絵合わせ
六条の御息所の娘の斎宮が、帝の后として入内することが決まった。
のちに「秋好(あきこのむの)中宮」と呼ばれるので、ここからは秋好と呼ぶことにする。
藤壺はそれを認め、早く年上の后が息子の世話をしてくれるようにと願った。
朱雀院の耳に入ることを恐れて、言い抜けられるように大っぴらなことはしないが、入内の支度はこまごまとしたことまですべて内大臣の光源氏が経済的援助を行う。知らなかったことにするように藤壺と打ち合わせができているので、朱雀院に面と向かって恨まれるのは、入内が終わってからにするつもりである。入内が終わってから、大っぴらに二条邸の者たちで、着物一式を調えるのだ。二条院に入れることもしないで、六条邸に住まいのまま、準備を行った。と同時に、六条院ほか、六条の御息所の遺産はすべて、光源氏の管轄下に置かれた。秋好の後見人なので、世話をする代わりに財産もまた後見するのである。実質親になったのである。
朱雀院は入内が決まったことを聞き、悔しかったが諦めをつけた。手紙を送るような未練で誤解を招きかねないこともきっぱりとやめた。
しかし入内のその日に、六条邸に、豪華な嫁入り道具を送りつけてきた。
見事なたくさんの衣装、櫛の箱、化粧道具、香壺の箱。特に見事なのは香壺で、着物にたきしめるものや、百歩香と呼ばれる遠くまでくゆらせるものまで、いろんな種類が取り揃えてあった。
光源氏が養女の嫁入りの日にいないわけはないが、六条邸に来ていて、女執事の報告を受けてその道具を見た。
櫛箱の外をちらと見ただけだが、細かな細工が精巧にほどこしてあって、ちょっと見ないくらいに優美な造りである。皇女が院に嫁入りするのにふさわしい品である。糸の飾り花がその櫛箱にはかけてあり、歌の書きつけた紙がはさんである。
「別れ路に 添へしを櫛を かごとにて 悠けき中と 神やいさめし
(別れ際に 挿した「別れの櫛」を たったあれだけのことを口実にして はるか遠くに離れる仲だと 神がお諫めなのだろうか)」
(本当にあの時から引き取って娘のように万事世話をするつもりだったのだな。
これだけの嫁入り道具は時間をかけなければ用意できないぞ。
それも当てつけのように私のいる日に送り付けてこられるとは。まったく怖くはないが、お悲しみは伝わってくるな。)
光源氏もわが身を顧みて、恋のかなわないつらさはよくわかる。
始終誰かを好きになっているので、わが身に置き換えるのは本当に簡単だった。
(あの「別れの櫛」の儀式の日に好きになられたのであろうな。
その後戻って来はしたが、強情な六条の御息所のせいで、誰も寄せ付けなかった。六条の御息所が亡くなるまで6年も待って、やっと求婚できるという時に、こうして私に横からさらわれたのでは、面白くないだろう。嫁入り道具までそろえて待ち望んでいらっしゃったのでは。
おとなしい方だからな。譲位なさった後、静かにお暮らしだが、私のことを物静かに恨んでいらっしゃるかもしれない。
これはひどいことをした。)
光源氏の一存で、このまま入内を取りやめて朱雀院に輿入れさせることもできるが、かわいそうだと思いはしても、立派に寵愛を受ける正妻になりうる、外戚になれるこの貴重な手駒を、何の得にもならない朱雀帝の何人目かの后にするつもりはまったくなかった。しかしかわいそうだ気の毒だと、思う心は本物なのである。
(朱雀異母兄上は、須磨に私を追いやった一派の中心には違いないが、いつも私にはお優しく、私も好きだった。私は何を思ってわざわざ異母兄上の心を刺すような真似を始めたのだろうな。)
彼はしばらく櫛箱を眺めて考えに沈んだ。
やがて彼はもの思いから立ち直った。
「それで?この返事はどうなさいますか?他にお手紙はないのですか?」
光源氏は秋好に尋ねた。
秋好も、この嫁入り道具が、明らかに朱雀院が秋好を后として迎えるつもりで作られたもので、何も持たない秋好を、秋好だけ来てくれればいいからとそろえられたことがよく感じ取れた。一財産以上の値打ちがあるのが分かるので、気の毒すぎて返事のしようがない。
彼女は具合が悪くてと言って逃げようとした。
だが周りの者たちが、「何もお返事なさらないほうが、冷たくてもったいないお仕打ちです。」と返事を書くように言う。
「お返事も差し上げないなどとんでもないことでございます。形だけでもお返事をお書きくださいませ。」
光源氏もこの難しい仕事を丸投げする。
秋好は筆を執り、かつて一度だけ、「別れの櫛」の儀式でお会いした朱雀院の姿を思い出してみた。とても優雅で、色白で誠実そうな殿方で、別れの櫛を挿しながら涙を流してくださったことを思い出した。するとあの涙は、心からのものだったのだ。
(あの時私は14歳だった。今は22歳で、今日帝に嫁ぐ身なのだ。)
その間の歳月、母が共にいて、どんな縁談も断ってきたことを思い出した。その中に、朱雀院の縁談も入っていたに違いない。六条の御息所は、あまりにも光源氏で苦労したために、血筋が尊すぎるが財産の釣り合っていない娘に、同じ苦労をさせたくなかったのである。
母とこんなにも早く別れることになるとは、秋好は思っていなかった。
そもそも血筋が高貴すぎ、経済力がそれに伴わない皇女は、一生独身で終わることが多く、秋好もそのつもりだった。それが何の因果なのかその光源氏の引き立てで、血筋の釣り合うほとんど唯一、自分よりも高貴な身分である帝に、光源氏の強力な後ろ盾の下、正妻として嫁ぐことになった。
(本当に人生は分からない。)
「別るとて はるかに言ひし ひとことも かへりて物は 今ぞ悲しき
(お別れの時に はるか昔にお気の進まないようにおっしゃった 「ふたたび京に帰るな」の一言も 京に帰りかえって 今のほうが悲しく思います)」
秋好はその手紙をそのまま使いに渡し、褒美としてさまざまな品物を与えた。
光源氏はその返事を見たかったが、見る隙がなかった。
(朱雀院は女性のように整って美しく、中身も誠実な方だ。秋好をめとられてもきっと釣り合って相性もよかっただろう。それを引き裂いて13歳の帝に嫁がせるのだ。帝が幼なすぎるから、人のいないところでは私の存在を目障りだと恨んでいらっしゃるのではないか。)
光源氏は気を回した。
(しかし今日嫁ぐという日に言ってこられても止められるものでもないしな。)
親しくしている参議の役人に後のことを細かく言いつけると、親代わりだと世間の噂に根拠を与えないように、早めに六条邸を出た。
もともと女房達の質が高くて評判だった六条の御息所のお屋敷は、実家に帰って離れがちだった女房達が今や全員出そろい、総出でこの晴れやかな日を支えようと立ち働いている。
(御息所が生きていたら、今日という日をどれほど喜んで、秋好のお世話をしているだろう。)
在りし日の有能で美しい才女の姿を思い浮かべて、光源氏は故人を惜しんだ。そこには罪悪感も交じっていた。
(本当に恋人にならなければめったにいないような尊敬できる方だった。
あらゆることに趣味がよかった。特に字の美しさは、見事だった。)
秋好がこれから華やかに人生を送り、それを間近で見るたびに、光源氏はどうしても六条の御息所のことを思い出さずにはいられないのだった。
御所ではいつもは実家に引きこもっている藤壺が参内して、秋好を待っていた。秋好はそれだけ応援されていた。
「今日は冷泉帝の新しいお后がまいります。
めったにいない素晴らしいお方でございます。」
冷泉帝は緊張して、13歳だが、今日は新しい年上の后が来るというので、気を配って身なりを整え、いつもより大人びて振舞っている。
すでにいる后は、同年代だが、秋好は9歳年上なのだ。
「本当にすばらしい方ですから、お会いになったら温かく歓迎なさってくださいませ。」
(大人の女性など気を遣って嫌だなあ。)
内心はそう思うが、実の母がここまで気を入れて娶せてくれた女性に文句はつけられない。
秋好は夜も更けてから御所に入った。
控えめで心優しく、小柄で頼りない。
朱雀院が一目会っただけで6年間、妻にしたいと思い続け、経済力のなさをおもんばかって嫁入り道具まで用意した可憐さ、しかし光源氏が手紙を読んで感心したように、賢く芯のある女性。冷泉も心惹かれた。
(年上だし、立派な方だし、源氏の内大臣が親代わりになっていらっしゃるから、まったく通わないというわけにいかない。
でも弘徽殿は仲がいいし、こちらもないがしろにしたらかわいそうだ。)
この弘徽殿は亡くなった源氏の政敵ではなく、頭の中将(今は権中納言で光源氏よりもだいぶ格下だが、左大臣が後見についている)の娘で、弘徽殿に入って、冷泉と同い年くらいなので、仲のいい遊び友達のようになっていた。
冷泉帝は帝にふさわしい配慮で、夜は分け隔てなく二人の后を訪ねた。
昼間は気安いので弘徽殿と遊ぶことが多い。
弘徽殿に詰めて将来の皇子を産んでいただくべく、全力で後見している頭の中将は、その姿を見ながら自分は果たしてこの競争で、光源氏に勝てるのか、不安を噛み殺しながら接待に勤めた。
朱雀院はと言えば、櫛の箱の返事を見るにつけても惜しくて諦めがつかなかった。
光源氏が伺候した時に、以前も話した「別れの櫛の儀式で秋好を見初めた」という話をもう一度話して、それとなく未練があることは伝えてみるものの、めとろうと思って手紙を送り、嫁入り道具まで用意していたことまでは気が弱い人なので言い出せない。
光源氏は手紙はすべて読んでいたし、嫁入り当日に送られてきた使わない嫁入り道具もチェックしていたが、そんなことは気振りにも出さずに、ただ朱雀院の本音が知りたいので、会話の端々に秋好を話題にして反応を見た。
(動揺が激しいな。よほど思い入れがおありだったらしい。)
そうなると知りたくなるのは秋好がどんな顔かである。
後見していて、秋好の経済的な援助は光源氏がやっているのであるが、秋好は気を許さず、一度も顔を見せたことがなかった。手紙を送れば気の利いた返事が返ってくるが、光源氏が好きだとか心惹かれるいう気持ちは、少しも伝わってこない。光源氏がどんなに美しい顔をして、優しい言葉をささやいても、母の六条の御息所に対する態度から、彼女は光源氏の愛情を受け入れたが最後死ぬほど悩み苦しむという事を学んでいた。
秋好の用心深さは、かえって光源氏の評価を上げていた。彼はそういう態度が理想的だと思っていた。
(一度くらいは見てみたいのだが、軽々しく御簾の近くに寄ってうっかり顔が見えるようなことをする人でもないし。
まったく女性とはこのようでなければならないというお手本のような方だ。)
かくして、同じ年頃で遊び友達でもある弘徽殿と、奥ゆかしく一目見ただけで魅入られてしまうほど美しい年上の秋好を后に持って、冷泉帝の後宮には新たなお后の入る隙間がない。藤壺の兄の兵部の卿は、妹が入内して自分の地位が目に見えて上がった時から、自分の娘を入内させ、やがては外戚としてもっと高い地位に就くことを考えて、娘たちの内でもっとも美しく素質のある者にお妃教育を付けてその日が来るのを待ち望んでいた。それなのに妹の藤壺も、冷泉の後見の光源氏も、そんな話はないものとしてふるまっていた。妹の藤壺はともかく、光源氏は須磨の不遇時代に手の平を返して彼を無視し、一切助けず連絡を取らなかったので、機嫌を取り結ぶのは容易ではない。兵部の卿は、冷泉自身から「后に欲しい」と言い出してくれるのを待つことにした。自分に入内するべく教育している娘がいることはすでにあちこちで評判を立てているので、冷泉も知っているはずである。いくら美しく教養があっても、お后教育を受けた気位の高い娘が、他の男に嫁いでうまくいくことは難しかった。男の側でも遠慮して寄ってこない。
「今はやめておくほうがいい。従妹なのだから見捨てられるはずがない。冷泉帝が大人になられたらそれとなく打診しよう。」
冷や汗をかきながら彼は考えていた。
妹の藤壺の点からも、娘の紫の上の点からも、光源氏サイドであるにもかかわらず相手にされていないことが誰の目にもはっきりしていたので、彼は今不遇になりつつあり、娘の内でも特に美しく、妃にするべく育ててきた娘だけが、彼の希望だった。
宮中の流行りは帝の好みによって変わる。
漢文の好きな帝の時は大臣も后たちも皆漢文の知識を身に着けて、帝に披露する。
和歌の好きな帝なら和歌がはやり、楽器の好きな帝なら宮中の人々は、重用されるために競って楽器の腕を磨く。
冷泉の好きなのは絵画だった。
本人も優れた絵描きであり、絵を見ることも好きである。
宮中の官吏、大臣たちは老いも若きもこぞって絵を描き始めたが、それよりも絵画の嵐が吹き荒れたのは、2人の后が寵愛を競い合う後宮だった。
光源氏側も頭の中将側も、そうと分かるとすぐさま后の部屋を絵画サロンにした。後世に名の残る画家は男性だけであるが、女房達も絵の技能を売りにして雇われている者もいた。源氏物語絵巻の絵を描いたのは、女性の女房画家たちである。画材も紙も高価であるため、誰にでも身に着けられる技能ではないが、教養の一つである。女性ならば後宮に入れるので、絵のできると評判の女房達はこの後宮にリクルートされた。
この点一歩進んでいたのは秋好だった。
秋好は絵の才能があり、冷泉の目から見ても素晴らしい絵を描く。
冷泉はそれを知ると、秋好のもとに通うと、必ず二人で絵を描く。
彼は絵の描ける臣下は名前を憶え、重用していたが、美しい女性である秋好が見事な絵を描くので、なおさら気に入った。
美しい秋好が、手すさびに楽しい絵を描き、上品に美しく脇息に寄りかかり、筆を休めて次をどう描けばよいか考える。年上であるがかわいくなって、続けて通う。当然弘徽殿の元へ通う日数はその分少なくなる。
頭の中将は焦って、絵の技能が買われて集められた女房たちに、美しい絵をたくさん描くように号令を出した。もちろんそのための高価な画材と紙は惜しまない。最上の紙、最上の、どんな高価な絵の具でも使わせ、自らきびしく監督した。
「物語絵だ。物語がついて惹きつけるし、見どころがある。」
かくして、面白いと思われた物語に絵を付けて、物語絵を量産した。
毎年恒例の行事を描いた絵を差し上げる時も、決まり文句ではなく、趣向を凝らした文章を入れてお目にかける。
帝は喜んだ。そして、面白いと思った絵は秋好に見せようとして持ち出すが、そうと悟ると頭の中将は絵を持ち出させず、見せるだけにしてしまい込んだ。
「頭の中将は相変わらずだな。」
光源氏はその子供っぽいやり方を聞いて笑った。
彼ももちろん秋好のサロンを絵画中心の芸術サロンにしてはいるが、一番の売りは秋好の絵の腕であったので、そこまであからさまに絵を製造することはみっともないとしてしなかった。
ただし、手を抜くこともしない。絵が帝を呼び込むことに必要であれば、彼とて財力と権力をそこにつぎ込む。ただ、人にはがつがつしているところを見せないというのが彼の美学である。
「おそれおおくも帝のご意思に反して絵を隠して困らせられるとは、まったく驚きでございます。
我が家にも絵はたくさんございますので、お目にかけましょう。」
彼は二条邸に帰ると、絵の入っているタンスを開けて、紫の上と一緒に、所蔵している絵の中から、献上品を選んだ。新旧入り交じっているが、古くても進化した絵の技巧に劣らず良いものでなければならない。
「長恨歌」(玄宗皇帝と楊貴妃のことをうたった白居易の詩。最後は楊貴妃が死ぬ。)と「王昭君」(漢の元帝の美しい妃。美人であることに気づかれなかったために匈奴に嫁がされることになる。)は、絵は美しかったが、内容が后が死ぬ悲劇なので、「今回はやめておこう」と省かれた。
「紫に見せるのは初めてだったな。」
彼は須磨と明石にいたころ自分が手すさびに書いていた絵の箱も取り出した。
須磨と明石のものさびしい景色が、絵を解する者が見ればわびしさが胸に迫って涙が出るほど見事に描かれている。
「何も知らない者にも、これは哀れに思われますでしょう。
わたくしは源氏の君が大変な思いをなさったことを夢にも忘れられないでおります。
あの時これを拝見していれば…見せていただきたかったです。
ひとりゐて 嘆きしよりは あまの住む かたをかくてぞ 見るべかりける
(ひとり残って 嘆いているより 海女の住む 明石の方をこの絵で 見てみたかったです)
全く何も分からないより心が慰められましたでしょうに。」
「うきめ見し そのをりよりも 今日はまた 過ぎにしかたに かへる涙か
(浮いているワカメを見る 憂い目をみる その時より 今日はさらに 過ぎた干潟に返る波のように 過ぎた昔に返り流れる涙だ)
だが藤壺様にだけはお見せしなければ。よいのを選ぼう。」
光源氏は細かく明石の風景が描かれている絵を2枚選び出した。
自然と明石の家のことが思い返されてしんみりした。いつも心のどこかで考えている。
光源氏がよい絵を秋好のところに集めていると聞き、頭の中将(今は権中納言)は、今まで以上に念を入れ、描いた絵を、軸、装幀、ひもの飾りにまで凝った巻物にした。
正月の節会が過ぎ、4月の祭りにもまだ間のある3月10日(新暦4月)、何の行事もない事で、話題は絵のことに集中した。両陣営の冷泉帝を楽しませようとする絵の競争は一層熱を帯び、どちらの后も絵を、それも帝が面白く見られる絵物語を特に集めていた。行事の空白期間に絵の大ブームが巻き起こるが、その評判の絵を目にすることができるのは、帝とその母親、后様たち、そのパトロンで絵を集めさせている源氏と頭の中将をのぞけば、そば近くで仕える一部の女房たちのみである。たくさん目にしたことのあるものほど自然と尊敬のまなざしで見られ、女房達は、「これはあれは」と目にした絵の品定めと目にしていない絵の噂話でもちきりだった。
それを聞いていて、教養が足りないとみなされてそば近くに呼ばれない年若い女房達は、死ぬほど絵を見たがるが、帝の女房も藤壺の女房も、片隅さえ見ることはできない。絵は厳重にしまい込まれて目にする者を限定した。目にしたという事実があれば、どれだけでも絵をけなすことができるからだ。悪い評判を流されてはならないからだ。
宮中の后の絵争いは、優雅な絵のことに見えて、水面下では貴族らしい中傷誹謗合戦でもあった。これは、将来どちらが皇子を産んで帝を立てるかという問題でもある。どちらの陣営にとっても生活水準ががらりと変わってしまう重大事である。冷泉帝がどちらの后にも全く平等に通っているうちは皇子を産むのは運の問題であり、そこまで過熱することもなかった。しかし今は秋好の元へ多く寄り付いているために、追い詰められた弘徽殿側が牙をむき、仁義を問わない戦争状態に発展していた。頭の中将の娘は、旧弘徽殿の孫でもある。今冷遇されている右大臣一派と、光源氏の風下に立たされている左大臣一派の人々がついている。死に物狂いになって秋好に関わりのあるありとあらゆるものにけちをつけるのは当然だった。秋好の父は帝、母は大臣の娘で正妃。誰もこれほど高貴な敵方の后を直接悪くは言えないが、その女房、その持ち絵、その親戚を「まったくなっていない」と足を引っ張ることには、何のためらいもない。
梅壺の秋好の絵は昔の由緒ある物語絵で、弘徽殿の絵は流行を取り入れた新しい絵である。
評判が後宮の外にまで聞こえて、普段は出家の勤行に励む藤壺も、参内して帝の元にある絵物語を見に来た。藤壺も絵を好む方である。女房達の議論があまりにも白熱しているのを見て、この調子で公に、そして公平に、誰の目から見ても明らかに絵の良し悪しを判定させれば、けなす種に使われることもないと考えた。
藤壺は、帝の女房達に持ち絵から選んだ巻物を公開して見せ、討論会を行わせて、どの物語の絵が優れているのか左右に分けて主張させることにした。御簾の内に入れる教養ある女房に限られるが、討論の様子は外からも聞こえるので、それ以上にけなされることもない。同時に誉められもするから、擁護したい者はその誉め言葉に頼ればよいのである。
こうすれば、絵が不当にけなされる心配がなくなり、絵を解する女房達も、素晴らしい絵を目にする機会を得られる。藤壺も同好の士とともに楽しく絵の話ができるというものだ。
竹取物語の絵巻物は、絵は巨勢相覧(巨勢金岡の息子)、字は紀貫之、紙は朝廷の製紙所で作られた「紙屋紙(かんやかみ)」、中国製の布、赤紫の表紙、紫檀の軸、どこにもあるような絵巻物である。
「まずは物語の始まりである、『竹取物語』と、『うつほの俊陰』をそれぞれ論じてみよ。左方が『竹取物語』で、右方が『うつほの俊陰』です。」
「なよ竹の物語は古い話で目新しい節もございませんが、かぐや姫がこの世の濁りに汚れることもなく、はるか天上界へとのぼった運勢はめでたいものでございます。神代のお話でございますので、心の浅い方には素晴らしさが分からないようでございます。」
「天上界のことは人の及ばぬ世界ですので、どなたにも分かりませんでしょう。この世では竹の節の中に生まれているのですから、身分が高いとも申せません。下々の者と呼んで差し支えないように思います。竹取の翁の家の中は照らされて明るかったかもしれませんが、天下を照らすこと后となることはありませんでした。右大臣の阿部殿が千の黄金を捨てて手に入れた火鼠の皮衣があっという間に燃えてしまうのもあっけないですし、車持(くらもち)の皇子が蓬莱の奥深さを知っていながら、にせものの玉の枝を作ってけちをつけたこともよろしくございません。」
「うつほの俊陰」(今に伝わっていない)の絵巻物は、絵は飛鳥部常則、字は小野道風、白い色紙、青い表紙、黄玉の軸で、目にもあでやかでいかにも当世風である。
「俊陰は激しい波風におぼれて見知らぬ国へ投げ出されながら、もともと行きたかった場所にも行け、わが国にも稀な音楽の才を異国の帝にも認められ、名をなしたこともよいですが、絵も唐土と我が国とを並べて描かれており、この上なく面白いです。」
はかばかしい反論はなかった。この絵巻物のほうが素晴らしいということになった。
次に「伊勢物語」と「正三位」の勝負である。
「伊勢の海の 深き心を たどらずて ふりにしあとと 波や消つべき」
(「伊勢物語」の海のように深い真意を 探ろうともせず 古い過ぎ去った物語だと 波が後を消すように否定して消してしまってよいものでしょうか)
当代の飾り立てたうわべだけの物語に押されて、業平の名前をけなしてよいものでしょうか。」
と、絵物語自体は「正三位」を上と認めるが、「伊勢物語」の物語自体の良さを控えめに主張する平内侍。
「雲のうへに 思ひのぼれる 心には 千尋の底も はるかにぞ見る
(「正三位物語」の主人公が入内して雲の上の人になったような 心にくらべれば 千尋の海の深さも はるか下と思います)」
と、さらっと歌を詠んで伊勢物語をけなす右の介。
「「正三位」の兵衛部の官僚の長女の心の気高さは確かに捨てがたいけれど、「伊勢物語」の業平中将の名をけなすこともできぬ。
見るめこそ うらふりぬらめ 年へにし 伊勢をのあまの 名をや沈めむ
(見た目こそ くたびれてしまっているわかめ 見た目こそ古くなってくたびれているように見える「伊勢物語」の 年を取った伊勢の海女の 評判を沈められるでしょうか)」
と「伊勢物語」に軍配を上げる藤壺。「伊勢物語」の持ち主である光源氏に配慮があるのかもしれない。
女性ばかりなので、歌を挟み、言葉を尽くして1巻の品定めだけで長々と議論は続く。
光源氏が藤壺の元へ参上し、議論が白熱しているのを好ましい目で見た。
「こうなれば、帝の前で、絵の決着をつけるのがよろしいかと存じます。」
こういうこともあろうかと、彼は選りすぐりの絵を選んでおいたし、特に「須磨」と「明石」の二巻きは、これがあれば勝てるという最終兵器である。そのためにまぜておいたのだ。
「望むところでございます。」
この日のために絵だけでなく表装まで華麗になるようにこだわってきたのだ。頭の中将も自信たっぷりに受けて立った。
今や宮中では、良い絵を描くことが最上級に良いこととみなされている。
二人は絵勝負の日時を決めた。
「新しく描いては勝負の意味がない。今ある手持ちの絵だけで勝負することにしよう。」
「承知した。」
頭の中将はそう返事したが、窓のない秘密の部屋を作らせると、そこで秘密裡に勝負用の絵を描かせた。新しく絵を生産している彼にとって、勝負を決める絵を増やすのは当たり前のことだった。「絵を増やさない」などと言ったら、手持ちの古い良絵で勝負している源氏が有利になってしまう。ただでさえ宮中の空気は、権力者の源氏に有利なのだ。約束など勝利の前には些細なことである。
絵勝負のうわさを聞きつけて、嫁いでもいまだに秋好の味方である朱雀上皇も、秘蔵の絵をまとめて彼女に贈った。
宮中行事の数々を昔の名画家たちが描いたとりどりの絵巻物。中には、醍醐天皇が詞書を書いたものもある。また、朱雀院の帝時代の行事が描かれたものもあり、特に秋好が斎宮時代に、伊勢へ旅立つ日の太極殿の儀式は、朱雀院の大事な思い出の一枚である。であるので、彼は事細かく描かなければならないものを指示して、当代一の絵描きという評判の金岡金茂(きんもち)に描かせたので、光源氏の集めた絵にはない、当代風の見事な一品に仕上がった。それらを透かし彫りの入った伽羅木の箱に入れ、それを覆う絹織物には同じ伽羅木の造花をつけ、いかにも洗練された心づくしの分かる贈り物にした。手紙は付けず、左近の中将という者に口伝えで述べさせた。さりげなく恋心を訴えるのにも、証拠が残っては秋好の立場が危うくなってしまう。
ただ二人の思い出の場面、たった一度だけお互いの顔を見た「別れの櫛」の儀式の、輿を太極殿に寄せた場面を隅々まで描き切った絵の端に、一言書きつけてあった。
「身こそかく しめのほかなれ そのかみの 心のうちを わすれしもせず
(私の身はこのように しめ縄の外に隔てられているが(=宮中の外にいるが) あの時の 心の内を 忘れることはない)」
秋好はお返事しないのは失礼にあたると判断した。これほど肩入れしてくれて、秋好の立場を守ろうと尽くしてくれているのだ。
彼女は昔のかんざしの端を折り、薄い藍色の外国紙を選んで歌を書きつけ、かんざしの折れ端を包んだ。
「しめのうちは 昔にあらぬ 心地して 神代のことも 今ぞ恋しき
(しめ縄の内は(=宮中は) 昔のようでない 気持がして 神の時代が(=伊勢の斎宮であった時が) 今は恋しいです)」
使いの者に渡された褒美の品は、秋好のセンスの良さを示す優美な品だった。
返事を見、褒美の品の行き届いて考え抜かれているのを見るにつけても、朱雀院は帝の時代を恋しく思った。
自分の御代に斎宮に選んで伊勢に送り込んだのだから、望めば妻にできた時に京都にいなかったのであり、やっと縁談の邪魔立てをしていた六条の御息所が亡くなった時には、彼はすでに権力の座にいなかった。巡り合わせが悪かったとしか言いようがない。
「今あの時の力があったならなあ。」
純粋に悲しむ姿は、光源氏の心をも動かすだろうという真摯さに満ちていた。
今力がないのは光源氏を須磨に追いやったためにその復讐をされているためである。だから自業自得と言えなくもない。
朱雀院の所蔵絵は、元をたどれば旧弘徽殿の所有していたもので、多くは新弘徽殿に渡されている。朧月夜も絵の趣味はよく、うまく集めては、新弘徽殿に渡している。彼女は朱雀帝時代に皇子を上げられなかった右大臣一派の起死回生の希望の星なのだ。その絵を一部とはいえ新弘徽殿にではなく光源氏側の秋好に流すなど、利敵行為もいいところなのだが、朱雀院は人を無視して、自分の好きを優先させる人だった。だからこそ光源氏の冷遇の時代にも、彼だけは温かく接したのである。そういうところは、桐壺の更衣を好きなことを優先させてほかの后と大臣たちの都合を全員丸無視にした、桐壺院によく似ていた。
「絵合わせ」の当日。
急な話であったが、きちんとした舞台は整えられていた。
御座所の隣にある女房の控え部屋「台盤所」に場が設けられ、御座所も控え部屋に接するところに移された。帝付きの女房達が帝の右側と左側に分かれ、それぞれ所属する陣営の装束で統一されている。観戦する殿上人は廊下を隔てた簀の子でそれぞれの陣営をひそかに心で応援している。
絵が運ばれてきた。
左側は光源氏の秋好の側で、紫檀の箱、イチイ(蘇芳)の花足、紫地の唐物の織物の上に載せられ、花足の上には薄紫のブドウ色の同じく唐物の綾織物がかけられている。運ぶのは6人の童で、上着(汗衫)は、赤、白・薄紫の袷(桜重ね)。下着(衵)は紅、薄紫・萌黄の袷(藤重ね)。どちらも絵の箱にかけた布地と合わせた配色で、童たちの顔も美しい。並々ならぬ心遣いである。
右側は頭の中将の弘徽殿側で、沈香木の箱、沈香木の軽めの木で作られた下机、下机には青地の高麗物の錦がかけられている。下机の足に結ばれた組みひもの飾り、花足の心づくしも最新流行型である。運んでくる童も、色を合わせて、上着(汗衫)は青色、白・黄緑の袷(柳重ね)。下着(衵)は茶色・黄色の袷(山吹重ね)。
ずらりと帝の前に整列した。
審判役は光源氏のマブダチで、異母弟の「帥の宮」に決まっていたが、光源氏の意見により、その日急に決まったという態をとった。もちろん「帥の宮」は、光源氏に若干肩入れした判定をしてくれるだろうが、事前にその人選が漏れると、どんな妨害工作があるか分からないからである。
内大臣の光源氏と権中納言の頭の中将が呼び出されて参上し、「特に絵を得意にしているから」という理由で、たまたま殿上にいた帥の宮を呼び出し、審判役を仰せつかった。
技巧を極め、細心の限りを尽くして描かれた絵の数々は、甲乙つけがたかった。
並べられた絵の中には、朱雀帝が贈った絵も光源氏側として出され、四季の行事が昔の名人の手によって特に面白い場面を選んでさらさらと書き流しているところが高く評価された。
頭の中将側の出した絵は、現代の画工が描いたものが大半で、時代を超えても名人と呼ばれる古い絵のような技巧に及ばなかったかもしれないが、華やかで新しく人々の記憶に新しいものが描かれていて、おもしろい。光源氏側の古い名画と良い勝負をして、ますます議論は白熱した。
もともとこの時代の絵は、そこまで写実的でもなく、紙の大きさも限られている。素材に興味があるかは大変重要である。
台盤所に接する「朝がれい間(=朝ごはんの部屋)」の障子をあけて、藤壺もこの勝負を観戦した。
(藤壺様は絵のこともさぞお詳しいに違いない。)
光源氏は恋する男の思い込みで、藤壺の素晴らしい受け答えをぜひ聞きたかったので、判定が難しい時には藤壺の意見を聞いてはどうかと促した。実際、藤壺は嘘はつかず教養に富んだ誰もが納得のいく答えを出すだろうが、それと同時に、自分の陣営である秋好の負けを決定づけるようなことも、言うはずはなかったのである。あまり負けが込めば、見事な理由をつけて、秋好側に勝たせるはずだった。
勝負は勝ち負けが拮抗し、夜半にもつれ込んだ。
光源氏側は最後の一巻として、「須磨の巻」を出した。
これを見た時、頭の中将の心は騒いだ。彼も最後の一巻は特に素晴らしいものを選り出していたが、光源氏のような絵の名手が、絵を描くことだけに集中して、思いの限りを尽くして描いた絵には及ばなかった。帥の宮を始め、絵を見たものは涙を流した。
都人たちが、「光源氏は須磨でこんな暮らしをなさっているだろう。お気の毒に」と思っていたよりもはるかにわびしい暮らしが、そこにありありと描かれていた。(光源氏は生活水準の上がった明石の絵は出さなかった。)住まいだけでなく、浦々磯々も隅々まで細かく描きこまれ、堅苦しい漢字の詳しい日記文はなく、万葉仮名・変体仮名を交えた趣深い和歌が所々に書きつけられている。
これを超える絵はなかった。
その場にいる誰もが光源氏の絵に軍配を上げ、光源氏側の勝ちとなった。
やがて勝負の場は宴へとなだれ込み、光源氏は審判の帥の宮とともに杯を交わしながら思い出話に花を咲かせた。ほかのすべての貴族たちが聞き耳を立てる中での親しい雑談である。
「私は昔から漢学が好きで、身を入れておりましたら、評価していただけたのか、父の桐壺院に言われたのです。
『漢学は世の中で重く用いられているせいなのか、漢学を深く修めた人で寿命も出世も遂げた人はなかなかいない。
お前は血筋がよく生まれて、漢学ができなくても人には劣らないのだから、どうかあまり漢学を学んでくれるな。』
そうお諫めになって、ほかの芸術をいろいろと学ばせてくださいました。
どれもできないということもありませんでしたが、とりわけこの道と思うものもございませんでした。その中で絵画だけは、下手な絵の中で時には心行くまで描いてみたいと思うこともありました。不慣れな田舎暮らしと、海の雄大な景色を見まして、まったく思いがけずも隅々まで観察することができましたが、なんとも筆には限界がありまして、思うほどは描きつくせなかったのです。こんな機会でもなければお目にかけることもなかったのですが、こんなに絵にかまけているようで、後々の評判が心配でございます。」
と、(本心は全く違っていただろうが)とても謙虚な姿勢を示して、さらに政治の王道である漢学の知識も博識であることを印象付けた。帥の宮はそれをさらに持ち上げた。
「どんな芸事も心から打ちこまねば身に付きませんが、よき師があり学ぶ場があれば、できはともあれ、自然といくらかは身につくものでございます。
字と碁を打つことは、才能が大きくて、深く学んでいなくても下々の者がそれなりに書くこともございますが、貴族の家に生まれた子の中でもとびぬけて才を持つ方だけが、様々な才を好んで得ていかれるのです。
桐壺院の皇子、内親王の方たちは、いずれもいろいろな芸術を授けられたのですが、その中でも源氏の君はとりわけお心にかけられ、教授されたかいあって、とびぬけた才能をお示しでした。
『漢学は言うまでもない。それ以外では一番は琴の琴(「きんのこと」7弦の琴)。次は横笛、琵琶、筝の琴(「そうのこと」13弦の琴)を、修めている。』
と桐壺院も仰せになったことがあります。
世間でもそう思っておりましたので、絵は習字のついでに筆の遊びでなさるものかと思っておりました。これほど見事に古の名画家たちをもしのぐばかりにお描きになったとは、まったくけしからんですな。」
さりげなく光源氏を「けしからん」などと言ったが、酒の席のことと、実質誉めているために大目に見られた。
桐壺院の話が出たので、桐壺院の息子である冷泉帝(本当は光源氏の息子)は、涙を流し、ほかの貴族たちもそれに倣った。
20日余りの月が遅く顔を出すころ、空が大体美しくなるころ、書司に和琴(6弦の琴)を持ってこさせて、頭の中将に差し出された。光源氏の演奏が有名だが、頭の中将もまた上手である。
帥の宮は筝の琴(13弦)、光源氏には琴の琴(7弦)、少将の命婦が琵琶を与えられ、殿上人の中の上手を選んで、拍子を任せ、演奏が始まった。
美しい音楽が流れる中、夜が明けて、徐々に演奏者の顔も、花の色も見えてくる。鳥もさえずり、夢見るような素晴らしい朝である。
藤壺からは褒美の品々、帥の宮には再び褒美の御衣が与えられた。
絵の行方も決められた。
「海を描いた一巻きは、藤壺様に差し上げていただきたく。」
藤壺は喜んで、続きの巻も見たがった。
「そのうちにおいおいお見せいたします。」
冷泉帝も大満足である。光源氏はそれがうれしかった。
この気安い様子を見て、頭の中将は悔しがった。こんな些細なことでさえ、明らかに冷泉帝は自分よりも光源氏に親しげである。後ろ盾だったとはいえ、これでは娘に皇子ができても皇位のことは無視されてしまうかもしれない。
「やはり私たちは秋好の后より下に見られているのだろうか。」
頭の中将は面白くなかった。
「いやいや。娘の弘徽殿は冷泉帝に愛されている。私は見ているではないか。大丈夫だ。」
光源氏と頭の中将が張り合っているので、宮中の行事は隆盛だった。
決められた行事ごとは「冷泉帝からの新しい習慣を作るぞ。」と目新しい工夫を追求するし、そうでない時はこのような絵合わせのような珍しい趣向を凝らす。
その一方で、光源氏の厭世感はまた強くなるのだった。
(冷泉帝がもう少し大きくなられたら世を捨てて出家しよう。)
彼は信心深かった。「出家したい」はほとんど口ぐせである。
(若いのに位人臣を極めると長生きできないと言うからな。
今身分が高いのは、須磨に流されて苦労をした反動だろう。だから今は命の心配はないだろうが、ここから先はどうなるだろう。
今からでも庵にこもって勤行すれば、長生きできるかもしれない。)
一応は山里の場所を選んで、御堂を作らせ、仏像も経典も手配して運び入れたが、そこでまだ明石の姫の顔を見ていないことを思い出す。
(やっぱりあの姫が大きくなられるまでは世を捨てるわけにいかないな。)
その姫の素質次第では天皇の后にするつもりがあるのでなおさらである。
養女の秋好が皇子を産んだとしても、やはりそれでは弱い。
明石の姫が皇子を産めば、その時光源氏は盤石な外祖父になれる。誰にも引きずり落されることはない。
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