明石

 嵐は数日間続いた。雷もやまなかった。この嵐は光源氏を滅入らせた。嵐は悪いことが起こる前兆かもしれず、都では必ず貴人の周りに人々が参上してお見舞いを申し上げ、お仕えするべき時なのである。しかし光源氏には誰もいない。嫌な夢は見るし、建物は揺れて不安をあおった。何よりも情けないことは、須磨に引っ込んで1年もたつと自然と光源氏の威光は失われつつあり、近隣の荘園も今までのように命じても徴発できないことだった。春の除目で光源氏の傘下にあった受領が右大臣側の者に変わったのである。その途端に須磨は風雅な別荘地から砂漠のど真ん中のアウェイへと変貌した。衣食住すべてを自力で手に入れなくてはならない。近隣の者に無償で貢がせるやり方はもう使えない。

 さすがの光源氏も、自分の男ぶりと風流ぶりは食べ物を手に入れる役には立たないことが分かっていた。その逆である。そんな優雅な暮らしぶりは、むしろ恵んでやる立場にしかならない。

 

 都でも同じ嵐が続いていた。若紫は光源氏の身の上を心配し、嵐をおして使者を送った。

 嵐のために来ないと思っていた使者がひどい濡れ姿で現れて、光源氏を喜ばせた。

 彼は普段なら使い物だけを差し出させてあるいは庭先でかしこまるのを奥から褒美を与えたりするところだが、この日ばかりはうれしく、ずぶぬれでくたびれ切って、誰かもわからないほどだが、屋敷の中にまで上げた。本来なら縁側に上げるだけでも、受領階級程度でなくてはならないのだが。

 

 彼は若紫の手紙を広げた。

「少しも嵐のやむ気配がございません。私の袖はもともと波間もないほど濡れておりますのに、そちらでは浦風がどれほど吹いていることでございましょうか。」

 若紫は短い手紙を使者に託していた。それだけではなく、光源氏にぜひとも必要な生活物資を、山ほど使者に持たせていた。

 光源氏の心には希望の光が差し込んだ。彼女ほどの女性は、言い寄ってくる相手に事欠かないことはわかっていた。しかし1年たっても若紫は変わらず光源氏を愛して慕って頼りにしているのは変わらない。忠義心の厚い者をつけているが、それでも荘園の中には貢物を滞らせるものもあるだろう。若紫の生活も不安だらけだろう。しかしそのことよりも光源氏のことを案じているのだ。須磨では生活物資が手に入らないだろうと予測して、光源氏の生活に不自由がないように行き届いた配慮をしている。彼女の愛情は、金剛石のように確かで曇りがなく、しかも実際的な方面でも欠けるところがない。

 光源氏は元気を取り戻した。


「都の様子はどうだ。」

「はっ。都でもこの雨風はあやかしの仕業ではないかと恐れ、仁王経を講ずる会を開こうという動きがございます。内裏に参上する貴公子もなく、政事は停止しております。

 雨が絶え間なく降り、強風は吹いてこれがあまりにも長く続くので皆驚いております。氷(雹)も降りまして、雷もやみません。」

「そうかそうか。」

 光源氏はほくそ笑んだ。こういう悪天候は悪い政治のせいだと、中央は見るだろう。須磨だけでなく都でも同じ嵐が起こっているのなら、少しも悪いものではない。

「右大臣一族はどうしている。」

「お変りもなく。」

「嵐がやむまでいてもよい。」



 嵐は続いた。ひどい高波で、海沿いに立てられた光源氏の屋敷は今にも飲み込まれそうである。雷はすぐ近くで鳴る。屋敷に落ちればひとたまりもない。

 光源氏の取り巻きたちは「このような田舎で父母にも会わず、妻子の顔も見ないで死ねない」と悲しんでいる。光源氏の復権を信じればこそ一族郎党が右大臣一派から干されても須磨くんだりまで雑用係として来ているのに、道半ばで死ねない。

「主の身の安全を祈ろう。」

「そうだ。住吉の神にお祈りするのだ。」

「主に罪は全くございません。政で民に慈悲を施してきました。このようなところで朽ち果てるなどもってのほかでございます。どうかわが身に変えても主が官位を取り戻し、都へ戻ることができますように。」

「住吉の神様。願をお立ていたします。」

「おい。竜王様にも祈ろう。怒っていらっしゃるようだ。」

 取り巻きたちは海に向かっても願を立てた。

 聞いていた使いは「そんな願が聞き届けられたら取り巻きの方たちは死んでしまうということではないか」と思ったが、光源氏の復権は二条屋敷の召使たち全員の悲願だったので、少しもその犠牲が惜しいとは思わなかった。

 それが聞き届けられたという証拠なのか、全く聞く耳を持たないという証拠なのか、雷が廊下に落ちて、光源氏は部屋にいられなくなった。


 部下たちは大急ぎで光源氏の移れる場所を用意した。台所が別棟になっていて、そのわきに召使用に小さな部屋がある。確かにその場所はほかの下人たちも一緒に嵐を避けてごった返した場所で、光源氏のように優雅に育った人間には到底我慢できかねる環境ではあったが、部屋は御簾が焼けて、散らかっていて戻れる場所ではない。ここで「身分の低いものは見苦しいから嵐の中へ出ていくように」と命じるのは簡単だったが、それを言えば反乱が起きかねないことも承知していたので、仕方なく大きく区切ってなんとか人に見られずにくつろげる場所を作った。

 悲しくてたまらないが落ち込む姿を見せるわけにはいかない。彼は何も言わなかった。

 こんなむさくるしく汚い場所で横になる気になれないので、物に寄りかかって目をつぶったが、よほど疲れていたのか、いつの間にかうたたねをしていた。

 

 夢の中で彼は父の桐壺院を見た。光源氏のことが心配で、波を超えて海を越えて、死後の世界から会いに来たのだ。

 一番会いたくてたまらなかった人だった。この人が生きていれば光源氏は決してこんな目にはあわなかったのだ。

「なぜこのような粗末な場所にいるのか。

住吉の神の導かれるまま、船を出してここを去るように。」

優しい言葉に光源氏は涙を流した。

「父上にお別れしてから悲しいことばかりで、もうこの渚に身を捨てたいのです。

どうか一緒にお連れください。」

「こんなことはじつにささいなことの報いにすぎない。私も位にあるときは過ちは犯さなかったつもりだが、それでも自然と何かの罪は犯しているだろう。お前の苦境を見ていられず、海に入り、渚に上り、お前に会いに来た。ずいぶん苦労してこの世に出てきたから、この足で都に上り、内裏にお前のことを申し上げよう。」

 生きていても死んでいても、父は自分の味方をして力を尽くしてくれると、光源氏はわかっていたし、今何よりもほしいのはその無条件で力強い父の庇護だった。

 うれし泣きした光源氏は浅い眠りから覚めた。

(もう一度お会いしたい。)

 光源氏はいそいで目をつぶり、もう一度夢を見ようとしたが、もう眠れることはなかった。



 嵐がやんで、下人たちは後片付けのために浜に出ていき、それぞれの活動を行っている。

「あと少し波が高かったらこのお屋敷も飲み込まれていたなあ。」

 と口々に話し合っている。光源氏はまたもや鬱屈しかかる気持ちを何とか立て直し、頭を働かせた。彼は引き止めておいた使いを呼び出した。若紫やほかの人々へあてた手紙を渡すと、事のついでのように言った。

「この嵐だが、父上が怒っていらっしゃるのかもしれぬ。」

「は。」

「昨日夢を見たのだ。」

 光源氏は夢に父桐壺院が出てきて、光源氏の事を案じ、都へ向かっていったことを教えた。平安時代の人は夢のお告げを大変重きを置いている。

「覚えたか。」

「書き留めます。紙と筆をお借りしてもよろしいでしょうか。」

「そうせよ。私の弱気な姿を私から話すわけにいかないのだ。お前が人に伝えるように。

内裏で何かあれば父上の起こされたことかもしれぬ。」

 光源氏はこの話がうまく同情を持って広まれば、何か不吉なことが起こるたびに、光源氏呼び戻し論が巻き起こることを期待していた。

 彼は知らなかったが、右大臣一派があまりにも性急に光源氏一派の排斥をやりすぎたために、都にはその呼び戻し論が起こりやすい素地ができていた。


 そしてその日のうちに、住みかを破壊されて困っている光源氏のもとへ、明石の入道からの船が来た。


「何者か?」

「明石の浦より参りました。前の守であった明石の入道の使いの者です。良清殿はいらっしゃいませんか?知り合いなので取り次いでいただけると存じますが。」

 良清はいたし、確かに知り合いだったが、彼は求婚を断られたときにその縁は切れたものと思っていた。しかしこの収入が断たれているときに、明石の入道のような裕福なものの助けがあればありがたいことは確かだった。

「使いに会いに行け。」

 良清は少しも会いたくなかった。嫌な予感しかしない。しかし光源氏に命じられては仕方ない。家が嵐のために混乱してあまり隔絶されておらず、使いの者の言った内容が、光源氏に聞こえてしまうのだ。


 舟に会いに来た良清は、この嵐の合間を縫って船を出したことも驚きだが、さらに明石の入道の執念の深さを思い知る逸話を聞かされた。

「一日の日に入道様が夢をご覧になりました。

『13日の日に徴を起こすので、雨風がやんだら船の用意をして、こちらの浦に船をこぎ寄せるように』と。

 風がやんですぐ夢のお告げの通りにすると、すっとこちらの浜に着けたのです。」

(見え透いた嘘をつくな。)

 良清は思った。光源氏が来たと聞いた時から、とにかく口実を待っていたに相違ない。夢は見たかもしれないが、ひょっとしたらその手の夢を毎日見ていたかもしれない。絶対に召使たちの中に入道に逐一報告を入れているスパイがいるはずだ。何だったら毎日船で偶然目に留まらないか見に来ていたかもしれない。この機会に光源氏と近づきになろうとする明石の入道の思惑は、できたら門前払いしたかったが、主の使いで来ている以上、勝手なことはできなかった。


「神のおぼしめしでお越しになったのだ。それに、年が上で勤行に明け暮れていらっしゃる方とお話しして何が悪いことがあろう。

 『都とはすっかり疎遠になってしまい、寂しい思いをしていたところです。そちらにひっそりと隠れ住める住まいがあるのなら喜んでお招きにあずかります。』とお伝えせよ。」

「しかし、主、この招待を受けるということは、明石の入道に借りを作ることになります。相手は一癖も二癖もある都落ちのひねくれ者です。貢物を受け取るだけでは…?」

「美しい姫を大事にかしずいて育てていると、前にお前が申した入道だろう?」

「そうです。」

「ならば姫を私にめとらせようとするのが、せいぜいの魂胆だろう。もうここは暮らせる場所ではない。」

「しかし…」

 光源氏に冷ややかににらまれて良清は分を思い出した。この時代の身分差、血で分けられた身分の上下は、後世の武家の比ではなかった。それだけ一部の人しか裕福に暮らせない時代だったのである。

「かしこまりました。」

 良清は可及的速やかに光源氏の返事を入道の船に伝えた。入道は大喜びで船に乗るように返事をした。

「とにかく夜の明けぬ間に。」

 光源氏と取り巻きたちは身の回りの物を大急ぎで取りまとめて、入道の船に乗り込んだ。

 住吉の神のご加護なのか、入道の気がはやっているからなのか、程よい時刻、潮の流れに乗って船は飛ぶように須磨から明石へと光源氏の一行を運んだ。



 入道の支配する明石の浦は、光源氏が思った以上に栄えていた。

 源氏のいた須磨は、漁民の岩屋が何棟かあるだけだったが、ここは人が大勢行き交っている。稲を収める倉をずらりと並べたところが何か所もあり、領地経営にたけているようだ。

「娘は高波に合わせてはならないので、高台の岡部に移しました。」

「そうですか。思ったよりも人が多いのですね。私はひっそりと勤行に励みたかったのだが。」

「わたくしの住まいでしたら、人に見られる心配もございません。勤行に適するように景色の良いところに三昧堂もいくつかございます。

 迎えの車をこちらへお寄せせよ。」

 光源氏は満足した。右大臣一派に、謹慎に来ておいてもてなされているなどと、つけこむ理由を与えたくなかったのだ。人目につくのは避けたいところだ。入道もそのことを承知しているのか、夜迎えに来ていた。

(気の利く男だ。)

 車に乗り込む際、明けかけた光に光源氏の姿が見えた。

(なんとお美しいお姿だ。わしの考えは間違ってはおらぬ。このお方に賭けて間違っていない。)

 入道は住吉神社の方へ両手を合わせて感謝した。


(娘がいないというのは気が楽で良いな。)

 押し付けられるのがいやだった光源氏は気楽な気持ちで入道の浜の館に入った。

 浜の町の栄えようもよかったのだが、入道の館はさらなる豪奢を極め、都と変わらぬ住まいが建てられて、庭も遣水もまったく遜色がない。そのまま都のお屋敷と言っても通じるほどだった。

 光源氏は岩の立て方、庭木の立ちぶり、前栽の刈り込み、入江の水を利用した池のありさま、すべてを繊細に眺めてみたが、明石の田舎とは思えぬ見事さで、絵師に書かせるとしても生半可な絵師ではこの趣向のこらしたところを書き漏らすだろうと思われた。

 室内もまた調度品などが立派に整えてあり、都の趣味の良いお屋敷よりもまさっている。

 光源氏はやっと人並みの暮らしができると思い、気持ちがくつろいだ。



 入道は当然のごとく一番良い部屋を光源氏に明け渡し、離れた召使用の棟に光源氏に遠慮して住まいするのだった。主であるが、光源氏の取り巻きよりも一段下に自分を置いているようである。

(身分の差から言って当然の態度だ。分をわきまえているようで何より。)

 昔もせいぜい受領に過ぎず、今の入道は無位無官である。皇子で次期帝の後見人である光源氏との差を考えたら当然の処遇であった。自分に嫁がせたいと思っているらしい娘も、光源氏にしたらお手付き女房程度の身分でしかない。そのことはわきまえているのかわからないが、ひとまず光源氏は傲慢な人間でないことに安心した。

 ゆっくりくつろぎ、旅の疲れをとると、まずは京都への手紙をしたため、須磨に置いてきた使いを呼び出した。

 

ここにいつまでもいないで済むように、京都で祈祷の手配をしなければならない。心配している女性たちに手紙を送らねばならない。藤壺の宮にだけはこのたび命が危なかったという顛末を詳しく書いて知らせた。書きがたいのは若紫への手紙である。須磨にいても明石にいても、若紫への愛情は深まるばかりである。

 涙をぬぐいながら手紙を書くのを、部下たちは「やっぱり二条の女君への愛情は他と違うな。」と噂している。


「かえすがえすも大変な目にあい、苦労をしつくしている。もういっそ世を捨ててしまおうかという気になるが、『鏡を見ても私のことを思い出す』といったあなたのことが気にかかって、憂う気持ちも置いて、浦伝いに都まであなたを思う気持ちに変わるのだ。こんな思いをしているとは知らないだろう。ここにきてずいぶん経つがまだ夢の中にいる気持ちがする。冷めるまでどれほどの間違いがあることか。」


 乱れがちな筆跡も、苦悩をよく伝えている、と光源氏は返事が楽しみだった。

 

 部下たちも各々都に残してきた家族や妻子へ短い手紙を書いているようだ。

 須磨の壊れかけの家に取り残されて不安がっていた使いは飛ぶように明石へやってきて、光源氏の手紙をしっかり受け取り、たくさんの褒美もいただいた。部下たちも各自手紙を使いに託した。

 こうして光源氏の明石での新生活は始まった。


 明石の入道は召使の一人として、光源氏に仕えた。それ以外のときは読経や勤行に励んでいる。屋敷のすべては、光源氏の自由である。

 付き合ってみると、入道はそれほど卑しい者ではなかった。

 まず真面目に仏道修行に励んでいるし、大臣の息子というだけあって人品卑しからず、60近いが知識も豊富で、呼び出して昔の話などをさせてみると面白かった。光源氏の知らないような故実・先例をよく知り、惜しみなく話してくれるので、思いもかけず政治の勉強にもなった。


 この時代の政治とは、儀式である。そして儀式とは、「以前○○の年にはこのようにいたしました。」「△△の帝の折にはそのように儀式したこともございます」と、ひたすら先例を上げて述べられることなのである。これをできる貴族が「仕事のできる貴族」と思われていた。そのために必要な資料、それは「日記」である。「これこれの儀式のときの服装、身分、誰それはこうしていた」あった儀式と事と次第を克明に書き留めた日記を、先祖代々受け継ぎ、日記を多く所有している貴族ほど、先例に強かったので、日記をつけるのは政治にかかわる男性の義務であり、火事になってまず持ち出すものは日記だった。

 門外不出、一門を受け継ぐ男子だけがこの日記を所有し、書き留められた知識を生かすことができる。明石の入道は将来の婿君(と勝手に決め込んでいる)貴公子のため、自分と先祖の持てる知識をすべてを、身分の低い者らしく控えめに、しかし熱意をもって注ぎ込んだ。


 光源氏は入道を見直した。先例は当然彼も知っているのだが、入道の知識の中には彼の知らないこともある。そこで、興味のない様子ながらも時には面白そうにその知識を吸収した。

(この男は私が政界に復帰すると思っているな。)

 光源氏はそのことがいやではなかった。


 なかなか面白く、信心深いところも評価できる入道だが、ときどき娘のことをちらつかせる。娘の事でないことを話していても、心の中ではどうやって光源氏に娘を妻としてもらってもらうか、そのことばかりである。そのことは話をしていても光源氏に伝わった。入道は今では往生よりも娘にかけた期待ばかりを真剣に仏に祈る毎日だった。


(どうぞ娘を源氏の君に差し上げ、子供が生まれますように。その子供を源氏の君が出世させてくださいますように。

 わしの血筋が政治の世界で楽に大臣の位まで登っていけますように。

 どうか源氏の君がわしの娘に興味を示してくださいますように。どうかどうか。)


 あまりにしつこく言えばかえって嫌がられる。しかし上品な女性など望むべくもない明石で、女性好きで知られた源氏の君が娘に興味を示さないはずはない。他にいないのだから、愛情だってその分強くなるはずだ。

 入道は毎回ショック死しそうなほどの期待を込めて娘の美点をさりげなくほのめかした。

 光源氏はそのたびにそっけなくその話を聞き流した。

(謹慎中の身の上で女性とかかわっていたなどと後から後ろ指をさされることになっては困る。今度こそ間違いを犯さず勤行に明け暮れるのが良いだろうな。ついてきたがっていた若紫も悲しむだろう。)

 しかし心の中では、「心も姿もたぐいまれな姫君らしいな」と、興味を惹かれてはいた。


 入道は失敗するたびに落ち込んで部屋に帰り、妻とともに嘆き悲しんだ。

 娘を高貴な方に嫁がせるといって大事に育ててはきたものの、そうはいっても年齢制限というものがある。もう無理だという年になってしまったら、いくら美しくても教養があっても、望みがない。すでに娘は20歳を越して、女の年齢はまだまだ美しい時期が続くといっても、これが最後のチャンスかもしれないのだ。だめなら広言していた通り、入道が死ぬときに娘を背負って海に飛び込む運命は決定したも同然である。

「謹慎中は妻をめとろうと思ってはいらっしゃらないようだ。実にそっけなく…わしがこの話を申し上げるのも、きっかけがなかなかつかめんのだ。」

 妻も入道とともに悲しんでいる。

 当の娘は、光源氏をのぞき見して、明石では見たこともない美しさに圧倒されてしまっていた。

(とても釣り合いのとれるご縁ではない。)

 そう思って落ち込んでいた。



 光源氏が引っ越して入道の屋敷をわがものとして使うようになってから一月が断ち、5月(旧暦4月)衣替えの季節である。

 入道はまるで光源氏をもう婿にもらったかのように、光源氏の衣装から几帳の帷子、調度品のしつらえ、すべてを夏仕様に取り換えた。光源氏にふさわしい見事なものである。着物を用意して着てほしそうにするとは、まだ婿になるなどとは言っていないと光源氏は気を悪くしたが、入道が普段召使の分際をわきまえているので大目に見た。当てつけのように若紫の仕立てた着物を着るだけで我慢した。


 都からは手紙が間遠なしに届く。

 のどかな夏の夜、格子を上げて海を見ると、晴れ渡ってのどかな夕月夜である。

(都に似ている)

 恋しさに魂がさまよいでそうだった。ただ目の前の海に浮かぶのは淡路島である。


「淡路島 あはと遥かに 見し月の 近き今宵は 所がらかも

(淡路島であればと 鳴門海峡(阿波の門)の月を遠くに眺めたが、それがこんなに近くに感じられる今夜は 雲の上(御所)にいるからであろうか)」

 光源氏は新古今集の凡河内躬恒の歌をくちずさんで、久しぶりに琴の琴を袋から出した。


 広陵散という琴の秘曲を秘術の限りを尽くして弾いた。

 音色は娘がいるという岡辺の家にも、浜にも届き、人々をうっとりさせた。

 音色に感激して供養中だった入道が飛んできて、感涙しながらほめそやす。

「一度は捨てた世を取り戻したくすらなる音色でございます。往生できたなら見える極楽のありさまが思いやられます。」

 

 賛辞を聞きながら光源氏は都の宮中での管弦の遊びを思い返していた。

 この人、あの人の琴笛の音色、声、帝から始まってあらゆる人に称賛された自分の演奏のも思い返された。

 そうやって思い返しながら歌う光源氏の声は、一層の哀れさが加わって、聞く耳のあるものは涙が止まらないのだった。


 入道は岡辺に琵琶と筝の琴を取りにやらせた。

 本人は琵琶をとり、かき鳴らすと光源氏にも引けを取らない秘曲を1曲2曲弾きこなす。

 音楽は同じくらいの名手と合奏してこそ面白い。光源氏には筝の琴が差し出された。少し触ってみると名器である。音楽があると景色が引き立つものである。光源氏がかき鳴らすと、何の変哲もなく広がる海が、紅葉より花より美しく、うっそうと茂る木陰が、この上なく色めいて、クイナが戸を叩くような声で鳴くのさえ、切なさを感じるのだった。


「筝の琴は女性がしどけなく弾くのこそ味があるのだが。」

 入道は思わず目を光らせた。

「あなた様よりも優しい風情で弾ける女などございません。

 ところでわたくしは延喜の帝より3代に渡って弾き伝えた琴を教わったのですが、世を捨ててしまったものですから、たまに気のふさいだ時にかき鳴らす程度でございます。

 そのわたくしの手を、なぜかそっくりそのまま真似て弾く者がおります。しかし山伏が松風を聞き違えたのかもしれません。どうぞ一度お聞きになってお確かめいただけませんでしょうか。」

 言いながら目つきは真剣そのもので、ぶるぶる震えて今にも泣きだしそうである。

「昔より筝の琴は女性の方が上手と決まっております。嵯峨天皇の時代の女五の宮が上手とうたわれたそうですが、お弟子でその腕を伝えた方はおらず、今の世で名人と言われる人も、表面的な上手でしかなく。

 それほどの上手な琴は、ぜひ聞いてみたいものです。」

「もちろんでございます。何のはばかりがございましょうか。大陸では琴の上手と聞けば商人の妻でも呼び出して弾かせたそうでございます。こちらに呼び出して弾かせていただいても結構でございます。

 筝の琴もそうですが、琵琶の音も、昔から名人は少ないのですが、それなりに弾きこなし、波の音に埋もれさせるのがもったいないような演奏でございます。寂しい折々など、憂さを忘れてしまうほどでございます。」

 光源氏はほほえましく見て、ならばどれほどの腕かと琵琶と取り換えて筝の琴を入道に与えてみた。

 なるほどうまいもので、光源氏の知らない曲を、唐風の弾き方で弾きこなし、声のきれいなものに催馬楽を歌わせると愉快である。


「伊勢ノ海の 伊勢ノ海の 清き渚の しおがいに なのりそやつまむ 貝や拾はむや 玉や拾はむや」

 

 光源氏がときどき一緒に歌えば、そのたびに入道はほめそやす。

 お菓子、果物をきれいに盛り付け、強引にお酒も勧めて、光源氏も入道も明るい気分で夜を過ごした。

 二人の(入道と光源氏の)距離は縮まった。

 犬のように値打ちがないと思っていた無位無官の元受領風情の欲深僧侶であるが、分をわきまえているのだから目にかけてもよい、なにしろまともな生活が送れるのはこの男のおかげなのだからと、酒の入っている光源氏は思っていた。


 接待飲みに夜が明けるころ、まどろむ光源氏に、入道は問わず語りに語りだした。

「このようなことを申し上げ、お気に障りましたら申し訳もございません。実はかりそめにも源氏の君がこのような辺鄙な土地へお越しくださったのは、ひとえに神仏のご加護によるものではないかと思われて仕方ございません。

私は大臣の家に生まれましたが、生来の愚かさのために出世もかなわず、受領風情で終わりました。しかし娘は小さいときから見どころがあり、この娘をぜひに高貴な方に嫁がせようと、幼いころからできる限りの教育を受けさせてきました。今年18になります。」

 最後の年齢はおそらく嘘である。約十年前、山奥の寺へ祈祷を頼みに行った際に、光源氏は明石の姫が求婚者をことごとくはねつけているという話を聞いている。

「春秋、住吉の神社にお参りさせ、朝な夕な御仏に極楽往生よりもこの娘が本願を遂げることをひたすらお祈りしてまいりました。そのご加護があったのやもしれません。

 あまりにも派手に育ててまいりましたので人の目を引き、恨みや妬みを買うこともございましたが、それもこの一念のため、辛いと思ったことはございませんでした。

 しかしもし私亡きあと、娘が意趣返しにどうなるかわかるものではございません。

 もしも源氏の君が娘をもらってくださらないのであれば、私が死ぬとき、この墨染めの衣に娘をくくりつけ、ともに死ぬよりほかにございません。」

 入道は大泣きに泣きながら両手をついて光源氏に訴えた。

 

「高貴な人に嫁げなければ入水せよ」と公言しているのも、そういう理由なら納得がいく。光源氏の最後のひっかかりが取れた。入道は高位目当ての欲深から言っているわけではないようだ。ただやりかけたときにあまりにも評判になり、あまりにもはねつけたために、本当に高位の人に嫁がせなければ、仕返しにどんな目にあわされるかわかったものではないのである。

(播磨の受領の申し出を断っていたな。さぞ圧力がかかっただろう。無位無官の一介の僧の身の上で、この荘園もよく存続していたものだ。)

 窮鳥懐に入るということであれば、少しもその申し出は嫌味ではなかった。入道の死後の生活の保障を与え、恩を施すことになるのであれば、もてなしも心苦しくはない。

 アルコールも手伝って、源氏はほろりとした。


「無実の罪を得て都を離れ、思いもかけない身の上になったかと思っていたが、もしかしたら明石の姫に浅からぬ前世からの縁があったためかもしれぬ。

 どうして今まで言ってくれなかったのだ。美しい姫がいるとは聞いていたが、私のような役に立たない人間を見てはもらえぬだろうと思っていたのだ。卑屈になっていたのだ。さあ、姫君のところへ案内してもらいたい。一人寝の夜は心細いところだったのだ。」


 光源氏のリップサービスは、「絶対に嘘だ。私の今までのほめのかしに気が付いていないはずはない」と思いつつも明石の入道を喜びの最高潮に引き上げた。


 入道は平伏した。その声は震えおののいていた。だが上品な持って回った言い回しは忘れなかった。

「もちろんでございます。明石の夜は一人寝には大変寂しいところでございます。ですが、幼いころからこちらで過ごした娘の寂しさは源氏の君さえ思いもよらぬほどでございます。」


 光源氏は酔いも手伝って色っぽいしどけなさを発散させながら優雅に返した。

「旅寝の夜は悲しすぎて、夢を見るほど眠ることもできないのですよ。」



 その日は入道にとっても、光源氏にとっても、心の重石のとれたすがすがしい一日だった。

 これで入道は目的を果たしたし、光源氏もこの先いくらもてなしを受けても重荷に感じることはないのだ。

 ひと眠りして昼頃、彼はさっそく入道の娘に手紙をやることにした。いきなり押し掛けるつもりではあるが、手紙もなしなのは都の作法に反する。婿として扱われるのなら、入道の娘も妻の一人として扱わなければならない。建前は。

(入道の娘ごときにもったいないかもしれぬが、こんな土地に思いもよらぬ上臈かもしれない。こちらの最初の手紙を軽く見られることなどあってはならないからな。)

 彼は高級な朝鮮製のクルミ色の紙を選んで、字も特に丁寧にうまく見えるように書いた。


「勝手の分からない土地に暮らし、知らない御殿で物思いにふけっているのですが、ふと耳にした宿の梢をお借りしたく(泊まりたく)存じます。」


 入道はすでに岡辺の家に来て光源氏の手紙を今か今かと待っていた。手紙を受け取ると持ってきた使者がそれまでの人生で一度も見たことがないほどの大量のほうび酒をふるまった。

 その間に文面を考えるのだ。光源氏を引き付ける最上の手紙を書くのだ。使者がごちそうと酒に酔っている間に彼は御簾の前で返事を急かした。

 しかしいくら催促しても、娘は美しすぎる紙と筆跡に気後れしてふせって、手紙を書こうとしない。

 わめくのに疲れた入道はもう自分で書くことにした。


「いただいたお手紙ほどの輝かしさ、田舎娘の手に余るようでございます。筆跡を拝見するのさえ、もう気後れがするようです。

 もちろん娘も同じ思いで源氏の君をお待ちしております。入道の分際で、色恋に口を出すとは、まことに分不相応なことでございますが。」


 光源氏は返事をしっかり鑑定した。

 陸奥の紙の分厚い古いのに、しかしながら筆跡は誠に男らしくて見どころがある。

(まったく入道の分際で色恋に入れ込み過ぎだ。)

 使者には、高価な女性用の裳(スカート)を与えて、たらふく飲ませるのとは違う貫禄を示した。

 娘本人から承諾の返事がない以上、もうしばらく口説きを続けなければならない。



 翌日また手紙をやる。

「代書はめったに見ませんね。

 胸が苦しいですが、心に悩みがあるのですかと問うてくれる人もいません。

『恋しとも まだ見ぬ人の 言いがたみ 心に物の 嘆かしきかな

(一条天皇:恋しいですとも まだ逢ったことのない人に 言いにくくて 心に物を思う 嘆かしい)』」

 よく叩かれ、柔らかくなった薄紙に書いて送る。

 明石の娘は身分差に圧倒されて何もできず、わが身の行く末が分かるので涙ぐまれ、昨日と同じくつっぷしていたかったが、さすがに今度は許されなかった。

『代書はめったに見ない』と書いてあるのは、どう見ても源氏の君の不満の表明なのだ。


「思うらむ 心のほどや やよいかに まだ見ぬ人の 聞きか悩まむ

(思いますのは お心の悩みとは どれほどの物でしょうか まだ会っていないのに 聞いただけで悩むのでしょうか)」


 紫の紙に墨のつき方の濃淡を交えて描いている。濃く香をたきしめてあるのもたしなみが深い。筆跡もよいが中身の歌もよい。

(これは思ったよりも上臈だ。都の女性の高貴な身分の者並みだ。)

 光源氏は京都が懐かしくなった。



 その後も手紙のやり取りを続ける。

 謹慎中に妻をめとったと中央に知られてはどんな攻撃の材料にされるか分かったものではないので、大っぴらに手紙をやり取りすることは避けたいのだが、2,3日おきに風流な景色や花を見かけて「これは」と思う時に、手紙を交換する。明石の娘も心得て光源氏が送ってきそうな時に、手ごたえを感じる返事を返してきた。人目につきにくい早朝や、夕方が多い。


(これはぜひ逢ってみたい。逢わずにすませたくないな。)


 部下の良清が長年の間言い寄ってきたことを知っているので、物にすればむくれかえるのは目に見えている。それに人目は気になる。


(向こうから忍んできてもらえれば、言い訳が断つのだがな。)


 しかし明石の娘は、そんなところも上臈めいていて、身分は側仕えの女房よりも劣るのだが、呼びつけることもできない奥ゆかしさだったし、決して「ぜひ!」という色よい返事はよこさない。「良い返事を返さない。つれないそぶりを見せる」のが宮廷恋愛遊戯の女性のあり方であるが、それを確実にこなして、光源氏がそのまま飽きてしまうかもしれないとは、思わないようだった。

 ひたすら待っている。


 光源氏にとって、今逢いたい女性と言えば、若紫だった。京都の女性が思われれば、すぐに若紫のことが思い出される。明石の娘など、その恋しさを紛らわせられるかどうかも怪しいところだった。もう一年以上逢っていない。呼び出して逢いたいが、知られたら攻撃の材料に使われてしまうに決まっていた。

(いっそのこと迎えに行ってこっそりこちらへ移そうか。…しかし長くここにいるわけではない。右大臣とて、もう高齢なのだから。)


 政敵の柱の右大臣があまり健康でないことを、光源氏は聞いていた。弘徽殿の女御だけなら、相手は女性なのでそれほど強敵にならない。もう帰れる日はそこまで来ていた。何月何日と、はっきり言えないだけだ。


 やがて、光源氏は須磨で大嵐に会い、父親が「お前のために都へ行ってくる」と言った夢を見た日に、都でも大きな雷が鳴り、朱雀天皇が急に眼病を患い、そのころは太政大臣になって権勢をふるっていた右大臣が亡くなったという知らせを受けた。

 それでは帰れるか、というとそうはいかず、同じく病気になったが強情な弘徽殿の女御が、頑強に反対しているためにまだ帰れない。朱雀天皇は「父上の遺言に従わなかったため、父上が怒っていらっしゃる」と弱気になって、光源氏を呼び戻したがっているが、「古来罪に問われて都を追われたものは3年戻らない決まりです。」とその希望を押し返したらしい。


(三年か…。)

 光源氏は複雑な思いでその知らせを聞いた。

 今二年目に入ったのであと1年と少し、という事になる。

 その数字は長いともいえたし、短いともいえた。弘徽殿の女御はできるだけ光源氏を遠ざけておくつもりで長めの数字を出したのだろうが、そのために3年たてば呼び戻さなければならない。その時にはおそらく政権交代もされるだろう。現天皇は眼病で、長く政治はとれない。光源氏が帰ってくるのなら、向こうも権力が残っているうちに、次の政権への布石を打っておきたいはずだ。退位して冷泉を帝位につけてやるから、それと引き換えに皇太子に朱雀帝の皇子をつけるようにと要求するだろう。冷泉皇太子が帝位につけば、光源氏の天下である。帰還する日は決まったし、帰ったときに輝かしい権力の座が約束されていることも決まった。

 将来の光が見えてきた。



 光源氏の思惑に反し、明石の娘は光源氏の側仕えになることを拒否し、根競べが続いていた。

 光源氏はたびたび父親に「娘をこちらへ参らせよ」と手を変え品を変えほのめかすのだが、この点に関しては光源氏の前にははいつくばることしかしない父親がうんと言わないし、娘も承知しないでつれない返事を返す。

 三月(新暦4月)に来て八月(新暦9月)になってもまだその状態が続いていた。

 

光源氏は明石の娘を側仕えとして、身分相応に扱い、明石を離れる時は何の約束もなく捨て去りたい。

 明石の娘はそれをすれば妻として世間的に名乗れないことを分かっている。光源氏が明石を離れる時、自分も苦しむだろうが、両親も、自分にかけてきた投資を回収することができない。今はまだ将来への期待があるから耐えられるが、光源氏に捨てられた時、その望みが全く絶たれて、両親が今よりもひどい苦労をすることが分かっている。妻として扱われないくらいなら、遠くからこっそりとお姿を眺め、この世に二人といない名手だという琴の音を風の中に聞き、手紙のやり取りをし、ほのかな夢を見るだけで十分だと思っていた。将来はそのままひっそりと、明石の片隅で終えるのだ。

 明石の入道は宿願がかなう寸前で思いまどっていた。母親が大反対しているのだ。側に上げてお気に召さない場合も考えられる。これほど素晴らしい貴公子であるので、明石を離れる時に捨てられてしまうことも十分に考えられる。神仏のご加護を願っても人の心と運命はどうにもならないものだ。とはいえ、このままでは光源氏の興味が消えてしまう。

 こうしてどっちがどっちの家に行くのか、というささいなことで、しかしこの形式こそ明石の娘の将来の地位を決めてしまう重大事で、両者は綱引きを続けていた。


 明石の妻と明石の娘の意見に変化はなかったが、やがて源氏と入道は妥協点を見出した。

 誰の人目にもつかないように、真夜中に忍んでいけばよい。

「秋の波の音の中に前に話していた琵琶の音を聞きたいものだな。琵琶の音も聞けないようならいるかいがない。」

「もちろんでございます。」


 入道は妻は反対することが分かっているので知らせず、人の耳に入れば光源氏の機嫌を損ねるので弟子を使うこともなく、吉日を選び、たった一人で立ち働き、娘の部屋を光源氏にふさわしく飾り立てて、十三夜の月がまぶしく照らす夜道を光源氏のいる母屋へ走った。

「あたら夜の 月と花とを 同じくは 心知られむ 人に見せばや

(源信明:もったいない夜の 月と花とを 同じことなら 情趣を解する 人に見せたい)」

 平伏して光源氏にお越し願う。

(色ボケ坊主が。)

 光源氏は煩悩のままに娘の縁談に奔走する入道と、結局妥協して訪ねていかねばならないこの状況を気に食わないと思いながら、直衣を着つけ直し、夜が更けるのを待って馬で出た。車はあるが目立ちすぎる。この時にはめでたく受領を解任されて明石まで光源氏を追いかけてきていた忠実な惟光だけをお供にして、少し遠くにある岡辺の家に向かった。

 月に照らされた入江のはるかに続く海を眺めると、若紫が恋しかった。このまま岡辺の家を通り過ぎて、京都の二条の家まで会いに行きたいと思った。

 が、しかし今は、明石の娘で我慢するしかない。


 岡辺の家はうっそうと茂る木々の中にあり、風情があった。海が間近いのもいかめしくて味がある。近くにはたぶん入道が娘のもとにいる時にお参りをするのであろう、三昧堂が建てられて、鐘の音が松風に交じる。岩からは松が生えている。心細さを極めつくしたような、それでいてみすぼらしくはない数寄をこらしてある建物である。庭には虫が降るほど鳴いている。娘のいるらしい建物はぴかぴかに磨き上げられ、月の光の下で、戸口がほんの気持ちばかり開いている。

 なかなかのお膳立てであると、認めざるを得なかった。


 早速入って御簾の中へいろいろささやいてみるが、娘は引っ込んで出てこようとしない。

(それなりの身分の女性でも私がここまで来たら言葉くらいは交わす。私が流人身分だからと侮っているのか。)

 光源氏の負けん気に火が付いた。

(無理強いしては娘を大事にしている入道が気に病むだろう。こうなれば根競べだ。)

 光源氏は恨み言の乱れ討ちを繰り出した。

 そうしながら少しずつ中へ入っていくと、入道は妻にも知らせなかったが当然娘にも知らせなかったので、先ほどまでかき鳴らしていたと思われる筝の琴がそのままの姿で置いてあり、琴を弾いていた途中で知らせを受けた慌てぶりがうかがえて光源氏はおかしかった。そのおかしみは、小さな砦を奇襲して砦の人々が慌てふためくさまを見て笑う大将軍の笑いに近いものがあった。


「噂にいつも聞いていたこの琴の音さえも聞かせてはいただけないのですか?」

 光源氏は奥に向かって呼びかけ、歌を詠んだ。


「むつごとを 語り合はせむ 人もがな 憂き世の夢も なかばさむやと

(しっとりと寝物語を 語り合う 人がほしい 辛い世の中の夢が 少し覚めるかもしれない)」


 娘はすぐに返した。

「明けぬ夜に やがてまどへる 心には いづれを夢と わきて語らむ

(明けない夜に すぐにさまようことになる 心には どれを夢と言って 区別して語ればよいのでしょうか)」


(奥ゆかしい。六条の御息所に通うものがあるな。)

 とはいえ、声がしたので娘の逃げ込んだ先はわかった。近くの部屋だ。鍵がかけてある。

 光源氏は開けようとしたが、娘はどんなカギをかけているのか、がっちりとしまっていて開かない。ただし長くもつものではなかった。


(とても上品な人だ。こちらが恥ずかしくなるほどの。)

 契りを交わしてみて、光源氏は愛情がまさるのを感じた。普段は長いと思っている夜も今日は短くて気が急かれる。無理強いした罪悪感もあって、心許すまでかき口説きたかったが夜が明けそうである。人に見られるわけにいかない。光源氏はぎりぎりまで細やかに愛情をささやきつつ屋敷に戻った。


 翌朝の手紙は早々に、こっそりともたらされた。

 明石の娘は自分が幸せになるとは到底思えなかった。始まりからして源氏は明石の娘を、まともに扱わなければならない人間とは、思っていないのだった。しかし自分に賭けられた財産の重みはわかっていた。これから自分の意思とは関係なく、光源氏を夫として従うことになるし、万事従うつもりである。絶望の中でも気に入られる見事な返事を書くことはした。しかしいつものように使いに大盤振る舞いすることはしなかった。人に知られたくないのは明石の娘も同じである。まともに結婚式も上げないうちに押し込み同然に妻になったと知られれば、明石の娘は「流刑先の卑女」として名前を上げられてしまうだろう。光源氏はその後も何度か通ってはきたが、人目が気になるので次第に間遠になっていった。もはや入道は極楽往生をねがうのもやめて、ひたすら光源氏の顔色をうかがっている。そんな入道を、光源氏は憐れんでいた。彼の妻は、若紫だけである。明石の娘では若紫の魅力に遠く及ばず、恋しさを埋めることができない。



「今までの浮気も思い出せば胸が痛くなるし、私が望んだことでもほとんどないようなものだったが、また今度もつまらないことになってしまった。聞かれる前に言うのだから、正直さを分かってほしい。誓っただろう。私が想うのは君一人だけだ。」

 光源氏は若紫に明石の娘のことを報告した。


 若紫からはいつもと変わりないかわいらしい返事が返ってくる。そして最後についでのように恨み言が書かれている。

「秘密を打ち明けてくださったことは、ありがたく存じます。わたくしは誓いの言葉をいただいておりましたので、うたがいもなく信じておりました。」

 光源氏はこの手紙を読みながら、かわいさに歯を食いしばった。都にいるのであれば夜通しでも愛情を語って慰めるのであったが、明石にいるので、ただ明石の娘にますます足が遠のくだけである。


 明石の娘は覚悟はしていたが、光源氏に逢えない時のわびしさは、想像していた以上のものだった。彼女はいくら父親が思い込んで頑張っていたとしても、いずれ名流夫人になれるとは、思ってはいなかった。父母を失えば、頼りを失って身投げするのだろうと思ってはいたが、それでも独り身でいたときは、悩みなどなかったに等しかった。気楽なものだった。新婚の今でさえ打ち捨てられ、光源氏が都へ帰ればやがて完全に忘れられ、二度とお逢いすることもないのだと思うと、それこそ今すぐ身投げして光源氏を求める人生を断ち切りたいと思った。

「人の世というものは、こんなにも心乱れるものだったのだ。」

 悲しみにつかりながら、光源氏が訪れれば笑顔で迎え入れる。

 いじらしい明石の娘に、知り合って長くなるほど情けを感じはするものの、光源氏の心は若紫で占められていた。

 何度も詰めて通えば、若紫はどう思うかと思うと、明石の娘に深入りする気になれない。

 ただ一人きりで過ごしがちである。

 絵をかき集めて返歌を求めるかのような和歌を書きつける。若紫が見ていたら、素晴らしい返事を返してくれているだろう。

 京都では若紫が、退屈をしのぐため、同じように絵を集めては、自分の身辺で起こった出来事を報告するかのように書きつけていた。

 若い夫婦は、明石と京都に離れても、やることが同じなのだった。若紫は光源氏が育てた彼の娘でもあるのである。



 そのころ都では、朱雀帝の息子が二歳になろうとしていた。右大臣を失った右大臣家の勢力は強くはあったが不安定で、別の大臣の娘である承香殿の女御の生んだ皇子しか、後継ぎがいない。あれほど大騒ぎしながら差し上げた朧月夜は、結局皇子を産めなかったのだ。そして帝は眼病を患い、中心だった右大臣はなく、光源氏一派の排斥運動があまりにも強引だったため、右大臣家の没落ははっきりと形を取り始めていた。


 潮時だった。

 光源氏は次代の政治の柱である。呼び戻さなくても冷泉が位につけばやがては戻ってくる。今のうちに冷泉皇太子に位を譲り、頭を下げて、冷泉の皇太子に2歳の皇子を据えてもらうべきである。しかし弘徽殿の女御がいう事を聞かない。

「あたしの目の黒いうちはあのならず者を都へ戻してなるものか。」

 彼女は持ち前のヒステリックな声で叫んでいたが、しかしその声はだんだん小さくなり始めていた。医師も匙を投げる原因不明の病に弱って、祈祷も薬も効果がなかった。権力の基盤であるはずの息子の朱雀帝は視力が弱っていく一方で、これも祈祷も薬も効果がなかった。彼さえしっかりしているのなら、朧月夜に皇子が生まれるまで待って、冷泉の帝位をうやむやにすることも、形だけのものにすることもできるのであるが、目の見えない帝になってしまったら、長く帝位についていられるものではない。



 ついに光源氏に「都へ帰るように」という宣旨が下った。

 二年前の三月に須磨に来てから足掛け三年、明石の娘を妻にしてから一年がたった七月のことだった。



知らせが届いた日、明石の入道は夜通し宴を開いて深々と光源氏に頭を下げた。

「誠におめでとう存じます。」

「うむ。」

 光源氏はその頭を見ながら、本心かどうか危ぶんだ。光源氏が都へ帰るという事は、明石の娘と別れるという事でもある。心底ほれ込んで一時も離れていられず連れて帰るというほど、愛してはいなかった。入道が嘆いているのは本当だが、本心だった。光源氏には都へ帰り、役職について偉くなってもらうほうが都合が良いのである。別れるといっても縁が切れるわけではない。ちょうど一月前から、明石の娘はつわりが始まり、妊娠は間違いなさそうである。それが男でも女でも、子供の少ない光源氏が、おろそかにするわけがないとにらんでいた。



 晴れて許された彼は、今では毎日明石の娘のもとに通う。もう女性がいるとわかっても咎められることはない。京都から迎えの者たちがやってくるので、それまでの間である。

 人目のない夜更けになってから訪れて、明け方になる前に帰らなくてもよくなったので、明石の娘の顔を見ることができる。

(予想以上に美しい姫だ。もっと早くにわかっていれば、もっと通ったのに。)

 


最後の日、今は琴の演奏会をする余裕もできたので、光源氏は秘蔵の7弦の琴も持って行き、弾かせてみたが、その腕前も予想以上だった。

 あこがれの藤壺も琴の演奏では名人で、光源氏はその演奏に並ぶ人はいないと思っていたが、しかしそれは当世風で、聞く人の心に何かを思わせる演奏だった。明石の娘の「延喜の帝より3代伝わる」という演奏法は、ただただ音が研ぎ澄まされて、妬ましくなるほどのよさだった。それも光源氏がもっと聞きたいと思うところで、明石の娘はつつましく演奏をやめた。そこも心憎いところである。


(もっと早くに演奏させておくのだった。知っていればもっと聞けたのに。)

 光源氏は心行くまで明石の娘と別れを惜しんだ。明石の娘は光源氏はもう戻ってこないものと、思っているようである。彼が何をささやいても、うっかり信じたりしなかった。

「かきつめて 海人のたく藻の 思いにも 今はかひなき 恨みだにせじ

(かき集めて 海人の燃やす藻の もの思いにも もう今となってはしてもしかたない 恨みさえしようと思いません)」

 彼女は光源氏の歌に答えて、そっと歌をつぶやいた。


「その琴は形見に手元に置いておくがよい。また会える日が来るまで。」

 光源氏は秘蔵の琴を明石の娘にやった。

「なおざりに 頼めおくめる 一言を つきせぬ音に かけて忍ばむ

(どうでもよいとお思いになりながら 頼みにせよとおっしゃる 一言を 尽きることなく 私は忍ぶことになるのでしょう)」

 明石の娘は独り言のようにしてつぶやく。

「そんなことはない。琴の音が変わらないように私たちもまた必ず会うことになる。」

 光源氏は熱心に約束した。その日に都へ立つのである。


 深入りしている光源氏を、お供の人びとは、「またいつもの癖がお出になったな。」と噂している。気に入るとしばらくの間熱心に通い詰めるのだ。

 面白くないのは良清である。彼は、光源氏が飽きたら自分の番が来ると思っていたが、明石の入道の「光源氏執着」は全く衰える気配を見せず、明石の娘は妊娠している。おまけに光源氏はいつものことで一過性なのであるが、明石の娘に熱い愛情を示している。これにあてられたら女性は忘れられないのである。

「通える時にはほったらかしにしていたくせに別れるとなったら熱心になって罪なことだ。」

 彼はぶつぶつ言った。

 

 京都から迎えに来た人々は、光源氏が朝熱心に手紙を書き、出発間際まで家の方を見ては歌を詠んだりため息をついたりしているのを見て、「長い間住んだお屋敷だから愛着が出たんだな」とこそこそ言い交していた。


 いよいよ都に向けて立つ。

 明石の入道は万端出発の準備を整えていた。

 光源氏は言うまでもなく、お供の青年、下働きの者に至るまで、付き従う人々の道中の着物を用意していた。光源氏はその手際に感心した。まるで気が付かなかったのだ。


 彼は用意された見事な直衣にすぐ袖を通すと、来ていた服の方をたたませて明石の娘に形見として歌をつけて届けさせた。光源氏の得も言われぬ香りの染みついた着物である。きっと着物を抱きしめて泣くだろう。明石の娘がどう思っていようと、光源氏を慕っている限り、完全に見捨てるつもりはない。彼はほかにも着慣れて香りの染みついた服をすべて残していった。忍ぶよすがになるだろう。すぐに呼び寄せるつもりはない。都に屋敷がない娘を引き取って屋敷に住まわせるとなると、妻扱いにするのか女房扱いにするのかで、複雑な問題が起こるからだ。そしてそれを解決策を考えるのが面倒くさいのだ。しかし何年も待てるだけの愛情があるなら見捨てたりはしない。


 明石の入道だけは、光源氏の見送りにと、ついてくると言ってきかなかった。実際道中ついてきた。

「世を捨てた身の上ですが、今日のお見送りに参らずにはいられません。」

泣いているのでお供の人びとの失笑を買いながら光源氏に追いすがる。

「心の闇は迷いやすいものです。国境までだけでも。」

「僧侶の身の上でこんなことを申し上げにくいのですが、もしも思い出されることがありましたら、娘にお便りを送ってくださいませ。」

 光源氏の顔を盗み見ると、彼の眼もとは泣きはらして赤くはれあがっていた。明石の娘との別れが悲しいのだ。とはいえ、泣いているからといって捨てないという事ではないことは、入道にもわかっている。むしろ泣いているということは、もう会わないつもりだという事の証明ではないのか?丁重な言葉の下に隠れた入道の恐怖は光源氏にも伝わった。

「私の心はすぐにお分かりいただけますよ。子供もあるのに、見捨てたりなどいたしません。ただ、住み慣れた屋敷が懐かしいだけでね。」

 光源氏は色っぽく涙をぬぐった。

 その一つ一つの魅力が、入道の恐怖と不安をかきたてた。

 この期に及んで入道にリップサービスをするとは、道中の着物を用意したことへの返礼だろうか。もう娘を捨てるつもりなのではなかろうか。光源氏の子供がいても、政界に出られず日の目を見られないのでは、乞食の子と変わりない。

 入道は一層の涙にくれながらよろよろと家に帰った。


「そもそもあなたがこんなことを思いつかれたときにわたくしがもっと反対しなかったのがいけないんです。あの方はよくないと思っていたのに。」

 家に帰ると妻がぶつぶつ言う。

「娘は?」

「泣いてばかりです。」

 明石の娘はやり場のない恨みと光源氏の恋しさに耐えかねて、寝付いてしまい、休む間もなく泣いていた。

「泣くんじゃない。縁起でもない。」

「こうなることは最初から分かっていたではありませんか。」

「バカなことを言うな。おなかの子供があるのだ。お見捨てになるはずがない。薬を飲んでしゃんとしろ。」

 そうはいうものの光源氏をそれほど信用できない入道は、呆然として壁に寄りかかり、娘の方を見ているばかりである。

「長い間こうなることを願ってまいりましたのに、いざ思いがかなうとどうしてこうも苦しいことばかり続くんでしょう。」

 妻と乳母はぶつぶつ言い交わしている。

 

自責の念、後悔の念が一番強いのは入道だった。

 自分で言い出したことなので撤回も謝罪もできないが、彼は昼間寝て夜起きる昼夜逆転の生活になってしまった。夜は夜で勤行に励むが、数珠のありかも思い出せず、手を合わせてぼんやりと天井を眺めるありさまである。弟子たちは気の毒がった。

 念仏を唱えながら歩いているときに転んで足を踏み外して水路に落ち、腰をやられた入道は、ついに寝付いたが、病気がかえって彼を元気にした。気がまぎれると、自分の状況がはっきりと見えてきた。

 光源氏があてにならなかったとしても、この大望は進めるしかない。

 とにかくまずは娘に無事に子供を産んでもらうことだ。そして、その子を何とか光源氏に認知してもらわなければならない。光源氏はおそらく迎えには来ない。それならこちらから赴かねばならない。

 京都に行って光源氏を迎えようと思えば、何よりも必要なのは財産である。

 明石の入道の野望は、第2フェーズに突入した。

 これからは娘を教育するためでなく、京都に光源氏にふさわしいサロンを作るために、財産を注入していくべき時に来たのだ。




 光源氏は帰りに難波に寄って住吉神宮にお礼参りをした。

 そしてそのあとは駆けるようにして京都へ、そして若紫の待つ二条邸へと帰った。


 光源氏一行も、屋敷の者たちも、皆夢のような心地である。

 ついに長かった不遇を耐え抜き、春が来た。光源氏の時代が来たのだ。


 若紫は光源氏がいなければ生きているかいがないと思い詰めながらも、生きながらえたことを心からよかったと思った。

「前よりもきれいになった。」

 光源氏は若紫をしっかりと抱きしめながらささやいた。

「大人になった。すこし髪は減ったようだが、前はうるさいくらい多かったのでちょうどいい。」

 若紫は涙ぐみ、また共に暮らせることを心から感激して喜んでいた。

「もう心配しなくてよい。またこうして共に暮らせるのだから。」

 若紫を慰めながら、光源氏の脳裏を、田舎の従順で美しい娘の面影がよぎる。

(でももうあの明石の娘には会えないのだなあ。)

 若紫が恋しかった時にはろくに思いもしなかったが、こうして若紫にしっかり会えるとなると、たいして悪い娘ではなかった、長所が思い浮かびあがる。手紙のやり取りもうまいし演奏も上手で性格は忠実そのものである。浮気相手にして申し分なかった。呼び寄せてもいいが、子供の処遇が少し難しい。

(母親の身分があまりにも低すぎる。祖父が大臣とはいえ、一介の僧侶の娘とは。

 私の子供はぜひこの若紫に産んでもらいたい。)

 光源氏はしばらく子供のことは時間を置くことにした。

 その間に若紫に子供ができれば、無理して引き取ることもないのだ。

 若紫に子供ができて、地盤が固まってからなら、もちろん自分の血を引く子供なのだから、悪いようにはしない。子供は何人いてもよいものだ。経済的な負担は大きいかもしれないが、政治的に役に立つ。


 明石の娘のことを思い返して話したりすると、若紫は愛くるしいこと並びない顔でふくれっ面を作ってすねる。

「忘らるる 身をば思わず 誓いてし 人の命の 惜しくもあるかな

(右近:忘れられた 私の身の上はどうでもよいのですが 誓いを立てた あなたが神罰を受けて死なないかと 心配です)」

 光源氏に聞こえるようにつぶやく独り言も、ハートにきゅっとつきささる。嫉妬する様子がまたかわいらしい。

「まったく何年もの間どうやって離れていられたのだろう?」

 若紫との人生が須磨と明石にいる間奪われたと思うと、薄れかけていた恨みも再燃しそうである。これからは仕返しの時が来た。弘徽殿の女御にくみした者どもを干し、逆境にもめげず付き従ってくれた者たちを優遇する時間が来たのだ。



 光源氏が若紫との再会を楽しんでいる間、朝廷は光源氏の意を汲んで動いた。

 まず光源氏はもとの大納言に復権。除目の時期ではないが、「権」大納言として、定員外の大納言に任ぜられた。そのほか、光源氏にくっついて須磨・明石と仕え続けた若者たちも、位を取り返すか、同等以上の役に任ぜられた。これで晴れて社会的地位を取り返した。不遇の時代を過ぎて、彼らの家族も沸き返って、枯れ木にまた花が咲いたかのように喜んでいる。


 続いて内裏から呼び出しがある。

 光源氏は立派な衣装で参内した。

 枯れた雰囲気が添ってより魅力の増した光源氏を、桐壺院のころからいる古い女房達は、涙をぬぐいながら見守る。

 気の弱い兄の朱雀帝は、体調が時によくなる合間を選び、特に衣装を選んで腹違いの弟に会った。

 干していた当事者としては気まずいことこの上ない。気を遣いながら場を明るくするように話題を選ぶ。光源氏もこの兄だけは自分を悪く言わなかったことを覚えているので、特にいじめたりはしない。

 二人は夜更け過ぎまで語り合い、夜になった。


「最近は私の病気や身辺に暗いことばかりが多いから、管弦の遊びも開いていない。あなたの琴の音も、長い間聞いていないね。」

 美しい十五夜の月が空にかかるのを眺めつつ、光源氏はつぶやいた。

「わびしい海辺で三年…。」

「父を共にする皇子の二人がまた出会えたのだ。春の別れの恨みを残さないでもらいたい。」

 光源氏を見つめる朱雀帝のまなざしは誠実そのもので、血を分けているだけあって、光源氏の美しさの片鱗を月光の中に浮かび上がらせている。恨みをとやかく言うのははばかられた。

 

 桐壺帝の供養の八講を行うことを、復帰第一の仕事とすることを朱雀帝に報告してから、彼は実は我が子の冷泉皇太子に会いに行った。

 冷泉は珍しいことなので大喜びしている。

(ずいぶん大きくなったし、漢学もよく学んでいるようだ。賢いのだな。これなら帝の座についても問題なさそうだ。)

 光源氏が十九歳の時の息子なので、まだ九歳とちょっとにしかならないが、関係ない。これだけ大きければ飾りの帝にするのに十分である。

 この後は藤壺に挨拶に行く番だと思うと、光源氏の胸は騒いだ。



 都についてから、彼は女性たちに手紙を送った。

 明石の娘にも忘れない。というのも、明石からついてきた使用人たちが帰るので、遠くまで送ってきたねぎらいも込めて、少しは返事を持たせないわけにいかないのである。


「嘆きつつ 明石の浦に 朝霧の たつやと人を 思いやるかな

(あんまりあなたが嘆くので 夜を明かした明石の浦に 朝霧が たっているのではないかとあなたを 心配している)」


 傲慢そのものに思えるかもしれないが、明石の娘との身分差と、あの従順な性格を思えば、これは的を得た心配なのである。


 別れていた恋人たちにも、いまだにつながっている者には、順々に通う。

 光源氏が逼塞しているときに恋文をよこした「五節の舞姫」からも手紙が来たので適当に返事をしておくが訪れはしなかった。

 誠実に待ち続けていた花散里さえ、手紙だけでほおっておかれて寂しい思いをしていた。

 

 光源氏は今は若紫だけで心が満たされていた。

前のように女性遍歴に興味がわいてこない。

 やっと政治の世界に返り咲き、手腕をふるおうとしている時ではないか。辣腕をふるえることこの状況こそ、女性を攻略するよりもずっとわくわくする仕事だった。

 

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