第2話「魔術師セキトの旅立ち」
逃げこむように自室へと戻り、背後で静かにドアを閉める。
やっぱり母は、苦手だ。
「はぁ……やっぱりわたし、駄目だなあ。……さて」
再びユニバーサルネットワーク内に意識を飛ばした緋瑪は、まだ深い霧の中に浮いていた。先程より落下速度は格段に落ちており、視界には『キャラクター自動作成中』の大きな文字が点滅している。その上には一回り大きなフォントで『サービス終了まであと六日』の表示が揺れていた。横では秒単位でデジタル時計がタイムリミットを
業界最大手のオンラインゲーム、【石花幻想譚】は今、長い歴史を終える日まで一週間を切っていた。
『ただいまお客様のキャラクターデータを作成中です。しばらくお待ちください』
タイムリミットはあと
なかなか終らないキャラクターの作成を前に、緋瑪は再度思い起こす。わざわざサービス終了間際のオンラインゲームに飛びこむ訳を。
その理由は今も、現実世界で緋瑪の【エルフターミナル】に接続されっぱなしになっていた。
母の言葉が
ラブレター……まさか、と緋瑪は心の中に
今の時代、わざわざラブレターをこんなまどろっこしい形で出す者はいない。手のこんだ動画と音楽付きのメールで、いくらでも
その経験が一度もないから、それが良いのかどうかは緋瑪にはわからないが。
そして今日、緋瑪の身を襲った現実は、そんなロマンチックなものではなかった。
放課後、教室の掃除中に緋瑪は【メモリング】を
――やっぱり落し物として、クラス委員か先生に渡せば良かった?
だが、そうしなかったのは軽い好奇心……などではなくて。単に、他者との接触をなるべく避けたかったから。
他人は、苦手。
かといって、拾わず放置する訳にもいかない。【メモリング】は中学生には高価な品でもある。そしてその価値は、中身次第では持ち主にとってかけがえのない物かもしれないから。なにより人として、目にしてしまえば放ってはおけない。
迷った末に、緋瑪は持ち主の手がかりを求めて中を
持ち主さえ解れば、机の中にでも入れておけばいい。そう思ってターミナルに接続し、表示されたフォルダからファイルを展開した。アプリケーションのログインIDから名前は知れたが……
「何であんな……
唇から
ふわりふわりと、緋瑪は
伊勢谷峰人はクラスでは、一部の男子から
会話すらろくにしたことがない苛められっ子とは、緋瑪は全く接点がない。しかし今日、一つの【メモリング】が二人を繋ぎ、その中身に驚いた。
メモリングの中身は三つ。
一つは、大人気の
一つは、詳細なゲームの専門用語が並ぶ
そして最後に……これは見てから気付いたのだが、伊勢谷峰人の個人的な日記。
いまだ本編がはじまらぬゲームから、緋瑪は外部のファイルへとアクセスした。彼女は再び、【エルフターミナル】に接続された【メモリング】から例の日記を呼び出す。眼前に現れたウィンドウに浮かぶ、その一部を彼女は声に出して読みはじめた。
「2029年7月5日、木曜日。天候、晴れ」
『キャラクターのデータ作成が完了しました。表示までしばらくお待ちください』
目の前に長いインジケーターが現れた。それはゆっくりと青色に染まってゆく。
「今日も
その後は「加賀野くんは毎日ハンバーガー、少し栄養が
日記はどの日付も、現実世界での出来事は一言二言で記述を終えている。
内容の大半は、オンラインゲームに関する
「サービス終了直前の大イベントで、【ブライダリア】は
緋瑪はインジケーターへ目をやる。同時に、日記の最後に記された問題の一文を読み上げてファイルを閉じた。
「ヒメもとうとう
『大変お待たせいたしました。お客様のキャラクターを表示します』
伊勢谷峰人はどうやら【石花幻想譚】を、ヒメという名のキャラクターで遊んでいるらしい。
『緋瑪』と『ヒメ』。
我ながら
だから今、珍しく緋瑪は自分から行動を起こす。
じかに見て確かめる。
でもその後は?
その答は未だなく、真実に対する備えさえない。
それでも、緋瑪の密かな調査用のキャラクターは完成し、その姿を彼女の前に現した。
『お客様のキャラクターは石の民、
よろしいも何も、緋瑪は細かいことはどうでもよかった。正体を気付かれずに接近したいので、本来の性別とは逆のキャラクターは都合がいい。
迷わずYESを選択。
ようやくゲーム本編に入れると思った矢先、
『キャラクターに名前をつけてください』
「え? ああそうか、名前」
緋瑪は目の前の少年を見詰めて、腕組み首を傾げた。
石の民とか魂石とか、マニュアルを読んでいないので良く解らない。そもそも、この手のゲームに緋瑪は
「困ったな、ええと……どうしよう」
もちろん、自分の本名をつけるのは問題外として。慣れない作業に緋瑪は困り果てた。
「魔術士……
緋瑪の唯一の、趣味らしい趣味――歴史小説。三国志の登場人物から、軍師として有名な名前だけをざっと並べてみる。が、どうもしっくりこない。
しかし、三国志という着想からひらめきが生まれた。
「緋瑪、
『キャラクターに名前をつけてください』
緋瑪は少し迷った挙句、それ以上の熟考を
『全ての手続きが完了しました。ようこそ【ブライダリア】へ――セキト様の冒険に
最後のアナウンスと同時に、緋瑪の服が弾けて消えた。驚く彼女の体が
「うう、恥ずかし……ん、あれが【ブライダリア】なの、かな?」
眼下に広がるは冒険の大地。
【石花幻想譚】の舞台――異世界、【ブライダリア】。
周囲から切り取られたように霧の中に浮かぶ大陸は、その地平線が
ゆっくりとブライダリアへ降下してゆく緋瑪はもう、魔術士の少年セキトになっていた。その肉体を徐々に、簡素な
『先ずは王宮へ出向き、【ロード・ブライダリア】へ、ザザッ!……
アナウンスの声に、不意にノイズが混じった。
同時に手の内が光って、一本の
『クエスト……ザザッ! 詳しくはマニュ、アル……「けて……』私を、助け、て……助けてください!」
突然、
その声の主を探して、思わず緋瑪は周囲を見渡した。しかし人影はなく、足元の大地はどんどん迫ってくる。
そのまま緋瑪は、魔術士セキトは眩しい光に包まれ【ブライダリア】へと降り立った。
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