2029/07/11/(水) - データをロードしますか? -

第5話「そして、いつもの朝がはじまる」

 早朝、七時を回ったばかりの私立白台学園しりつはくだいがくえんは静けさに満ちていた。時々響く運動部の声も遠く、言葉の輪郭りんかくが空気に溶け消える。ただの音としてそれは、まるでBGMのように流れていた。

 そんな中、廊下を歩く緋瑪ヒメの足音が嫌に響く。


「あ……」


 教室の戸をそろりとけて、思わず緋瑪は小さな声をらした。

 誰もいないことを期待しての早朝登校だったが、一番いて欲しくない人物の背中が目に飛びこんできた。小柄な男子生徒が、床にいつくばっている。

 気付かれないよう即座に戸を閉める。緋瑪は想定外そうていがいの事態に心臓が激しく脈打った。スカートのポケットに震える手を差し入れ、その中の【メモリング】を何度も握りなおす。


 教室内の人物……伊勢谷峰人イセヤミネトは間違いなく、紛失した【メモリング】を探していた。

 細心の注意を払って、音を立てぬようわずかに戸を引いた。小さな隙間から教室の中を緋瑪はのぞき見る。

 峰人は緋瑪に気付く様子も見せず、真剣な表情で教室内を這いまわっていた。やがて彼は立ち上がり、うつむき大きな溜息ためいきを一つ。丸まった背が落胆らくたんを発散している。

 ポケットの中の手に力をこめて決意をうながすと、緋瑪は意を決して戸を開けはなった。その音に振りかえる峰人と、自然と目が合う。緋瑪は緊張に身が強張った。

 黙って見てはいられない――緋瑪は自分を心の中で叱咤しったする。朱崎緋瑪、お前はやればできる子、と。その自問じもんに、その通りだと自答じとうした瞬間、彼女は峰人に声をかけられた。


「――あ、あっ、朱崎アケザキさん!?」

「は、はひっ!」

「えっと、その……おはよう、今日は早いんだね。どしたの?」

「え、あ、うん。おは、よう」


 峰人は緋瑪へと、おどろきながらも挨拶の言葉を向けてきた。ごくありふれた、クラスメイト同士のやりとりも緋瑪にはハードルが高い。鼓動が高鳴り呼吸が浅くなる。

 頭の中で組み立てた言葉が、なかなか声になって伝わらない。それでも緋瑪は懸命に喉から思いを絞り出した。


「いっ、伊勢谷くんも、早いね」

「あ、ああ、うん。……ちょっとね、落し物を探してるんだ」


 峰人は困ったような苦笑でしきりに頭をく。小柄で細身の、柔和で少女然しょうじょぜんとした顔立ち。中学二年生にしては幼く、頼りなく見える。なにより、同年代の男子に比べて活発さが感じられず、どこか気弱な印象を緋瑪に再認識させた。

 緋瑪は、峰人と――級友とまともに喋ったのは久しぶりだった。これだけの会話でさえ、彼女にはちょっとした大冒険である。自分を落ち着かせるよう、緋瑪はスカーフを結んだ制服の胸元を手で押さえた。

 ただ、拾ったと言って差しだせばいい。ポケットの中に握り締めた【メモリング】を。


「あっ、あの……」

「う、うん。どっ、どしたの、朱崎さん」

「その、ええと」

「? ……顔、赤いよ」


 要領ようりょうを得ない言葉の断片が、ブツ切りで緋瑪の唇からこぼれる。

 鼻の奥が、熱い。

 峰人は峰人で、首をかしげながらも、目が泳いで視線を彷徨さまよわせていた。それでも緋瑪がうつむき黙ると、心配そうに顔を覗きこんでくる。

 顔が火照ほてるのを感じる――峰人が言う通り、また真っ赤になっているだろうと緋瑪は確信してしまう。しかし頭の中は真逆で、真っ白だった。

 結果、【メモリング】を返さなければという思いだけが、不器用な行動となった。


「……んっ!」


 ようやく震える右手をポケットから引っこ抜き、峰人へとぶっきらぼうに突き出す緋瑪。固く握った拳を鼻先に突き出され、峰人は身をのけぞらせた。

 緋瑪はもう必死で、ゆっくりと手の平を上に拳をほどいてゆく。その小さな手の中に【メモリング】を見つけて、峰人の表情が明るく花咲いた。


「これは……ありがとうっ、朱崎さんっ!」

「ひっ! あ、あわわ」


 突然手を握られ、その上にさらに手が重なる。

 思わず緋瑪は、妙な声をあげてしまった。

 しかし構わず、笑顔で感謝をべながら、峰人は握る手を何度も上下させる。

 その時、久々に緋瑪はいつもの持病ルビを入力…発症はっしょうした。


「あ、あのっ……手」

「あ、ああっ!? ご、ごめんっ! ついうれしく――朱崎さん? あ、あの、また鼻から」


 つつ、と鼻腔びこうから伝う赤い血が一筋。

 ひとみを逸らして伏せながら、緋瑪はメモリングを押し付け峰人の手を振り解く。急いでポケットの中にティッシュを求めた。

 他者との会話をまともに出来ぬ緋瑪にとって、物理的な接触はもう未知の領域だった。極端に対話が苦手な彼女の、その緊張が臨界りんかいに達すると――いつも粘膜ねんまく決壊けっかいして、鼻血はとめどなく流れる。


「だ、大丈夫? 保健室いこうか、最近暑いからのぼせたのかも」

「へ、へっ、平気だから……いいから」


 なんとか場をつくろう緋瑪は、峰人を直視できずに顔をらす。引っこめた右手はまだ、かすかに熱い。その温もりが、毎度の鼻血の恥ずかしさを加速させた。自然と、ティッシュで鼻を押さえる左手に力がこもる。


 しかし、これでまずは一段落と、内心緋瑪は胸をろす。朝から予想外の展開で、随分と慌てふためいてしまったが、何とか無事に【メモリング】を返すことができた。

 逃げるように会話を打ち切ろうとした瞬間、峰人が意外な言葉を緋瑪へ投げかけてきた。


「本当に助かったよ、朱崎さん。こっ、これで二度目だね……助けて貰うの」

「え?」

「うん、ほら……半年前。朱崎さんが転校してきた、冬の。あ、覚えてない?」

「……ごっ、ごめん。わかんない」


 二度目? 前にも……助けた? 緋瑪の中で疑問符ぎもんふが浮かんで膨れ上がる。しかし記憶にはない。緋瑪が峰人に抱く謎は、さらなる謎を呼んで彼女の中で重みを増した。

 思案に沈む緋瑪はしかし、残念そうに机に腰掛ける峰人から徐々に離れた。

 だが、パンクしそうな緋瑪を峰人は尚も引き止める。

 鼻血はまだ、止まらない。


「そっか、覚えてない、か。あ、これの中、朱崎さんは見た?」


 チリン、と峰人の【ターミナル】に接続された【メモリング】が鳴った。中身を確認しているらしく、峰人は彼にだけ見える画面に視線を投じて問いかけてくる。


「みみ、みっ、見てない。あのっ、昨日の掃除っ! ……掃除当番だった、わたし」


 うそいた。

 咄嗟とっさに吐けてしまった。

 もし正直に、中身を見たと告げたなら。今、緋瑪がいだく峰人への疑問を、直接ぶつけることになりかねない。そんなことに自分が耐えられるとは、緋瑪は微塵みじんも思わなかった。

 ただこうして話しているだけで、もう彼女の心のキャパシティは限界なのだから。


「伊勢谷くんの、机の下に、落ちて、た……」


 それだけ言って、緋瑪は逃げた。

 同時に、教室内はにわかに騒がしくなる。

 気付けば他のクラスメイト達も、いくつかの集団に固まって次々と現れた。それを避けるように緋瑪は教室の後へ向う。遠ざかる彼女の後で、思わず手を伸べ立ち上がった峰人は、不意に長身の少年に肩を組まれていた。


「オッス、伊勢谷ぁ! 朝からゲームかぁ? 俺にもよこせよな!」

「あっ、加賀野カガノくん。おはよう、別にゲームって訳じゃ、いたっ!」


 ゲンコツが峰人の脳天に落ちた。その音を背後に聞いて、緋瑪の足が止まる。


「おはようございます、だろ? なぁにタメ口きいてんだ? あぁ?」


 振り向けばいつも通りの光景が、緋瑪の前で繰り広げられていた。ずっと、なんとかしたいと思いつつ……なにもできずに過ごしてきた。峰人は今日も、朝から乱暴者の加賀野にからまれていた。それは日常化しており、だれも止めようとしない。

 それは緋瑪も同じで、なかなか具体的な行動には移せなかった。

 結局緋瑪は今日も、自分の世界へと引篭ひきこもる。このクラスの名もなき生徒の一人として、与えられた役割をこなし、誰の目にも触れずに一日を終えるのだ。

 とりあえず日課である生き物係としての仕事をするべく、緋瑪は小さなプラスチックの如雨露じょうろを手に取った。水をみに教室を後にする、その背中で聞く峰人の声は無力さを実感させて、玩具おもちゃのような如雨露を握る手に力をこめさせた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る