邪悪

 邪悪の雰囲気は時に近所にまで齎される。それは朝、うららかな朝日を期待するところに湿った地面と空気、山の森の中に居るように錯覚させる天気が時に構成要員となる。アスファルトの大波小波に発疹のごとく出来るごくごく小さな水溜りがきらきらと砂漠の砂粒のように、曖昧な雲を突き抜けやって来た日光を僅かに小さい粒のその一つ一つに収斂させようとするのは潜在的な万人のトライポフォビアの意識をくすぐる光景に違いない。その上に厚い靴底を乗せて、ひねりつぶしてやるようにありき今日も誰かはどこかへ向かわなくてはならない。そういった朝の倦怠感だけは物足りないような、かの敏感を忘れた頃合いを見計らうようないやらしい企ての発案者の上に曲がった口角が見て取れる気分、それがそう野分柄の曇りガラス一枚の蒙昧の余裕をもってして我々の前に仁王立ちしている朝に邪悪は潜む。

 ここに一人の男が居る。この男にはおおよそ一般という常識がなかった。そしてその歳に見合う一般的な知能も持ち合わせていなかった。彼は醜い幼児であった。少し同情しても児童程度であるが、兎に角この男は先立った両親の遺産を食い潰しながら生きていた。そういうわけで男は曲がりなりにも幼児の第六感という不思議な意識を有していて、それが朝キンキンと脳髄を刺激して危険信号するのが男はたまらなく嫌で、良く朝は誰に甘えるわけでもなく汚い部屋の万年床の上でひとり大泣きをしていた。男は次第に敏感にその気配を察知するようになり、一日中部屋の布団の中に居ることが多くなって、随分と痩せてしまった。三日間布団の中で泣きわめいた後、流石に疲れた様子で男はアパートを七時半に出た。男は邪悪な気配が恐ろしくてたまらないので、外で背中をすっからかんにすることが禁忌であった。なので必然と背中を民家の壁や塀にぴったりと附けて歩くので、はたから見ればとても滑稽なようすで、通学途中の小学生に蟹ジジイと笑われてしまった。男は自分が滑稽な風貌であることを十分理解していたが、止めるわけにもいかないので、どうすればいいのかわからなくなって吠えた。背中を見せたら邪悪に後ろから刃物をぐさりと突き立てられてしまうというのだから、何があっても絶対背中を壁から離してはいけないのだ。だのにどうしてあの砂利どもは俺を指差し笑えるのだろうか、自分がこれっぽっちも邪悪の標的たりえるものだと理解していないのだろう、という具合のことをその男は心の中で思った。近所のコンビニまでその見世物小屋は続いた。

 コンビニのけばけばしい看板が見えると男はやった、と心が弾んでうっかり壁から背中を離してしまうのだった。するとどうだろう、面目なく自動ドアに向かって走る男の背中に、悪魔のとがった人差し指が背中の筋に沿ってつつーと尻まで滑り落ちていく冷たい風を男は咄嗟に感じて、悲鳴を上げてしまった。近くに壁はないので、男は暫くうねった挙句地面に背中を付けることにした。地面に背中を附けるとほてった満腔を一瞬で冷ます冷たいアスファルトだった。先ほどの邪悪の気配の凍える感覚とは又違った、この独り身の男に味方してくれるようなやわかい自然の冷たさだった。そして必然と真上の空を見上げることになった。男は空を初めてみたような錯覚に落ち込んでいった。空は真っ白だった。雲の隙間も太陽の影もない。真っ白い画用紙だった。無害だった。その空は男に対して無害だった。男はこんな関係を持ったのは久しぶりのように思った。自分も、そして向こうも向こうをそれとして成してしまう因襲に組み込まれてしまっている意識、互いに彼を彼たらしめる存在としての自分の無存在という心地よさを男は学習していた。調子付けるような背後の冷たさをよすがに、男は邪悪の魂を煽る文言を空に向かって吐いた。今、男はここ何年にないくらいに機嫌がよかった。吐いた文句は放物線を素早く描いて男の顔に唾を返してきた。邪悪がこの男を出し抜けずに考えあぐねて、地団駄を踏んずけている光景がよく思い浮かんでいた。


 邪悪はその存在を決定づける唯一の邪悪さを持っていて、無論今日の街にも邪悪は潜伏している。

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