2029/07/13(金) - データを引き継ぎますか? -

第14話「その記憶は自分の中に」

 それは些細ささいな、しかし確かな変化だった。

 緋瑪ヒメは今、想いを行動で表現する感動を知った。たかだか仮想現実バーチャルリアリティの、ネットゲームでの出来事だったが、それは緋瑪自身にとっては大きく重い。行動できたという確かな実感は、今も胸にくすぶっている。小さな変革を経て今、平凡で退屈だった学校生活すらも緋瑪には一変して見えた。


 夏休みへと駆けこむ直前の、華やいだ教室の放課後。

 その浮かれた雰囲気に、緋瑪の気持ちも軽やかだ。申し訳程度の挨拶を投げてくるクラスメイトに、普段より少し柔らかい声を返して立ち上がる。愛想がよくなった緋瑪へいぶかしげに振り返るクラスメイト達も気にならない。


 すでに気持ちは【石花幻想譚】へ、【ブライダリア】へとせる。

 緋瑪にとって特別な、【ブライダリア】にとって最後の週末が始まろうとしていた。

 【エルフターミナル】が視界に表示する時刻を気にしながら、緋瑪は帰り支度を終える。気付けばネットゲームに夢中になっている、そんな自分が少しおかしい。いつもは固く結ばれた桜色のくちびるが、わずかにその形をゆるめていた。


「おいみんなぁ! これ見ろよ、これぇ! 傑作だぜ、コイツはよぉ」


 不意に授業用の液晶黒板えきしょうこくばんがブーンとうなり、半数ほど残っていた生徒達が目を向ける。そこには、峰人ミネトの首根っこを抑えて、彼の【エルフターミナル】を黒板へと接続した加賀野カガノの姿があった。

 峰人のデスクトップイメージが教室の前面に大きく映りこみ、女子の間から「やだー」とか「ちょっと男子ー!」というたぐいの声が上がった。緋瑪の目にも、ゲームのキャラクターが描かれた壁紙が見えた。


「やめてよ加賀野くん……僕、今日は急いで帰りたいんだよ」

「っせー、いいからだーってろ。はぁい! では伊勢谷の【エルフターミナル】の中身、お見せしまぁーす!」


 ――公開処刑。

 そんな言葉が緋瑪の脳裏をよぎった。

 加賀野の取り巻き達が口笛を吹き、教室内にどよめきが広がる。峰人は必死に抵抗して、自分の接続されたコードを引き抜こうともがいた。しかし悲しいかな、腕力では加賀野に全くかなわない。

 次々とクラスメイト達の目の前で、プライベートなフォルダが展開されていった。


「おいおい、ホントにゲームばっかだな? よくまあこんなに集めたもんだぜ」

「おっ、加賀野! この体験版、貸してもらおうぜ。ちょっちやりてーよ」

「ゲームばっかりやってっとな、伊勢谷! ほんとにバカになっちまうんだからな!」


 液晶黒板は、黒板とは名ばかりの巨大なディスプレイだ。教師達は自分の【エルフターミナル】をケーブル接続し、その中の電子教材で授業を進める。無論、操作も見る側にわかり易いよう、黒板の上をポインタでタッチして行われた。

 基本的に私立白台学園しりつはくだいがくえん内は他の学校同様、校内では【ユニバーサルネットワーク】への接続が禁止されている。広い学園の敷地内では、【エルフターミナル】はヘッドホン型携帯端末以上の意味はない。

 そもそも、【ユニバーサルネットワーク】を通じての教育を求める子供は、もう学校などという制度を利用する必要はなくなっていた。通信教育で全て事足りる。それでも情操教育上じょうそうきょういくじょうの観点から、学校が完全に仮想現実へと存在を転じることはなかった。

 加賀野の取り巻き達が背伸びしながら手を伸べ、黒板のフォルダをタッチして開いた。


「ちょっとやだ……伊勢谷くんってば、ゲームマニアじゃない」

「あーゆーの、信じらんない」

「いるよね、仮想現実系にドップリ入りこんじゃう奴」


 【ユニバーサルネットワーク】が作り出す仮想現実は、総じて実際の現実よりも甘く優しく、溺れやすい。そしてもう、そこでは二次元や三次元といった視覚的な区分は無意味なものになっていた。

 緋瑪は改めて、峰人の趣味に驚かされる。しかしそれよりも単純に、人の【エルフターミナル】内に土足で上がりこみ、あまつさえ大勢の好奇の視線に曝す加賀野達が許せなかった。

 もし、自分のデータをクラスメイト達に見られたら、どう思われるだろう。普段から誰とも喋らず孤立している緋瑪は……三国志等の小説や漫画ばかり読んでいるのだ。


「自分が見られたら、とか……考えないんだ。だからこんな」


 ひとりごちて一歩、自分の机から踏み出す。黒板の周囲に集まるクラスメイト達の、その居並ぶ背に緋瑪は近付いてゆく。今日はもう、ただ見てるだけの自分とは……昨日までの自分とは違う。相変わらず緊張に鼓動は高鳴り、息が詰まって鼻の奥に重さを感じる。だが、構わず緋瑪は少しずつ、ゆっくりとだが歩いた。


「お? おお? はい注目っ! みんな注目、ここテストに出るからなー」


 教師のモノマネをしながら、峰人を解放した加賀野が中央に躍り出る。自由の身になった峰人は、加賀野が手を伸べるフォルダに気付いた。あわててコードを引っこ抜こうと試みるが、加賀野の取り巻きコンビが即座に押さえ込む。

 おどけながら加賀野が触れる、そのフォルダの中身に緋瑪は見覚えがあった。


ちまたうわさの、【石花幻想譚】だっ! まあ、峰人くらいのゲームオタクには必須ですねえー」


 緋瑪にとって御馴染おなじみになりつつある、【石花幻想譚】のアイコンが画面に現れた。その下に並ぶのは、緻密ちみつまとめられた攻略メモと……峰人の日記帳。

 一際大きく、全身に響く鼓動がドクン! と高鳴った。

 大勢の目の前で、あの日記が公開されてしまったら。その事を考えれば自然と、緋瑪の顔は熱くなる。まるで火がついたような熱感はすぐ全身に広まり、頭の中はバチバチと神経が焼け切れるような感覚にひりついた。


「やめてよ、加賀野くん……もう、やめてよっ!」


 峰人がいつになく強い語気で叫んだ。

 一瞬だけ教室が静まり返り、ゆっくりと加賀野が峰人へ振り返る。眉根を寄せた表情は、明らかに怒りの色がにじんでいた。それは例えて言うなら、飼い犬に手を噛まれたという顔である。その傲慢ごうまんさはゆるがたい。


「あんだ伊勢谷、手前ぇ……急に血相変えやがって、そんなにネトゲが大事かぁ?」


 険しい視線で峰人をにらみながら、加賀野が問い詰める。峰人は無言の視線で肯定した。

 次の瞬間、加賀野は爆笑に身をらせた。互いの顔を見合わせる取り巻き連中にも、その笑いは伝染してゆく。


「こいつは傑作だ! そうだよな、多分これが……ネットゲームがお前の唯一の逃げ場なんだもんな! しかもこれ、【石花幻想譚】て……確か明後日あさってで終っちまうんだよなぁ?」


 加賀野が【石花幻想譚】の、宝石に花びらをあしらったアイコンを、軽く飛び跳ねデスクトップ中央へと引きずり下ろす。その時、緋瑪の中で何かがはじけた。ただ考えもなく、人混みの中へと割って入ろうとクラスメイトの肩に手を置く。


「ごめん、通して」

「えっ、あ、うん――朱崎アケザキさん? ちょっと朱崎さん、鼻血! 鼻血出てるよ!?」


 言われて初めて、緋瑪は唇を濡らすぬるりとした感触に気付いた。教えてくれたクラスメイトの善意が、黒板に釘付けだった周囲の視線を緋瑪に殺到さっとうさせる。


「大丈夫? 朱崎さん真面目だもんね、ちょっと刺激強すぎたよね」

「こらー、バカ加賀野! いいからもうやめなさいよね!」

「そうよ、朱崎さんビックリしちゃったじゃない! こういう子のことも考えなさいよー!」


 女生徒達から抗議の声が上がり、次いで心配するように緋瑪の周りに人が集まり出す。突然自分が騒ぎの中心になって、緋瑪は完全に思考が停止してしまった。前へ前へと彼女を駆り立てていた熱が、しおが引くように失われてゆく。かわって指先までくまなく伝播でんぱんしてゆくのは、極度に身を強張こわばらせる凍てついた感覚。。

 かけられる声にも上手くこたえられず、何よりそんな状態に戻ってしまった自分が情けなく……緋瑪はただうろたえながら、震える手で差し出されるティッシュを受け取った。

 現実は結局、何も変わってはいなかった。


「あ? 何だそりゃ? チッ、面白くねぇ……伊勢谷ぁ! これ、削除な!」


 教室中の興味が、加賀野から緋瑪に移った。

 それが面白くないのか、加賀野はイライラとした自分を隠さない。声をあらげて乱暴に黒板を叩き、その都度揺らぐ【石花幻想譚】のアイコンをつかむ。彼はそのまま、ゴミ箱へとドラッグしようとした。


「やめてよ加賀野くん、それは……それは大事なものなんだっ!」


 峰人が叫ぶと同時に、身を捩じらせて抵抗を示す。教室の空気も加賀野に対して、あんにやり過ぎだと告げていた。それが逆に、加賀野の意固地なプライドを逆撫さかなでする。


「おいおい、何マジになってんだぁ? 明後日終るも今終わるも一緒だろぉがよ」

「一緒じゃないっ! 僕にはまだ、やるべきことがあるんだ……できたんだっ!」


 加賀野を睨む峰人の瞳は、いつになく強い眼差しをともして光る。普段からは想像もつかない、がんとした抵抗が加賀野の怒りを激しくあおった。

 そして、緋瑪は峰人と目が合った。

 鼻を押さえて周囲の女生徒に気遣きづかわれ、落ち着かない様子でうろたえる緋瑪。自分自身への失望に彩られた緋瑪の瞳に、峰人の視線が注がれ交錯こうさくする。思わず緋瑪は目を背けた。同時に峰人は、再度加賀野を睨みつけて手足をばたつかせる。


「おっ、何だ? おい加賀野、こいつマジになってんぜ? どうするよ」

「いいから暴れん――うわっ!」


 なりふり構わず同級生の縛鎖ばくさほどいて、峰人は【エルフターミナル】からケーブルを引っこ抜いた。瞬時に映像が消え失せ、黒板が沈黙する。


「ははっ、面白ぇ。伊勢谷ぁ、そんなにネットゲームが、現実逃避が大事かぁ? ああ?」

「もう、現実逃避じゃないっ! 僕は……僕はっ!」

「ま、月曜に会う時はもう、手前ぇはその現実からの逃げ場所さえ失ってるんだけどな。せいぜい楽しい週末を送れや……おう、帰んぞ!」


 加賀野がきびすを返して、教室の戸口に立つ。彼の取り巻きも順々に峰人を小突いて後に従った。ようやく終る陰湿いんしつな光景に、緋瑪は心のどこかで安堵あんどしていた。同時に、無力な自分がなまりのように重い。

 何も、変わってはいなかった。

 おとずれたと錯覚した変化は、ゲームがもたらす一時いっとき疑似体験ぎじたいけん――あくまで、現実世界ではない【ブライダリア】に限っての話だったのだ。

 初めて手にした小さな自信さえも、無残にくだけてゆくのを感じる。

 その耳朶じだを峰人の声が突如とつじょとしてった。


「僕は……何も失わないよ。逆に、このゲームを終えることで、僕は手にするんだ。そのための――」


 峰人の言葉を女子の悲鳴が遮った。

 去りかけた加賀野は、猛然と振り返るなり駆け寄り……有無を言わさず峰人を殴ったのだ。大きくよろけて尻餅をついた峰人の頭から、【エルフターミナル】が外れて床に転がる。

 その光景に緋瑪は、忘却ぼうきゃくに沈殿した記憶の化石がうずくのを感じた。


 ――床に渇いた音を立てる、ターミナルの落ちる音。

 それは寒さに凍える冬の記憶を呼び覚ます。

 だが、その全てを掘り起こすのは、今の緋瑪には無理だった。

 彼女はただ、口々に加賀野と峰人の両者に嫌悪けんおつぶやく女子の中から、逃げるように抜け出した。鞄を手に、涙をこらえて教室から走り去った。

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