第6話雨中嵐山

静江は旅館でなかなか眠れなかった。

『全てのことに意味がある』

『一度しかない人生』


孔明の笑顔と逢源双橋が写し重なる。

この言葉が何度も静江の耳元に響いた。


年が明けて1月下旬に、静江のところに

航空便が届いた。4月12日午前11時

京都着。午後5時帰京。わずか6時間の


京都見物だ。母の協力を得て移動はすべて

母の運転する車。誠に申し訳なく思いながら、

「いえいえこちらこそ」と母も興味津々。


美貌の青年となると母娘とも心は浮ついてくる。

時はまさに桜花爛漫、桜吹雪の嵐山。


「アメリカねえ。永住するつもりなんでしょう、

そのひと?」

「たぶん」

「シリコンバレーてどんなとこ?」

「全然知らない」

「そう」


「一度しかない人生」

「そうよね。一度しかない人生だよ、静江」

「でもまだプロポーズされた訳でも何でもないのよ」


「だけど、あなた間違いなく張り切ってるわよ」

「お母さんこそ」

母と娘はいつになく華やいでいた。


4月12日は暖かい無風の春霞。それでもちらり

ほらりと桜は散り続ける。次の一夜の嵐で


全部散ってしまうのかと思うと、風よ吹くな

そっとしといてと手を合わせたくなる。


京都駅の八条口で母を待たせ、孔明をつれて

戻ってきた時の母の一瞬のあんぐりとした驚きを

静江は見逃さなかった。


「はじめまして王孔明です」

「静江の母です。さ、どうぞどうぞ」

後部のドアを開けて二人が乗り込む。


「では行くわよ」

母の声は少し上ずっていた。


嵐山は吉兆の裏手に車を止めて三人で歩く。

桂川の川面は花筏がここかしこ。中ノ島の桜は

もう散り終えて葉桜に、柳の黄緑とが映えている。


渡月橋を左手に見ながら川沿いを上流へ歩む。孔明

はその美しさに何度もたち止まって驚嘆の声をあげた。


亀山公園はこの先の丘の林の中にある。

その中腹に周恩来の石碑があるのだ。


『雨中嵐山 周恩来 1919年4月5日


雨中二次遊嵐山    雨の中二度嵐山に遊ぶ。

両岸蒼松       両岸の蒼松が幾本かの

挟着几株桜      桜を挟んでいる。

           その尽きる所に

到尽処突見一山高   一つの山がそびえている。

流出泉水緑如許    流れる水はかくも緑。

綴石照人       石をめぐりて人影写す。

満々雨        雨脚は強く、

霧蒙濃        霧は濃く立ちこめ、

           その雲間から、

一線光穿云出     一筋の光がさっと差し、

癒見佼介       眺めは一段と美しい。


人間的万象真理    人間社会の全真理は、

癒求癒模湖      求めるほど曖昧だ。

           だがその曖昧さの中で、

模湖中偶然見着    一点の光明を

一点光明       見つけた時には、

真癒覚佼介      さらに美しく思われる。   』


4月5日だから桜は満開か八分咲きで雨上がり、

蒼松に映えてさぞ美しかったことだろう。


その後すぐに決意を込めて中国の革命に身を投じた。

周恩来の青春の魂の場所だ。


記念写真を何枚か撮って二人は鴨川まで送ってもらった。

四条大橋、先斗町で二人は降りた。母は笑顔で孔明に、


「又来てくださいね。帰ったらご両親によろしく

お伝えください」


そう言って発車した。二人は先斗町を上がり、

歌舞練場脇から鴨川土手に下りた。

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