第2話償い
日記はここで終わっていた。
頁をめくると今度はひらがなで、最近のものだ。
「その時からずっと、このまぶたに焼きついた瞳と
この写真を持ち続けてきた。免罪符のように。
もうすぐ私は死ぬ。静江は一人娘を事故で亡くして
落ち込んで、離婚して、今一人で中国を旅してると
お母さんに聞いた。苦しい旅だったろう。何とか
立ち直って欲しい。静江が立ち直れたら、是非この
写真と首飾りを烏鎮の双橋から川の中に捨てて来て
くれまいか。心残りはそれだけだ。そしてこれが
私にできる唯一の償いなのだと思う」
階下で母の声がした。
「静江、ごはんよ!」
静江は笑みながらも思いつめた眼差しでテーブルに着く。
「で、なんて書いてあったの?」
「うん、とても一言では言えない。私又明日中国へ旅立
つからお父さんにそう言っといて」
「ええっ?」
「心配しないで、おじいちゃんの償いを果たして帰って
くるだけだから」
「おじいちゃんの償い?」
「うん、償い。そこから又私の新しい人生が始まるって
感じ。おじいちゃんに感謝してます」
「感謝?さっぱり分からないわ」
「それでいいの。とにかくいい事だから心配しないで」
「分かったわ、心配しない」
「オーケー。じゃあ、いただきます」
「元気が何より、いいことね」
「うん、とってもいいこと。フフフ」
静江は満足そうに笑った。
食事を終えると静江は荷をほどくまもなく
再び中国へ向かった。
12月、霧雨の中、静江は烏鎮に着いた。
上海南站からバスで2時間。烏鎮のバスターミナルは
ぬかるんでいた。夕方はもう日が暮れかけて、
薄暗がりの中から客引きが現れる。
とにかく宿所を探さなければ。
一見上品そうなおばさんが旅館の名刺を出してきた。
青年旅館100元と書いてある。
「熱水、空調、テレビあり。80元?」
「空調不要。60元?好?」
「60元好。看一看」
向かいの路地裏の安宿。ペンション風で若作りだが
やはり隣の音は丸聞こえで熱水は出なかった。
幸い景区はすぐ近くで歩いて回れそう。ゆっくりと
その夜は眠るつもりだったが、夢にうなされた。
65年前この地で杭州から上陸した日本陸軍歩兵部隊は
各村々を襲い略奪し虐殺し焼き尽くして南京を目指した。
祖父は上官に脅されて病身の女性を銃剣で刺した。
その女性が死に際に渡したロケットペンダント。
なぜか捨てきれず、この烏鎮に捨ててきてくれと、
鎮魂の65年が一瞬にして写し重なる。
捨てようとはしたのだろうがどうしても捨て切れなかった。
命に深く刻まれた大罪の意識は絶対に一生消滅はしない。
死んだ後も永遠に宇宙に残るものだろう。
祖父の苦悩の映像が夢の中で反復する。すがるような絶望
の眼差しが急に大きくなって静江に迫る。静江は大汗を
かいて早朝目を覚ました。
朝食を済ませて景区へと向かう。大きな石橋のふもとで
遊覧券を買うと景区遊覧図が付いていた。よく見つめると
9つの大小の橋がかかっていて1.5kmほど先の一番東
詰めに、逢源双橋という屋根の付いた木の橋がイラスト入
りで載っている。
『この橋だわ双橋というのは。なぜこの橋からと祖父は
指定したのだろう?』
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