皹が入っている。皹が入ったままの箇所もあれば、新しく上から補強したような跡の付いた皹もあるようだ。じっと外壁を見ていると、なにやらオレンジ色の小さい一匹のはぐれた蟻がそこを登っているのが分かった。もしやと思って足元を詳しく見ると、大勢のオレンジ色の蟻が外壁に沿って列を延々と作っていた。なんだろう、どこに向かっているのだろうかと思って蟻の向う方へ自分も壁をつたって行ってみることにした。
壁はどんどん続き、蟻の列もそれに従っていた。暫くすると駐車場が終わり外壁は左手に曲がって行った。蟻も自分もそれに従った。また暫く歩くと、壁が左手に曲がってあって、それに従い、また角があって曲がり、先ほど蟻を見つけた場所に戻ってきてしまった。どうやら一周してしまったようだ。この蟻は巣もなく獲物もなくただ何か白い建物の周りをぐるぐる回っているだけであった。変な蟻だと思っていると遠くの街で雷が落ちる音を聞いた。その方角を見ると駐車場の周りの雑木林の頭上に黒くて大きな雲が控えていた。これは一雨降りだすなと思って、雨宿りできる場所を探していると、白い建物に入り口があったのでそこから入ることにした。扉には鍵が付いていたので訳もなく自分は背後で閉める時その鍵を掛けた。中は暗かった。それは窓のせいだろうか。見えている窓のほとんどにはカーテンがついていて、明かりは自分の真上と、目の前に真っ直ぐと続く廊下の一番奥とに非常灯の緑があるだけだった。しかしそれだけではがてんのいかないほど、まるで建物に入った途端外が夜になってしまったように暗い気がした。廊下の半ばにある曲がり角から若干の白い光が出ている。人間の光かもしれないと思い、たしかめようと向かってみたが、曲がり角から現れたのは二台の自販機だった。低い機械音がする。右上にエネルゲンがあった。新千円札使えますと書いてあった。千円札が新しくなったのはどれほどまえのことだろうか考え込んだ。昔の千円札は新渡戸稲造だったか、たしかではない。あぐねていると、この自販機の廊下の先にも何か光がこぼれている気配がした。どうやら両開きのガラス戸の向こうには沢山の長い椅子が並んでいる。その椅子の右側から何か照らすものがあるのだ。自分はそこに向かった。
椅子はふかふかだが、めいいっぱいに埃をふくんでそうなので座ることはしなかった。椅子の列の奥にカウンターがある。天井はやけに高い。三階くらいまで吹き抜けのようだ。そして吹き抜けに沿ってガラス張りが施されている面があって、その下に自動ドアがあった。どうやらここが正面玄関のようだ。街明かりをこの薄暗い建物に吹き込んでいた。先ほど蟻と一緒に外周を巡った際には、こんな建物のこしらえには気づかなかったものだ。きっと、ずっと下を向いていたからだろう。吹き抜けの中心には、シャンデリアのような、オブジェのような、螺旋階段のような黄金と銀で彩られたものがぶら下がっていて、そのガラス張りの壁から入ってくる街灯の光を浴びて綺羅星のごとく光っている。おや、どうやら本当に夜になってしまったようだ。それとも、余程の厚さの雨雲が今頭上に長逗留しているせいなのかもしれない。
雨が本当に降ってきた。ひどい雨だ。ガラス張りの外は通りで、疎らにも通行人が通るのだが、みな傘をさしていた。あまりに急遽なもんだから、皆んなこぞってこの建物に雨宿りに来るだろうと考えたのだが、だれも入ってこなかった。もしかしたら、あの正面玄関は閉まったままなのかもしれないと思った。
重鈍な景色を見ていると暗い気持ちになる。自分はこの建物と一緒くたに忘れ去られてしまったようだ。それにさっきからなんだが体が重い。重いというか、余計なものを持っているせいで息切れしてしまったような、損した気分がよくする。自分の手を見ると、手から手が生えていた。いやこれは手じゃない。手というより食手に近い。ぶよぶよしていて骨がないようだ。冷たくて人間のものではないように感じる。ああわかった、これは生えているんじゃなくて、刺さっているんだ。管が刺さっている。そしてその管は隣まで伸びていた。……点滴だった。
いつから自分は点滴と一緒に歩いていたのか、検討もつかない。もしかしたら、小指がそこに生えているのと同じように、点滴が付いていることが当たり前になり過ぎてしまって、気づかなかったのかもとも考えた。どうして点滴なのだろうか、これは自分に足りない自分が必要とする大事な何かを自分に本当に与えてくれるのだろうか。点滴の棒を引っ張りながら正面玄関のガラスに近づいた。自動ドアのようだが、やはり近づいても反応しなかった。外は夜の雨の街だった。雨のにおいがする。ここは閑散としていて、それでいて外も閑散としていた。しかし幾ら閑散といったって、外には人が通り過ぎる姿がちらほら見える。この建物は本当に寂寞で寥寥なようで、だれ一人居ないのだ。自分これぽっきりなのである。
次第にここが小さい頃入院した病院だと分かった。そしてどこに行っても人がいなくて真っ暗なのも、真夜中だからだろうと考えた。当時自分は点滴を打ちながら一日中ぼおっとしていた。ぼおっとしていたというが、静かなものではなかった。自分が入院する前からいる、自分と同じくらいの年齢の男の子が隣のベッドにいた。そいつがすごく騒ぎ立てるし(夜中だって)、私の母親がなぐさめにと持ってきてくれた少年誌だって、勝手に私から取り上げて読み始めたり雑誌についてきた付録をダメにしたりと、我儘でうざったらしい奴だった。
その子がね、泣いているんだよ。と、退院して数年後何かの拍子に母親は私に語った。お前が入院していたとき、隣に同じくらいの男の子がいたでしょう、その子はね、あたしがお前に見舞いするたびに、こっちを見て、あたしの顔をじっと見て泣いているんだよ。淋しくてお母さんによっぽど会いたかったんだろうね。と。
自分はその男の子より先に具合がよくなって退院したのを覚えている。あの子はもしかしたら、まだこの病院にいるかもしれないと思った。丁度いいから会ってみようとも考えたが、やめにした。あの子は自分より容態が悪かったらしいし、母親を見て泣いていたのだから、もしかしたらあの後死んでしまったのかもしれない。それならば少し気味が悪いので、早くこの病院を出たくなった。外に出る時には既に雨雲も土砂降りも過ぎ去っていた。山々が入相の光を受けて、峰の筋状の天辺をなぞるようにキラキラと光るように、琥珀色の街頭が薄暗い町の闇の行列の間に顔を出していて、それが所々たまった水たまりを芸術的にしていた。雨の匂いがよくする、水に濡れたアスファルトのにおいだ。建物の外周を回っていたあのオレンジの蟻達はどこにも居なかった。たぶんあの雨で全部流されてしまったのだろうと思う。
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