第2話 ある日の朝
ある日の朝の住宅街。
「いってきます」
いってらっしゃいという母親の声が返され、女子高生は家を出た。ごく普通の制服にごく普通の鞄を手に持ち、長い黒髪を綺麗に整え、これといって着飾っているわけでもなく目を見張るほどの美少女でもないが、こぎれいといった印象を与える少女だ。
その家の前、表札のある門の向かいの壁によりかかって彼女を待っている男子がいた。学ランを着た彼は引き締まった長身で、中性的な顔立ちのいわゆるイケメン。男子はいじっていたスマートフォンをしまい、門を出てきた少女を笑みで迎えた。
だが少女は門を出たところに待ち構えていた男子を見てハッと目を見開いた後、一瞬だけ逡巡するように目を泳がせてから、彼をにらみつけた。
「カイ君、いや魔王! 毎日毎日なんのつもりなの? いや、なんのつもり、だ!」
何度も言葉を直しその度に恥ずかしそうにためらいつつ少女は言う。少女に魔王と呼ばれた男子、大間櫂はやれやれと肩をすくめた。
「恋人を迎えに来るぐらい、普通だろ? ユウ」
カイの言葉に少女――八木裕は頬を赤くした。そんなユウを見てカイは楽しそうに笑う。
「だいたい小学生の頃からずっといっしょに登校してるんだぞ、今さらなんだよ」
「そ、それはカイ君が、記憶のない私を卑劣にも罠にはめて……!」
「はいはい、それじゃ行こうか」
「……カイ君の、ひきょうもの」
結局ユウも強くは拒絶せず、2人は並んで歩き始めた。カイがすっとごく自然に手を差し出す。手を握り合って歩こうというのだ。ユウは当然驚き、たじろぎ、ためらったが――結局はその手を握り返した。
普通の女子高生ユウは、恋に落ちていたのだった。
勇者と魔王。転生の禁術に呑み込まれた両者は、同じ世界、同じ日に、この日本に転生した。
魔王は予定通りに魔力と記憶を引き継ぎ完全なる転生を果たしていた。だが勇者は違った。元々魔王の力を次なる命に転ずるために魔族が作った転生の禁術、割り込んだ勇者は転生こそできたが、その力を受け継ぐことはできなかった。しかもそれは勇者にとって最悪の結果……勇者が持っていた魔力のすべては、魔王の方へと流れ込んでしまったのだ。魔力ばかりでなく女神の託宣と精霊の祝福により身につけてたはずの人智を超える力もこの遠い異世界では無力となり、常人となり下がった勇者は、魔王に対抗する術を完全に失った。
だがそれで勇者が絶望することはしばらくなかった。希望があったからではない、絶望に気付かなかったから――勇者の転生は記憶も完全ではなかった。生まれてすぐに自らが人間の乳飲み子になっていることを認識できた魔王に対し、魔力を持たない勇者はただの赤ん坊だった。人の忘却が記憶の消滅ではなく記憶を取り出せなくなることを意味するように、勇者は記憶を引き継いだものの、それを取り出すことができなかったのだ。
さらになんの因果かはたまた勇者の執念か、勇者と魔王が生まれた家族は隣り合って暮らす近所同士だった。
互いに子供を抱いて話す母親の胸の中、僅かながら残留する魔力で魔王はそこにいる赤子が勇者であることに気付いた。そして勇者に起こった転生の不具合も理解し、魔王は内心で歓喜した。もはや勇者は敵ではない、この世界は自分ものだ、と。もちろん赤子の体ではいかに強大な魔力を持とうとできることは限られるので、十分に肉体が成長してから世界を手中に収めようと魔王は決めた。
魔王は勇者を始末することはなかった。勇者が完全に無力化されていたこともあり、いつか勇者の記憶が戻った時に滅びゆく世界や死にゆく人々を見せつけその心を絶望に落とし前世の恨みを晴らそうと考えたためだ。
かつて勇者と魔王だったユウとカイは傍目には仲のいい幼馴染としてすくすく成長していった。魔王にとっては人間の生活など退屈ではあったが子供の体に魔王の知能であるために何をしてもすごいすごいと褒められるのは悪い気分ではなく、性格の根底の部分で(支配できればどこでもいいという理由で転生したように)小物だった魔王は、ユウと隣並びでの転生ライフを満更でもなく楽しんでいた。
そして2人揃って同じ高校に無事に入学した夏のある日。ユウからカイに告白したのだ。幼馴染のカイが好き、恋人になって、と。ユウが小さい頃は毎日のように遊びに来ていたカイの部屋で、顔を真っ赤にしての決死の告白だった。
当時、すでにカイはイケメンでスポーツ万能で成績優秀な天才としてモテにモテていた。ユウの告白は、それまでただの幼馴染だったはずのカイの周りに異性が集まることで初めて自分の気持ちに気付いてのことだった。
ユウは絶対に断られると思っていた。カイはこれまで何度も女子から告白されていたがいずれもすげなく断っていたからだ。またユウにとって(これは勇者の力が魔王に流れたからだが)何をしても自分より上手なカイは憧れの存在であり、それと比較してなんの取り柄もない自分に自信がなかった。それでもカイに恋する気持ちは本物で、玉砕覚悟のやっとの思いで想いを伝えたのだ。
そしてカイはそれを受け入れた。彼が他の女子の告白を断っていたのは、ユウを待っていたからだったのだ。
ユウはカイと恋人になれたことにまず驚き、そして心から驚いた。だがそのショックからなのだろう。
唐突に、ユウは勇者としての記憶を取り戻し――今に至るのだ。
学校に着いてもカイはユウの手を離さない。他の生徒から見られようと友人からからかわれようと、ユウがいくら顔を赤くしてぽこぽこカイを叩こうと。2人が恋人になってもう1年になるが、ほとんど毎日2人はこうして登校していた。
教室までの廊下をも2人は並んで歩いた。スポーツ万能・成績優秀で知られ次期生徒会長とも目されるカイとその恋人のユウはすっかり学校では知られたカップルだ。カイは堂々と、ユウは恥じらって顔をうつむきながら歩いていた。
「魔王、貴様……どこまで私、いや俺を辱めれば気が済むんだ」
小声でユウが呟く。だがカイは涼しい顔だ。
「嫌なら手を離せよ、そう強く握ってないぞ。それともユウは俺が嫌いなのか?」
「お、お前なんか……ううぅ」
ユウは口でこそ魔王憎らしと吐き捨てるがカイを強く拒絶することはない。ユウが持つカイへの恋心は本物で、ほんの少し前に思い出した勇者としての記憶がそれを打ち消すことはなかった。
「忘れちゃえよ前世のことなんかさ、俺はもう気にしてないんだぜ?」
「そ、そうやって俺を懐柔して世界の支配を目論んでいるのだろう! その野望はこの勇者が必ず止めてみせるぞ」
「だから何度も言ってるだろ、俺はもう世界征服なんかに興味はないって……わからない奴だな」
ふとカイは立ち止まる。手を繋いだままのユウも当然同じく立ち止まった。
「な、なんで止まった。今度は何をするつもりだ」
「いや、ユウのクラスについたからだけど」
「あっ……フ、フン!」
カイとユウは別のクラスなのだ。ユウは慌てて繋いでいた手を離し、逃げるように自分の教室に入っていった。早くカイから離れたいと思っていたのならば、自分のクラスについたことを気付かないということはなかっただろう。結局のところ、ユウはカイのことが好きなのだ。
そして、カイも。
「……かつて世界を恐怖に陥れた魔王ともあろうものが、小娘1人に入れ込むとはな」
カイは自嘲気味に呟いた。先程ユウに言った「もう世界征服などに興味はない」という言葉は本心だった。カイは、魔王は勇者を弄ぶために恋人になっているのではない。魔王もまた、ユウを本当に愛しているのだ。
なぜユウを勇者と知っておきながら愛するようになったのか、人間としてもさほど魅力のない少女に恋をしたのか。それは魔王自身もはっきりとはわかっていなかった。だが魔王はひとつ自分の精神を理解していた。
孤独。
生まれてからずっと彼は孤独だった。莫大な魔力、強靭な肉体を持ちながらも、いや力を持っていたからこそ、友も家族もいないまったくの孤独の生を送ってきた。かつて魔王は己の欲求を支配欲と解釈したが、魔王として君臨したのも、世界を征服しようとしたのも、すべてはどこかで孤独を嫌がったからなのかもしれないと今になって思っていた。
そしてカイとして生まれ変わり、幼い頃から一緒に育ってきたユウ。最初はカイも無力な幼女になり下がった勇者を嘲笑う感情があったが、何も知らないユウは無邪気にカイに懐き、またカイをキラキラした目で尊敬した。その目と言葉に心を動かされなかったとは思えない。いつでも一緒にいるようになった幼馴染、その存在に孤独を癒されていると気付いた時、魔王の傲慢な心はすっと消えていた。ユウを愛するようになった時があるとすればその頃からなのだろう。
今のカイの想いはひとつだ。勇者と和解し、ユウと真の意味で繋がり合いたい。そのためには世界などどうでもよかった、いやユウといる場所こそが今のカイにとっての世界だった。
そんな感じでカイが物思いにふけっていると急に教室のドアががらりと開き、またも顔を真っ赤にしたユウが怒り顔で出てきた。
「い、いつまで教室の前に立ってるの! クラスのみんなにはやしたてられて大変なんだよ!?」
口調がユウのものになるくらいにテンパっているらしい。カイは悪い悪いと苦笑する。
「じゃあ俺は行くよ、またな」
カイはあえてあっさりと踵を返し去っていった。あっ、とユウが何かを言いかけたが気にせずに歩く。ユウはああは言ったが、なんだかんだカイと離れたくないという気持ちも持っているのだ。そんなユウがいじらしく、カイはついつい意地悪してしまうのだった。
――去っていくカイを、ユウは見つめていた。
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