迷妄の旅果て
ひやニキ
旅路の始まり
もし。もしも自分の衝動が抑えられぬ程の感情が発露してしまった時、其の感情に従うことは「悪」なのだろうか。
そうであるなら、そうであるならばこの世界はなんと理不尽で不自由なのだろう。
それでも私は、その理不尽と不自由を踏み倒してでも、自己に内在する欲求に殉じることを選んだ。それが私の最適解であったのだから。
「・・・きて。起きて、真央君。京都駅、着いたよ。」
その声で僕、津王真央はゆるゆると目を覚ました。
僕は今、幼馴染の黒久(くろひさ)斗和乃と京都の旅行に来ている、とは言え本当にただビルの蔓延る魔の森、東京の片隅で偶然出くわした残念ながら文字通りの幼馴染だ。況してや新婚旅行でもデートでもない。
其の偶然に当ってしまったせいで遠出をする羽目になったなぁ、と思ったのが最後、顔に出て斗和乃に察されたらしい。
「ふふっ、偶々再開したのが運の尽き、いや運が付いていたのほうがいいかしら。こんなことでもないと遠出する理由にもならないでしょ?」
最もであり仕返す単語すら口から飛び出さない。
そもそもの発端は夏も始まる御徒町。街行く理不尽な激務ですり減った背中達を尻目に自宅へ直帰しようとしているところで、ふらりとコンビニに立ち寄り酒を買いたくなった。
その時に、
「ねぇ、もしかして真央くん?」
振り返るとそこには見ず知らずの人がいた。肩くらいの黒髪、慈愛を讃えたような柔和な瞳、そしてその評定に似合う可愛らしいフリフリの白の服に、黒のスカート。こんな精巧なドールのような美人、記憶も縁も無いのだが、それでいて何故か懐かしさを感じる。
それこそが一番の幼馴染にして、僕の初恋の――斗和乃だった。
その後バーで二人で懐かしい話をして意気投合。10年越に京都の修学旅行の足跡を辿ろうという話になったのだ。そこから先は酒が進みすぎたのか、覚えていない。覚えていないがそれがつい先日であることは理解している。
そこから気づくと僕は新幹線の中で揺られ、至って普通の二人旅であった。窓から見える景色を横目に、当時とは見違える程可愛くなった幼馴染との遠出。
ただ一つ不思議と変わっていたことは、車内販売の売り子に二人分の駅弁を注文したところ、
「お弁当2つもお腹に入るなんて凄いわね~」と柔らかく微笑まれたことだろう。
斗和乃は文字通り人形のようである。それを売り子も確認しながら述べてたことを鑑みると、2つとも僕の分と誤った推測をされたのだろう。僕らは顔を見合わせ、くすりと笑った。
9時半にもなる頃。僕達は京都駅へと到着した。十数年前と同じ時刻だ。
電車を乗り換えそのままその手の筋の人にはたいそう好まれそうな場所、伏見稲荷大社に向かう。
その道中斗和乃が
「ねぇ、修学旅行の時の班分け。覚えてて?」
と両手のひらを胸の前でパンと合わせ、まっすぐな瞳で尋ねてきた。
「そりゃあね。板倉タカヒロ、佐竹ノブユキ、槇本エリ、高幡ミユキ、そして僕らだよね。そう言えばみんな何しているのだろう、一部はつくばに残ったのかな。とても気になるなぁ。」
「そうね、聞いたことだけど、佐竹君と牧ちゃんは結婚したらしいわ。あの頃から仲良しだったから当然の帰結かもね。丁度あの時将来の話をみんなでしていたわね。」
そうだったか、否そうかもしれない。長い長い幼馴染の僕達がどうなるか茶化された、ほんの一瞬の出来事に記憶に色がついたと同時に、僕の頬もほんの一瞬色づく。
「思い出した?あの頃からよく言われたわね。私はね、真央くんは勉強もスポーツも万能だったし、将来きっと凄いことしちゃうか、女の子に沢山言い寄られたりして、10年あるいは5年もしないで私の事忘れちゃうかもって思っていたの。」
「褒めすぎだよ。確かに勉強はしていたけど、完璧ではなかった。もし今言ったように君の目に映っていたなら、それはきっと長い時間の中で美化された僕だ」
「あら、そうかしら。十分魅力的だったわ。勿論今も。」ウィンクしながら軽快に言葉を返す。僕の頬の色づきは一瞬ではなくなった。
伏見稲荷に着くと彼女は僕の右腕を引いた。
「早くいこ!狐さんの場所だよ!鳥居が沢山あって神秘的なんだよ!来るだけで本当にドキドキするなぁ・・・身に覚えない?貴方が当時言った言葉よ。」
片目を閉じ、ぺろりと下を出しながら意地悪く言う。
「よく覚えているね。僕はどこに行ったか、その記憶をなぞるだけで精一杯だよ。」
――否この時だけは嘘をついた。つい手を引いた時ハッとして内心ドキドキした感覚は何年経とうと僕のこの手に、この胸に遺り続けていた。
あぁ、そっか。この旅はあの頃の即席をたどるだけでなく、同時にあの時できなかった選択肢を選ぶチャンスでもある、そのことを心の片隅で幽かに感じた。心なしか、昔より距離が近い。約15センチ、すぐ隣について歩くものの、僕はそれ以上の距離を詰めることが出来なかった。
一日目午前の旅先は、当時の流れのままにサラッと撫でるよう伏見稲荷を歴史ガイド付きで見学した。伏見稲荷に関わる研究内容の説明が若干変化していることに、変わりゆく歴史研究の歩みが見える。さてその後は自由時間、付近の神社を数社廻った。鬼法尼寺、荒木神社と、案外伏見稲荷以外にも多くの目を引く神社があるものだ。
「さぁもう一箇所廻るわよ、午後は桂離宮だったかしら。そんな記憶があるのよねぇ。」
そうだ、そのとおりだ。佐竹が足を滑らせて右足から池におちたのだから忘れようがない。
そんなインパクトある思い出の地も、この年齢になってゆっくり観光してみるといやに落ち着く場所なのだと認識する。
木々の生命力ある翠が、水面に反射して眩しい。
その時、ふと斗和乃の腕を取ってひこうとしていた自分に気づく。何をしているのだろう、あまりにも旅心地に浮かれてどうかしてしまったのだろうか――その瞬間。
僕は、あの時、ヤツが滑った場所と同じところで、右足から水面に落ちた。
宿に着くまで斗和乃はそのことでくすくす笑って馬鹿にしてくるばかりであった。正直ちょっと理不尽である。
宿については当時と同じ宿に宿泊したかったが、既に主人が亡くなっていたのか、閉館していたため、太秦土本町、本端寺前に宿をとった。
このあたりは古墳もあり、肥沃な土地なのだそうだ。
ただ、宿という点に関して決定的に違うとするなら「今回は相部屋である」ということである。
此ればかりは仕方ないことといえ、漂う明確なぎこちなさを肌身で感じる。
「私は、その、浴場行ってくるわね。」
少し上ずった声を発声しそそくさと部屋の扉を閉めた。
一人きり、残された部屋を見渡すが彼女の「いた」香りが鼻腔の奥をくすぐり、落ち着かなさを増幅する。
あまりにも緊張の波が高まった僕は気を紛らわすため眼前にあったテレビのスイッチを、ただ押した。
その行為は、気恥ずかしさを緩和する点に於いては正しく、またある意味では肝を冷やし意気消沈させる点に於いて間違った選択であった。
「今日の昼頃、伏見区の荒木神社にて人の右足が。桂離宮では同一人物のものと思われる片腕が遺棄されているのが発見されました。白昼堂々と行われたこの犯行について、猟奇性の高さから警察は怨恨の線から捜査しており、身元の特定を急いでおります。」
昼の伏見稲荷と桂離宮。僕達のいた場所と、時間。ただゆっくりと過ごす人がいる一方で血生臭い時間を送る人があの場所にいたのだ。
旅と殺人、2つの非日常があの時すれ違った。もし、もしである。2つの非日常が交錯していたら、どうなっていたのだろう。
僕達も手足をあの場に置いていくことになってしまったのだろうか
ふと、部屋の匂いを吸い込む。芳しい畳の匂いと、そして血脂の臭いが脳髄を直接刺激している。何故かそんな気がした。
あぁは言って部屋を出たものの、直ぐに浴場に行く気にはなれなかった。特に大きい理由があるわけではない、強いて言うなら少しだけ一人になりたかったのかもしれない。一人になるメリットは2つ。1つ、度に出た感慨深さを感じられる。2つ、旅を通じて当時の記憶と、今尚仄かに香る想いを想起する時間が出来る。
時間、か。それは不可逆に進む不条理。その中で私は私が怖いとしたら、忘れ去られていくこと。消えていくこと。此の時間の流れの中で脆く風化し貌も記憶も崩れ去る。それは私に訪れる必然であり、その必然が私を堪らなく恐怖させる。
その点を鑑みるとやはり真央くんは手に届かない、流れる時間の中でも変わらずに精巧で完璧な存在であることを感じていた。初恋の躍動感、人を好きである気持ち・時間、そしてどこか一人占めしたいイタズラな欲求。
いわば私に乙女を芽生えさせた「瞬間」は10年前のこの地だった。
故に私はこの旅に誘った。やや強引ではあったものの、それでも彼は旅行に来てくれた。あぁ、ただそれだけでも嬉しい。
心にまるで栄養を蓄えた花の蕾が膨らんでいくような、斯様な姓名の躍動に似た気持ちが膨らむ。
その蕾も耳に入ってくるニュースにより膨らんだそばから萎れていった。
「京都市内の観光地敷地内で切断された遺体が見つかった事件についてですが――。」
私達の時間と場所を。穢す輩があの場にいたのね。その事実が私にとって忌避すべき事象で、又或いは神聖な思い出を穢す憎悪の対象にも感じた。汚点という言葉がふさわしいかな。
汚点。あの人に穢れはない。あってはいけない。なのに、何だろう、この胸のざわめきは。
脳裏にイメヱジが浮かぶ。黒々とした中に光る、一筋の白。
ゐつ見たのだっけ、思い出せない。何故かとても頭が痛む、でも。その一筋の白が、黒に落とされた一点の白が許せなくて。許せなくて、私はどうしたんだっけ。
そこで意識がハッとする。変わらず、テレビは切断遺体のニュウスを流してゐた。どうやら桂離宮で見つかった腕は火葬されたように焼け落ちているらしい。
にしても、腕ねぇ。腕を引いたあの時、引いた真央くんの腕は冷たくてひんやりした気持ちよさがあったのを思い出した。どこか固く緊張してぎこちない人の手。
あぁ、あと少し。今も昔も。隣に並ぶほんの15センチに満たない距離を詰めてしまえば幸せだったのに。
年甲斐もなく、まるで女学生のような照れ方をする。乙女心と秋の空とはよく言ったものだけれど、自分でもテンションが上下左右縦横無尽にコロコロ変わっていると思う。
さぁ、そろそろお風呂に行こうかな。冷えた腕の感覚と落ち着かない秋空を清めに行こう。
その夜に私は風呂の硫黄と鉄の匂いを肌身で感じながらゆっくりと祓いのひとときを過ごした。
その日の夜はゆっくり、刻々と更けていった。
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