アリとキリギリス伝説

織部健太郎

アリとキリギリス伝説

 彼がうちを訪れたのは風に雪の匂いがしはじめた頃でした。


「こんばんは、夜遅くにすみません」

 暖炉を離れ、戸を開けると背の高い見慣れない方がいました。

「こんばんは。はて、貴方はどなた?」

 彼はコートの首周りを右手でスッと締めて、

「僕はキリギリスです。楽師をしています」

 彼は左手に提げたくびれのある黒い鞄を見せました。

「ほぅ、楽師さんですか。さぁさぁ、寒かったでしょう。お入りなさい」

 彼を暖炉の前に通して毛布を一枚と、温かいスープの入ったマグを渡しました。

 ひとくち、ふたくち、ゆっくりと身体に染みこませるように彼はスープを口に運びました。

「ふぅ……あたたまります」

 私はもうひとつ椅子を引っ張って来て、

「キリギリスさんは見慣れない御姿ですが、どちらから?」

「私は北のほうにある中央公園から来ました」

 彼はスープをもう一口すすります。

「なんと、中央公園ですか。都からではこのなかよし公園はさぞ遠かったでしょう?」

「そうですね、想像以上でした」

 彼のマグが空になったのを見て、もう一杯いかが? と聞くと、彼はもうしわけなさそうに、でも、嬉しそうにマグを差し出しました。

「車道もあったのでしょう?」

「はい」

 一言で一度言葉を切って、スープを一口、

「ありました。大きな通りが六つほど、でしょうか。車が怖いので夜に渡りましたよ」

「勇気がおありですね。私達には、ちょっと無理です」

「僕には、頼りないですが羽がありますから」

 彼はちょっと照れて背中をさすった。

「こんな遠くまでどのような御用事で?」

「この辺りの公園に、英雄的なキリギリスの物語があると聞きまして、それで一曲だけでも弾き語りたかったのです。御存じないですか?」

 私はちょっと考えて、

「すみません、私はちょっと」

 キリギリスは遊び人でぐうたらだ、と聞いた事があったので、何かの間違いだと思ったのですが、彼は話とは違う雰囲気でしたからそれには触れませんでした。すると、

「そうですか」

 彼はひどく落ち込んだ風でしたので、

「もう雪も降りますし、うちでよければここで冬を越されて、また探すのもいいと思いますよ」

 彼は何か苦しそうな表情を見せましたが、

「ありがとうございます、御世話になります」

 と丁寧にこたえ、お辞儀をしました。


「キリギリスさんの歌って素敵ね」

「バイオリンも逸品だよ」

 あれから四日、昼の暖かい日が差している頃を見計らって、彼は広場でアリの仲間達に歌と楽器を披露してくれました。その年はどの家も年越しの蓄えも少なく、皆疲れた顔をしていたのですが、彼の演奏を聴いている時だけは違いました。

 でも、うちを出る時必ず一瞬寒そうに震えるので、さすがにその日は止めたのですけれども、結局その日も皆を楽しませたのでした。

 私は帰って来た彼を奮発した食卓で迎えて、

「キリギリスさん、今日は食べてもらえますよね?」

「いえ、泊めていただいているのに、大切な御飯まで御馳走になるわけにはいきません」

「毎日そう仰いますが、大丈夫。たくさんありますから、どうぞ遠慮無く」

 彼はぐぅ、となるお腹を押さえて、

「とても嬉しいです。でも、実は僕、お肉を食べられないのです。ですから、お気持ちだけいただきます」

「え、それでは何をお食べになるのです?」

「葉っぱとお野菜なら」

「そうなのですか。では、冬眠はすぐなのですね」

 彼はちょっと考え、

「そうですね、今夜辺りそうさせてもらいます。御迷惑かと思いますが」

「迷惑だなんてそんな事ありませんよ。おやすみなさい、いい冬を」

「はい、おやすみなさい」


 彼は次の朝、亡くなりました。初雪が降った静けさのしみる朝でした。キリギリスさんは冬眠をしない、と知ったのはその後すぐです。

「キリギリスさん」「キリギリスさん」

 皆が悲しむのをみて、

「私達を元気付けてくれたキリギリスさんの事を忘れないように、本に書いて語り継ぎましょう」

 皆無言で頷くのでした。

 その冬はキリギリスさんの残してくれた身体もあって、皆無事に冬を越す事ができたのです。


 *


 私は長く伝わる背の擦り切れた本を閉じました。

「ここがあの伝説の公園だったのですね。御話を聞けて、はるばる来た甲斐がありました」

「そうですか、私達も旅の方にはいつも喜んでいただけて嬉しいです」

 旅の楽師さんに暖かいスープの入ったマグを渡し、一言つけ加えます。

「葉っぱもお野菜もたくさんありますからね」


 了


2007/09/01

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アリとキリギリス伝説 織部健太郎 @kemu64

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