白子玉

 自分がちょうど小学生くらいのころ、盆で叔母の家に逗留していた最中、冷房がとつぜん動かなくなってしまったもので、一日だけやけに暑くてつらい思いをした記憶が有る。昼前くらいに業者が来て、冷房機のふたをおもむろに開けてなにか作業しているのを遠くで眺めていた。私は団扇で扇ぎながら業者の作業する光景を、彼の後ろからぼーっと眺めていた。ちらちらとその業者の背中越しに冷房の中身がわかる。冷房の外壁を取ると中はどうやら綿を一面につけたような板が挟まっていて、それも外してしまうと、今度はいかにも機械じみた表面が見えるのだが、その機械真皮のど真ん中に、大きな丸い窪みがぽっかりとあいているのだ。それは例えばその手前に据えてあったあの綿毛のフィルターらしきものの背中がそういう円形に出っ張っているというわけでもなく、まるでなにかその円形の不在を示しているようだった。小汚い業者は「あー、やっぱり、なくなっていますね。」と小芝居のように言った。一寸首に掛けたタオルで顔の汗を拭って、「今事務所に掛け合って調達して来てもらいますんで。」とこちらを振り返って言った。それを聞いた叔母がどれどれ、と冷房機を垣間見て、「あらほんと。すっかり無くなっちゃってるわ。……それじゃ、お願いしようかしら。」と、団扇でパタパタしながら業者に言った。すると、彼は泥臭い道具を冷房機の下に置いたまま、外に出てしまった。自分は何が無くなってしまったのか叔母に尋ねると、白子玉さ、……冷房璧だよと言った。

 帰ってきた工事業者によると、事務所の冷房璧の在庫は切らしてしまっているようで、すこし調達に時間がかかると家族に説明していた。私が逗留している間に与えられていた部屋には冷房はあるが、手入れがされておらず効きも悪いのだった。だから暑い昼間の間はちゃんとした冷房がある居間で過ごしていた。いつも通り携帯ゲーム機で暇をつぶそうとしたが、涼しくない。これほどあついのなら分別はないだろうと、久しぶりに家の裏山で遊ぶことにした。裏山には四分五分程度の竹林と雑木林がある。急な崖ぞいのこの裏山は、秋になるとよくどんぐりが拾えるらしいのでどんぐり山と近所の子供たちは呼んでいた。自分もかつて、この家に帰ってくるたびにこの裏山で遊んでいたが、いつからか裏山にはだんだんと出掛けなくなって、家の中でゲームをするようになったのだ。夏の今はよく虫が取れる。自分は昔者そうであったように、りっぱな水牛でも捕まえてやろうと林の中を歩いていると、なにやら遠くで音がする。車が走るような音と、甲高い悲鳴のようなものだ。自分はめずらしくなってその方へ向かった。崖の上の方だ。崖のふちの古くてささくれだらけの切り株からこっそり崖の上を覗いてみる。崖上のさびれた駐車場にあの業者の社名、『館野工務店』が入ったワンボックスカーが、エンジンをふかしたまま止まっていて、先程冷房機を分解した彼と、もう一人同じ作業着を着た、彼よりも小柄で丸顔の男がいた。その丸顔が丁度白い女の子の両手首を後ろできっちり縛り上げているところだった。実家の冷房機を分解した男は、ワンボックスカーの後ろっ側のドアを持ち上げて開放させながら、片手間で携帯電話で誰かと話していた。

「……はい、運良く裏側にいました。今事務所に戻ります。お客さんにはちゃんと説明してあるんで。……はい。準備の方、よろしくお願いします。」

 丸顔はどうやら女の子を車の中に詰め込みたいらしかったのだが、少女の抵抗が激しいので、どうにもうまくいかない様子。それを見た片方の男がすこし丸顔の手際の悪口を言って、ついに少女の足首をぐっと掴んで二人掛かりで車の中に押し込んでバタンとドアを閉めた。丸顔はすぐに車の助手席に乗り込んだ。もう片方の男は、それからも車に寄っ掛かりながら携帯電話で話していたが、暫くすると運転席に乗り込んでエンジンをブルルンとさせて、荒々しく駐車場から出て行った。あの真っ白い少女がさらわれた。

 自分は覗き見をしたことをとても後悔した。たぶん、あの男たちは夕暮れにでも、冷房璧とやらを抱えてまた家にやってくるだろうから、その時どうしても自分はぎこちなくなってしまって、垣間見がばれでもしたらどうしようと考えた。いや、でもこれは今すぐにでも叔母に、あいつらは人さらいだと忠告した方がいいかもしれない。けれど、やっぱりそれがあいつらの知るところとなったら、自分もただでは済まされないだろう。きっとあの少女のように乱暴に連れさらわれてしまうだろう。それだけは絶対に嫌だった。自分はその駐車場の隅っこの切り株の陰でしばらくじっとしたままでいた。手の甲にオレンジ色のざとうむしが這ってきた時にようやく我に返って、逃げるように崖を駆け下りていった。家の裏口を思い切り良く開けて洗面台に向かった。手を洗った。長い間地面に手をつけていたので、洗い流しても掌には土や落ち葉の跡がぼつぼつと残っていた。タオルで拭いて居間に戻ると、叔母が扇風機にあたりながらテレビの相撲を見ていた。テレビの右上にある冷房は、まだ蓋を外されたままなのであの窪みもぽっかりと開いたままだった。


 ちゃんと夕暮れにあの業者は例の二人でやってきた。こんどは大きな緑色のプラスティックの箱を抱えていた。叔母に、どうも遅れてしまってすみませんでしたと挨拶をして、例の冷房に向かった。その箱からくしゃくしゃのビニールを取り出すと、手袋をしてそのビニールの中に手を突っ込んで、何かを拾い上げた。現れたのは濁った白色の丸だった。出来の悪い泥だんごのようだ。脂のかたまりにも見える。手で捏ねくり回したような不恰好でその色も不健康に見えて、べたべたしていそうで触りたくもないと思った。……そうか、これが冷房に入るんだなとその時やっと分かった。業者はそれを冷房の窪みにぐいと押し込んで取り付けると、なんでもなかったかのようにフィルターを被せてもとのように蓋をしてしまった。丸顔が途端にリモコンで操作すると、冷房機は普段のように稼働しだして、涼しい風が流れてきた。この居間はもはやこの二人の業者、もとい人さらいが居る以外はなんの不自然はない。ありがとうございますと叔母が礼を言った。冷房璧交換で、〜〜円よろしくお願いします、と人さらいがうやうやしく言って、叔母から金を受け取った。いろいろな工具やあの緑の箱を抱えて、二人組はさっさとこの家から出て行った。その時まで自分は部屋の隅で震えながらじっとしていた。よかった、気づかれていない。どうやらあいつらは自分をさらおうとは思っていないようだ。そして今度はこんな罪人を放ったらかしにして挙句金まで渡す叔母が異常に見えてきた。叔母に冷房璧ってどうしても必要なものなのかい、と尋ねると叔母はあたりまえさ、だって無くなってしまっていて、動いていなかったじゃないと、言わずもがなという表情でしゃべった。

 爾来自分は冷房璧とあの少女を心の淵にとどめていて、たとえば高校生の時、教室の冷房の調子が悪いものだから、昼休み友人に玉がなくなってしまっているらしい、と話すとそれは一体何だと聞くので、おまえは玉も知らないのか。冷房に入っている白子玉だよと言うものの、どうにも彼らはしっくりこない様子なので冷房の蓋をがっぽりと開けてフィルターを外して、白子玉を友人に見せてやろうとしたのだが、どこにも玉がない。あの窪みすらなかった。友人が白子玉はどこだと追い立てるもんだから、こっちもムキになって冷房を分解しようとしたが、その前に先生に叱られて元に戻した。璧もその窪みも見つからなかった。一体どうしたものだろう、この数年のうちに技術革新でも起きて白子玉は要らなくなってしまったのかなと考えた。それだとしたら、もうあの時の様にがんぜない少女が、冷房璧の為に犠牲になるような悲しい事態は無くなるのではないかと感じた。しかし、自分はいつまで経ってもあの工務店が、人体を使って金儲けをしている筈で、きっと今度は水子の小指でも集めているに違いないと考えていた。そしてそれは我々が普段ごく普通に感じている機序の一部分や、市場的な新機能に、残酷な程必要不可欠の地位を与えられているように思われた。

 大学の夏、久しぶりに叔母の家に出向いたときには、既に冷房は新しいものに代わってあった。やっぱり風の出が悪くなって、二三年前に取っ替えたと叔母は言っていた。新しい冷房も念のため蓋を開けてみてたものの、やはりそれらしきものも、機構もなかった。叔母さん、それは白子玉が無くなってしまったからじゃないですかね、そいつさえ持って来れば新しく冷房を仕立てなくても良かったかもしれない、と話すと叔母はそうだったかねえと言った。

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