目覚め

 障子の合間から朝の日差しが部屋に差し込む。扇情的な高揚を抱えたまま10年越の修学旅行の第一夜音も声もなく過ぎた。

最低限の荷物だけを持つと、二日目の京都市内自由観光へと繰り出した。

 「あの時行ったルートは、清水寺、龍安寺、平安神宮、金閣寺。の順だったわね。その後建仁寺で全生徒集合だった気がするわ。」

 「あぁーあったねぇ。建仁寺の座禅。僕、叩かれたの覚えてるもん。」

実に3度も叩かれれば忘れようもない。4尺2寸の警策の乾いたパシンと言う音は正確に記憶の引き出しから引っ張り出せる。

「あの禅までは今回はやりたくないわね。早速清水の舞台にまず向かいましょ。」

市内バスの一日フリーパスを片手に清水寺前で降りた。あの頃は長く、だらだらとでたらめな坂に感じていたのだが、今歩いてみると和風で雅な家々の様子や景観に目を向ける余裕がある。寺自体も来ること事態に意味を感じていた当時と違い、歴史的背景や寺の意味に耳を傾けようという姿勢が出来ていて、また当時と違った楽しみ方、感じ方を出来る。

 「ここからの眺めはとても綺麗ね。」

清水の舞台まで来た時、斗和乃はそう言い手すりに手をかけ、広がる広大な景色を眺める。其の背中を眺め、ふと疑問が頭をよぎった。

 「あのさ、今更なんだけど。なんであの時、再会した時に僕のことを分かったの。時間が経って顔貌もだいぶ違う。地元ならもしかしてとふと思うかもしれなしけど、東京の真ん中で再会するとは凄い奇跡のような偶然だし一見で分かるわけが・・・」

 口元に優しく柔和な微笑を讃えたまま彼女はコチラを振り向く。きれいな黒髪がなびき、空の明るさと対比される。それはまるで精巧な絵のようだ。その美しさに顔が火照る。

 「あ、今目の前に広がる光景が美しいと感じたわね?あなたに美しいと思われると嬉しいわ。嬉しいけど、あなたの質問に先ず答えてあげましょう、可愛い照れ顔に免じて、ね。

あなたを古い幼馴染と判断したのはたった3つのシンプルな理由からよ。

ひとつは、顔立ち。元々整って人目を引く顔であったから、忘れようがないの。鼻の形、耳や唇なんかも大きくは変化が生じないところだから此処が一つのポイント。女の子は案外と気になる殿方の顔は覚えているものよ。

ふたつめ、仕草。お手すきになった左手であなた昔から耳たぶ触るでしょ。その仕草が確信に近づく大きなファクターだったわ。

そしてみっつめ。んー、こういうベタなこと言うのは好きじゃないんだけど。乙女の勘、かしら?」

 意地悪く、黒黒とした瞳。まるでドォルのような。無機質であってそれでいて心の宿っていそうな顔。そんな顔で答える。

 「答えになったかしら?」

 「じゅ、十二分に。」

一点の曇もなく述べる其の顔に気圧されてしまう。そそくさと先に進もうとすると、足がもつれて転んでしまう。靴紐が片方千切れていた。

 「あらあら、あわてんぼうサンね。あら。足は大丈夫?」

靴紐の千切れた左足をとっては気遣ってくれる。目を見れば見つめ返す黒瞳。あたたかい温もりのようなものが心に染みる。清水舞台に演者はまるで僕達だけのよう。

その昔、この清水の舞台から飛び下りる者が後を絶たなかったという。一体どういう気持で跳んだのだろうか。悲嘆か、快楽か、哀愁か。

今、僕が。私が。飛び降りるのならそのどれでもない。それはおそらく、歓喜。

時に人を狂わせる歓喜の感情が、私を空の蒼と新緑の碧に吸い寄せられそうになっていく。



 着々と龍安寺・平安神宮を巡ったところで、お昼の時間になった。

巡る間、同窓生の知る限りの現在を話したり、当時の修学旅行ハプニング、学生時代の懐かしい出来事を話した。

クラス一の秀才、芥川君は今では医者になったとか、平野君は若くして結婚し今は二児の父だとか。

はたまた、修学旅行の一日目実は女子風呂のぞき事件があったとか、隣のクラスの宇佐美が二条城でお財布を無くしたとか。

他愛もない語りをしながら旅は緩やかな時間とともに進む。

 金閣寺の前でバスを降りた時、ぽそりと斗和乃が言った言葉を聞いた。

 「多分、あの時私たちは通じていた、のよね。」

何の話だろう。判然としない。そもそも僕は金閣寺に訪れた記憶だけやけに曖昧である。

何を話し何をしたか思い出せない。何か、何かを忘れているのだろう。

本殿が近づく毎に、右膝がずきずきと疼く。まるで思い出すのを拒否するかのように。

前に進むのを拒むように。だが、とうとう、僕達は「そこ」に着いてしまう。

金閣寺の湖畔に立って斗和乃は耳元で囁く。

 「きっと覚えてないでしょう。あの時のお話。」

お話。あの時の。どんな会話を10年前にしたんだろう。

 「ここで貴方は。私に『大人になった時も、二人でずっとこうしていられるといいね』って言ったのよ。何気なく言ったつもりでも、私にはとても嬉しかったわ。」

嗚呼、思い出した。気恥ずかしくて封印したのだ。道理で覚えてないんだ。

其の蓋を開けられて、箱の中から感情が溢れ出す。

ずっとそうしたかった。あの時のスキマ15センチの距離を、ゼロにしたい。

 「そうだ、斗和乃。僕はあの時君のこと――。」

そう思うと後ろを振り返り。僕は。ぼくは。



 「私を強く抱きしめたのよ。耳元で『好きでした。今も尚』って囁きながら」

白い無機質な部屋と、光の差し込まない窓枠。ベッドで上半身を起こしながら、その婦人は顔を紅く染めながら、側に立つ穏やかそうな男性に噺した。

 「そうなんだ、そんな浪漫あふれることを清水寺と金閣寺で演じてたんだね。」

柔和な笑顔、ぴしっと決まったスーツ姿。丁寧に揃えられた短い髪。男は朗らかに答える。

 「ユウキさんは私の若い頃の甘酸っぱい思い出を、熱心に聞いてくれるのね、最近は誰とも話すことなど無くなってしまったし、いたとしてもマトモに聞いてくれる間柄の人がいなかったから嬉しいわぁ」

本当に婦人は人と話せることが嬉しそうだ。まるで砂漠で何ヶ月も一人取り残され、漸く人に出会ったかのように。それだけ永いこと語らうこともなかったかのような程だ。

「勿論ですとも、斗和乃さんの行いや感情の動きにはとても興味がありますから。真央さんというのは、そこの戸棚の上の写真、そこにご婦人と映っているひとですか?」

若い頃の写真なのだろう、二人で笑顔のまま額に収まっている。

 「そうよ、その人が真央くん。私にとって後にも先にもない、想い人。『永遠に変わることのない人』よ」

 「それはそれは。きっと魅力的な人だったのでしょう。その旅行を記したというのが、この手記ですよね。これも真央さんの遺品ですか?」

ユウキは手に持っているくすんだ赤色の手帳を婦人の目の前で振った。

 「あらぁ、そうよ。あの人が旅行前からずっと書いていた日記ね。不思議と幻想的よね。それがどうかしたのかしら?」

無機質な城壁に反射しそうな位明るいほどの顔で返答した。その表情を見てユウキは内心目の前の婦人のことを不意にそう思ってはいけないのに可哀相だと感じた。

知ってしまったからこうなったのか、知る前からこうだったのか。それはきっと本人にももう分からないだろう。

 「金閣寺を出てからはどうしたのですか。」

 「ふふふ、その後はね――」



 僕はきっとあの時、言葉と勇気が足りなかったのだろう。そう確信した。

だからこそこうして今、二人でいられる。此の地、京都来る前よりも幸せな時間を肌身で感じる。

 「じゃあ私から、先に行ってくるわね」

斗和乃は旅館に戻るなりそう言って風呂へと向かってしまった。

今僕は部屋に一人だ。しかし今日の朝と決定的に違うことがある。昨日は気恥ずかしく感じた、彼女の匂いがなにより愛おしいということ。

ただ、何かの予感のように機能と変わらぬあの臭いが入り交じる。錆びた血と腐った脂の臭い。

そして其の予感は的中する。テレビから流れる不吉の報。

 「昨日に引き続き京都市内でバラバラ遺体です。清水寺で左足、金閣寺で左腕が発見されました。昨日発見された右腕右足と同一人物のものと思われ、身元の確認が急がれます。」

 やはり。やはり。僕達の訪れた場所場所に遺体。偶然とは思えない。まさか。

バラバラ殺人の犯人は、あの女性(ひと)なのだろうか。

僕は現実を疑った。疑いの心が有りもしない妄想を描く。

此の血と脂の臭い。昨日今日僕が一緒に過ごした斗和乃は現実なのだろうか。少なくとも僕が「女性」と歩いたことは事実だろう。しかし「それ」は斗和乃なのだろうか。

もしかして別の女性と歩き、斗和乃はバラ撒かれていたのではないだろうか。

 突飛もない発想が頭のなかに広がる。自分でも何を考えているのだろう。確かに彼女は斗和乃ではないか。

いや、でも待て。向こうが嘗ての幼馴染である確証は何処にあるのだろう。昔の彼女を思い出す。

ボブの髪型で活発な少女。外に出るのが好きで中性的な印象を受ける少女だった。今とは似ても似つかない。それがあれだけ可憐な女性へと変貌を遂げるだろうか。向こうが名乗ってだけの噺であり、騙されている可能性もある。

否、それでも斗和乃は斗和乃であると分かるのだ。それは彼女の言葉を模すのならばカンである。何より僕と斗和乃しかしらないやり取りを知っている。

 もう一度部屋に漂う匂いを嗅ぐ。血と油の臭い。此れは気のせいではない、彼女の荷物から昨日より強くにおう。荷物の中を探ると黒塗りの木箱が出てきた。

なんなのだ、これは。一体、一体彼女は何者なのだろう

 その時、部屋の扉が開く。風呂より斗和乃が帰ってきたのだ。

 「人の荷物の中身を見てどうしたのかしら。」

確りと、強い意志を秘めた黒黒とした瞳が此方を見る。

 「貴女は一体何者ですか。」

 「私は私、確かに此処にいる私は、黒久斗和乃よ。」

氷のような声が降り注ぐ。その声すら私には真実に感じられない。

知りたい、真実を知りたい。そのためには。

するべきことはわかっている。

 私は、思い切って。黒い木箱を開けた。

そこには――。

皮膚に黒斑が浮き始めた。四肢の切断された。常世を見ていない、虚ろな目をしている。此の僕、津王真央が入っていた。


嗚呼思い出した。

嗚呼気づいてしまった。

僕は。

私は。

この女性に。

この男を。

殺されたのだ。

創り上げていたのだった。

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