立派な悪魔になりたいのっ!
織部健太郎
立派な悪魔になりたいのっ!
あまりにも、彼女はあまりにもダメなのだ。
「アンタさぁ、やめちゃいなぁ。向いてないって今の配置」
「でも、ほら、あれでしょ? えっと……その……ほらぁ、ね?」
魔界一と誉れの高い〝喫茶るしふぇる〟で娘がふたり、お茶している。どちらもなかなかの容貌だ。
転職を勧めたほうは美人系でおねえ系で背の高い細身の娘、着こなしが難しいレザーファッションも実に板についている。その様相から魔界検定四級程度であれば、
「ワタシんとこ来なよ。鞭もってさぁ、『キリキリ働けぇーい! 暗いじゃない? 暗いでしょー!』って叫ぶだけでいいんだよ? 楽なもんだって。アンタにだって勤まるよ」
容易に人間発電所の職員だとわかるだろう。
「でも、あたしは営業したくていろいろ頑張ったんだよ? あたしは人を不幸にする立派な悪魔になりたいの」
こちらは相方とは対照的に可愛い系で妹系で背が低い。唯一細身である点は同じかも。
灰色のダッフルコートは営業職のトレードマークなのだが、魔界随一と謳われる景勝〝緋流山渓谷(特一級溶岩性河川認定)〟を望むこの喫茶ではやや浮いて見える。営業職にはこれとは別に、白いブラウス、黒いサテンベスト、蝶ネクタイに黒いキュロットといった支給服もあるのだからここに来るならそっちがよかったんじゃないだろうか。まぁ、彼女はそういう抜けた娘なのだ。
「頑張ったって何を?」
〝シャーリーマークツ(ノンアルコールカクテル)〟の縦長グラスをすーっとなぞり、レザーの彼女は頼りなさげな相方へ目を送る。そんな他愛ない仕草にもそこはかとないけだるさを含ませる彼女は、脚の組み方からしてセクシィ&クールだ。
「大学でもちゃんと専攻したんだから。――拷問術基礎のAとBでしょ。空言術基礎、ダメダシ術基礎、篭絡術基礎、それに通信で居留守選科も。それから、それからさぁ……」
思わずもセクシー娘は指折り数えるダメ娘にため息が出る。
「ちょっと待って。アンタのそれって全部基礎じゃない。それにさ、試験だって赤点ギリギリだったんでしょ? 単位ヤバイって言ってたじゃん」
「そんなことないよ! 駄料理術はダントツトップの成績だったんだから! まずい料理を〝作らせる腕〟は魔界一なんだから!」
目に星を入れ力説する彼女に相方も僅かに怯む。だが意外だ、この娘にひとつだけでもとりえがあったなんて。
「アンタ自身の料理も魔界一まずいじゃん」
「そ、そんなことっ! ……ちょっと……あるけど……」
妙に納得……うん、なるほど。
ダメっ娘は、気まずさを誤魔化すように〝極吟醸真冬のサンゴ礁(度数九八%)〟をこぼれないよう水面張力の裾から呑んだ。こちらはまさかのコップ酒である。
「アンタ、よくそんなの呑むね」
「え? おいしいよ?」
水位がコップ九割五分ほどに下がったあたりで手に持ちひとくち。そのひとくちでさらにコップ半分になる。
「ほら、おいしい」
「知らないって」
意外にも結構いける口だ。酒呑みはわからん、と下戸の相方が首を振る。それでもとめないのは迷惑な酒癖がないからだ。
「そういやさぁ」
ふと、カクテルグラスを回し思い出したことを口にする。
「アンタ、今日なんか用事あるんじゃなかったっけ? 総督府にどうの、とか」
「うん、そう……実はね、ミスしすぎちゃって……異動……かも……」
酒豪のダメっ娘は急に萎れてしまった。対して相方は無糖缶コーヒーほどの微妙な苦さで緩む。
「知ってる。有名すぎて誰でも知ってるよ。あんな事やこんな事、狙ってやったんじゃなきゃあ、それはそれで才能かもね。――ま、悪魔のじゃないと思うけど」
「でも、宝くじで鈴木さんが一等当てちゃったのは、あたしが操作した直後にイリーガルな人が一枚買ったからだし、スミスさんが大発明しちゃったのも、実験が失敗するように薬品のラベルを書き換えた後だし……」
「だからアンタじゃん。やっぱり」
「えぇー」
駄々のコネ方はまるで小学生である。
「えぇー、じゃない。だからワタシは言ってるのよ、アンタ外勤向かないんだからこっちおいでって。こっち来たら案内するからさ。うちの地下食堂もなかなかよ? Qランチはタコ刺しがでかくてお勧めかな」
「あたし、タコきらーい」
「あ、そう。――んで、大丈夫なの?」
とはいえ、ふたりはやはり親友のようで彼女も急に心配そうな顔になる。持つべきものは友、というわけだ。これは魔界であっても変わらない。
「どうなるかなんて、そんなのわからないよ」
「あ、いや、時間なんだけどさ。まだ大丈夫?」
「大丈夫。一時だから」
危なっかしい親友にふーんと返し、彼女は自分の腕時計をちらりと見た。
「んっ? ……ってちょっと! も、もう一時半だけど!」
テーブルを揺らし縦長のグラスまで倒しそうな勢いで身を乗り出す。グラスの淵がぐるんと円を描きコトンと戻った。
「なに言ってるのー。まだ十二時だよ。ここから魔鉄で十五分だし。ほら……あ、れ? ごめん止まってたみたい。電池切れかな?」
悠長にも止まった時計に耳を当て、困ったなぁ、と困りポイントのずれたコトを言う。これほど高レベルなダメっ娘はそうそういないに違いない。
「ちょっ! だっ! なっ! と、とにかくさっさと行くっ! ここワタシが払っとくからっ!」
「ごめんね、お願い」
といいつつも、腰に手を当て真冬のサンゴ礁を一気に煽り、皿の分まで綺麗に飲み干してから出発した。
「あーそう、そんな感じでお願いするよ。他はそっちの御任せで。お礼に今度おごるからさぁ。――え? そこうまいかって? うまいに決まってんでしょー? 変な店にゃ連れてかないよ。俺がハズレに誘ったことある? ――だろー? だからさ、よろしく頼むよぉ。俺ンとこじゃ手に負えなくて。あっ、ごめん、今やっと来たみたいだから切るわ。んじゃまたー」
黒タキシードに蝶ネクタイ、腰まで届こうかというほど長髪の彼は、耳にかかった黒髪をかきあげながら受話器を置いた。ダイヤル式の黒電話がチンッと鳴る。執務用とはいえ倹約が行き届いているようだ。
コンコンと遠慮がちなノックがダンスホールほどもある広大な執務室に響く。大理石の床に木目の美しい壁、天井から豪奢なシャンデリアが下がるこの部屋はそれくらいに静かだ。……前言撤回、倹約するトコロを間違えている気がする。
「入れ」
さっきまでの軽薄な口調から三百六十度回転し、さらに百八十度回ったあたりの声でドアの向こうへ呼びかけた。
入って来たのはダッフルコートの酒豪ダメっ娘。人に合う前の飲酒は魔界では失礼でもなんでもなくこれに関しては常識範囲内だ。
「ま、魔王様、あの、遅れてすみません!」
この男が魔王らしい。人間ならば齢三十前後といったところか。案外若い魔王である。しかし、たぶんタダの若作りだろうと思う。なぜならば、重厚な執務机の端にはiPOTmahoがあるのだが、これの総天然色液晶画面にはグループサウンズの名曲達やジョン・レモンのタイトルが踊っているのだから見た目以上の年齢であるのは確実だ。
「遅れたのはいい」
むしろ、なにやら裏のありそうな電話をしていたようだし遅れてくれて助かったんじゃないだろうか。
「お前は研修中だな」
「は、はいっ!」
「魔界公社の営業三千七百十八課所属。勤務期間は六ヶ月と七日だな」
「はいっ! そうです!」
「……そんな大声で答えなくていい。十分聞こえている」
「はいっ! すみません! ……すみません」
肩で息をつき改めて彼女を見る。始末書ではおなじみの名前と顔だ。しかし、たったの一目で早くも彼女を理解してしまい、これまで以上に前途の多難さを呪う彼であった。
「君は、君が起した不祥事の件数を知っているかね?」
「え? えと……えと……」
指折りはじめた彼女を前に、さらなる脱力が魔王を襲う。これでは魔王も大変である。
「六十七件だ」
「そんなにありましたっけ?」
「ありましたよ」
言葉遣いもなっていない、昨今の若者はホントに、と愚痴が出るようなら立派なテンプレートおじさんなのだが、魔王陛下は幾分〝悪魔ができている〟らしくシニカルに返す。想像よりも精神年齢は若いのかもしれない。
「六十六回で止まっていれば縁起もよかった。だが六十七回では面白くない」
雲行きが悪くなってきた、と流石のダメっ娘でも気が付いたらしくあせあせと取り繕う。
「あ、あの、それだったら、ちゃんとした営業を一回して六十六回にするっていうのは……どうでしょう?」
「君ね。営業してくるのは当たり前。ミスの回数は減らない」
頭が頭痛で痛いのか額を抑える魔王、魔界でも責任者は頭痛胃痛に悩むのだ。
「半年でこれだけの不祥事を起した例はない。――であるから、君には罰を与える」
「はい……」
骨の髄からしまったーと苦い顔の彼女に魔王は無慈悲に言い放つ。
「君を許す」
「えっ?」
意外な言葉に彼女は耳を疑った。
「君を許す、と言ったのだ」
「えっ? ……えぇぇぇ! そ、そ、そんな!」
すっとんきょに声を裏返し彼女の顔からみるみる血が引いていく。
「君が起した問題数は度を超している。甘んじて受けろ」
「ひ、酷すぎます……確かにあたし、たくさん……で、でも……」
〝許す〟という行為は神や天使に属する所作であり、悪魔である彼女にとってそれは百万の拷問を百万年受けるよりも凄絶な仕打ちなのだ。いわば魔界の極刑である。
魔王は、ぽろぽろ涙をこぼしはじめた彼女を一瞥し、ならば、とM下K之助も納得の壁掛けテレビをスイッチポンした。もちろんリモコンだ。
「では猶予をやる。これを見ろ」
彼が示した画面にはひとりの青年が映されていた。画面の端には〝LIVE〟と出ているからたぶん録画ではなく生中継なのだろう。
青年はともすると〝美〟がつきそうな面立ちで、そこそこいけてる魔王といい勝負ができそうだ。とはいえ、髪は適度に短く、茶のスーツと同色のスラックス、タイは紺色の取り合わせ。地味といえば地味な平々凡々なサラリーマンである。
「あの、この人は?」
質問する彼女は幾分上気しており、こんな状況であるにも関わらず青年に興味があるようだ。一応これでもお年頃なのだから。ただ、時と場所を選ばないのがダメっ娘のダメっ娘たる由縁でもあるわけだ。
「これはどこにでもいる、タダの、極々普通の、一般的な、特色のない、平均的なサラリーマンだ」
「はぁ」
「彼を不幸にして来い。できたなら二時間空気椅子の刑を与えてやる」
「ホ、ホントですかぁ!」
キラキラ光る彼女の瞳は何についてこれほどの輝きを見せているというのか。好みの男を不幸にできる楽しみなのか、ほどよいな苦痛を与えられる喜びなのか……さて。
「だが」
彼女の眩しいキラキラを払うように魔王は続ける。
「日が落ちるまでにもし不幸にできなかった場合――」
意味深に言葉を切られ彼女は思わず後づ去る。
「君を悪魔から除名し天使に落とす。以上」
「うっ……」
その程度しか声も出ないだろう。
まさか、この世でもっとも美しく輝かしく、修学旅行で寝ている間に額に〝肉〟と落書きしていった犯人よりも忌むべき存在である、あの天使にされてしまうなんて。悪魔にとって最大の屈辱、最大の刑罰だ。これに比べれば〝許される〟ほうがン億倍増しに違いない。
というわけで、彼女は地上に来ていた。
「どうしよう……」
愕然と肩を落とし、夢遊病者のように彼を捜す。
万が一失敗すれば彼女は天使にされてしまう。これ以上の悲劇があろうか。もっとも、〝万が一〟は失敗ではなく成功につけたほうが彼女の場合それっぽい。
もうだめだー、と口からエクトプラズムを吐きつつゆらりゆらりと歩く彼女……非常に怪しい。
しかし、どん底の彼女にもツキはちゃんと回ってくるようだ。どんな巡り合せかお目当ての彼がまさに〝偶然〟急接近していたのだ。
人々がすれ違う歩道、うつろな目で彼女が向かう先約二十メートル地点にカバー付き単行本を読みながら歩く彼がいた。しかも、彼も彼女のほうへ。本当にどんな偶然なのか。
もうだめだーの彼女と活字に夢中の彼、ふたりはどんどん近づく。
十五メートル、彼女は気付かない。
十メートル、彼女は気付かない。
五メートル、彼女は気付かない。
二メートル、彼女は気付かない。
一メートル、彼女はまだ気付かない。
で、
「きゃっ」
お約束である。
ダッフルコートの彼女は正面から彼にぶつかり後ろにこけた。こけたといってもペタッとしりもちをついた格好だ。
「あっ、すみません! 大丈夫ですか?」
映像で見た時は華奢なイメージだったが、ぶつかってみるとそれなりに筋肉質らしくよろける仕草もない。スーツの脇腹を叩くように手を拭き、その手をサッと出す。なかなかの紳士じゃないか。
彼女の手を取り、くっと立たせる。その仕草も極々自然で、正常な成年男子なら不意に出てしまうようないやらしさは全くない。ますますもってジェントルマンである。
「あの、大丈夫でしたか? すみません、私の不注意で御迷惑を」
そこまで言うと背広の胸ポッケから純白のハンカチーフを出し彼女に渡す。……ここまで来るとちょっとキザだ。あまりカッコよすぎると敵が増えるので彼は注意が必要だろう。
「あ……いえ……」
しぼんでいた風船にじわーっと空気が入り彼女は緩く微笑んだ。
「なるほど、営業ですか」
「はい、営業なんです」
彼女と彼はすぐ近くの喫茶に入っていた。半地下のここは紅茶とスコーンが美味いらしい。彼はときどき利用するようで彼女のぶんも好みを聞きつつ注文していた。もちろんここの払いは彼だ。ごめんなさい代である。
「何を扱っていらっしゃるんですか? 商品とか」
「えと、魔を……」
「マオ?」
「あっ、じゃなくて! ま、まー、……まー? マッ! マジックです! 魔法とかじゃないですよ! こうやってキュッキュッて書くマジックです! あのマジックです!」
「あぁ、はい、あのマジックですね?」
「はいっ! そのマジックですっ!」
彼女は語彙荒くつんのめるように力説する。
しかし、不思議なことに彼はちっとも妙に思ってはいないようだ。こんなに怪しい彼女を前にしても動じない。普通なら、もしかして不思議ちゃん? と首を傾げるところなのだが……この男、いろいろな意味で侮れない。
ちなみに、彼女が言葉を切った『魔を』の続きは『刺す』だった。つまり、彼女の営業とは『魔を刺す』コト、人間の弱い部分に〝魔〟を刺すわけだ。
「あ、そうだ、すみませんでした。これ僕の名刺です。もしお怪我などされていましたらこちらへご連絡ください」
「どっ、どうも」
両手で受け取った名刺によればどこぞの出版社で働いているらしい。
名前は〝簾出雅美〟とある。
「〝のれんでまさみ〟さん?」
「〝すでまさみ〟、です」
訂正しにっこりと微笑む。
彼女はもう一度名刺に目を落とし、すで、すで、と心の中で称えた。〝のれん〟と読むには〝暖〟の字が足りないことを彼女は知らなかったようだ。それでも、魔界から来て日本語を話せているのだから、もし彼女が人間なら十分に優秀な部類ではある。
「簾出さん、この後お仕事はいいんですか?」
「今日はもう上がりだったんです。この二日間はカンヅメだったので。――あ……すみません、においます?」
首を曲げ鼻を袖に寄せてから、もうしわけなさそうに前髪を掻いた。
「いえ! そんなコトないです! 全然ないですからっ!」
「それならいいんですが」
彼女はダメダメのダメっ娘だが一応ここへ来た理由は覚えている。そう、彼を不幸にするのが彼女の使命だ。
と、そこへ好機到来! ウェイトレスがカップと紅茶のポットを持って彼の向こうからやってきた。
ちちんぷいと彼女はウェイトレスの靴底に超強力瞬間接着剤〝トレールZ〟をぴったんこ。これは悪戯術基礎Cで習ったモノだ。回っている独楽を立ったままピタッと止めてしまうほど強力即効で、しかも接着一秒後には粘着力を失うという優れた悪戯魔法なのである。
「あっ!」
見事にウィトレスは転び、宙を舞う磁器製の大きく丸いティーポットは彼の背中にぶち当たってお茶をまいた。
ごむっ! と鈍い音を立てた後、ぐふっ! と奇妙な悲鳴、重そうなポットを背中に受けてテーブルに突っ伏す彼は背中を紅茶で染めている。ただ、奇跡と言うべきか床に転がるポットだけは無事だった。
ウェイトレスは、まず何故自分が転んだのかわからず驚き、次いで客に与えた痛烈なダメージを視認した。失神寸前まで気が遠退いたせいで可愛い顔も青方偏移が著しい。
「すすすみませんっ! すっ、すぐ代わりのお洋服を持って参ります! じゃなくて、弁償の布巾を! でもなくて、えと! そのっ!」
完全に何がなんだかわからなくなった可愛そうな彼女はわたたと凄まじい速度で何か間違った言葉とジェスチャーを組み上げる。さすがのダメっ娘もやりすぎたと感じたようでバレてもないのに気まずそうに目を伏せた。
とはいえ、これで彼女は課題をクリアした。誰がどう見たってこれは不幸だ。ボーリング玉のようなポットを背中に喰らい、さらに紅茶の追い討ち。彼と彼女に悪いな、と思いつつも、とりあえず天使にならずにすむわけだ。
「うぅ……」
彼もやっと状況を飲み込み、身に振りかかった不幸について「不幸だ」と語る。
はずだった。
「効いたー。あー、ちょっと肩こりとれたみたいです」
「「えっ?」」
奇天烈な物言いに娘ふたりの吃音が意図せずハモル。
これはいったいどこから引き出された台詞だろう。彼は不幸を呪うどころか今の刺激で肩こりが治ったと言う。さすがにこれは誤算だ。というか、この反応はあまりに非常識だ。どうやら酒豪ダメっ娘悪魔よりもよっぽど彼のほうが不思議ちゃんだったらしい。
「で、でも、紅茶がっ! すみません!」
そうそう紅茶と肩こりは関係ないだろう。さぁどう返す不思議青年、簾出雅美!
「大丈夫ですよ。っていうより、ありがとうございます」
「「はっ?」」
度重なる不思議発言に、吃音二度目も見事なシンクロ、どちらも堂々の十点だろう。
「いえ、実はこれ、記事を書くためにお借りしている新製品のサンプルなんですよ。NASDAの新素材で作られてるらしくて、〝宇宙もスーツもノン汚れ〟がキャッチコピーなんです。撥水防水性もあるはずだから――ほら、中も大丈夫」
彼は背広を脱いでシャツを見せた。確かにシミはない。当の背広も紅茶が滴ってはいるけれど布巾で拭けばわからなくなりそうだ。
彼の対不幸性能は底知れなかった。
スコーンの中にコインを入れたらガリッと噛んだそれが結構な値打ちモノだと言い、得意の駄料理術で砂糖を塩に変えると嘘みたいな塩ダイエットが流行っていると言う話になり、とどめにお勘定では店のつり銭を全部五円玉にしたのだが何故だか彼は巾着のようなガマ口を持っており、五円玉貯金実行中の旨を打ち明け、これにもえらく喜んだ。百円や五百円ならともかく……五円玉貯金なんて聞いたこともない。
ダメっ娘にしては前例がないほど真剣に〝営業〟したのだけれども彼には全くさっぱり効果がない。暖簾に腕押し、ぬかに釘、魔力も当社比五三二%増で消費したせいかついには底をつき、身体も心もすっかりぐったり疲れ果ててしまった。
彼女の後ろでカランコロンとベルが鳴る。
肩を落とし半地下の喫茶を出ると、地上へ向かう階段はしっとり影を湛え、日の入りが近いとわかった。
影の底から見上げる長方形の茜色は眩いばかりに神々しい。〝空〟は文字通り〝天〟の領域なのだろう。新たな仲間を迎える歓びを荘厳な調べにのせ、高らかに、清らかに天使たちが織りあげる。境無くあまたに降り注ぐその歌声は彼女の五臓を震わすに十分だ。
今確かに、通りへと上る十数段の階段は、朱に切り取られた至高の天上界へと連なっている。
じわり、彼女の視界が歪んだ。
立派な悪魔になりたくて、でもダメで。結局〝立派な悪魔〟どころか〝ダメ悪魔〟ですらなくなってしまう。もうすぐ彼女は忌むべき天使になってしまう。
内向きに並んだ小ぶりの靴はもう動かない。前に揃えた両の手は硬く握られ開けない。愉快にころころ表情を変えた瞳さえも今はただ、ぽろぽろとコンクリートの階段に雫を落とすだけだ。
少し前を歩いていた彼は階下の靴音がやって来ないのに気付きふと振り向いた。
「あの……どうされました? やっぱりどこか痛いんですか?」
一段降り、二段降り、三段降りて、彼女の横で膝を折った。覗き込むように顔をあわせる。
「違うんです……違うんです……」
ふるふるとただただ首を振る彼女に数秒の沈黙を預け、立ち上がった彼は胸ポッケから二枚目の純白ハンカチーフを出し彼女の手に握らせた。
彼女も受け取ったそれで両目を拭う。それでも涙は止まらない。むしろ、それは胸の奥から湧き上がるようでさらに熱さを増した。
天使になってしまう自分、もちろんそれは死ぬほどイヤなのだろう。
だがしかし、涙の色は今や単色ではない。あれだけ酷い目に合わせた彼が優しくしてくれる。立て続けに起きた不運の元凶が彼女にあるとも知らず、彼は温かく接してくれる。
ぽろぽろぼろぼろ、初めて出会う感情がロジックとは無関係な涙を生んでいた。それは悪魔として最も恥ずべき想い、唾棄されるべき感傷であるはずなのに七色のそれは止まらない。
虹の涙の落ちる傍、歪む視界のその端に茶の皮靴は佇んでいた。への字に並んだ小さな靴と近すぎず、遠すぎず、それはじっと動かない。何も言わず、何も聞かず、静かに彼は待っている。
ハンカチーフがしとしとになった頃、彼女は目元を拭いながらも何も言わない彼に視線を向けた。またすぐに視界がぼやけてしまったものだからはっきり見えたのは一瞬なのだけれども。
彼女を見守る彼は微かではあったが心配と不安に眉を歪めていた。
そう、彼は今不幸だ。
ビルの谷間に日が落ちた。
「よかったね」
「うん。……そだね」
魔界一の景勝地〝緋流山渓谷(特一級溶岩性河川認定)〟を望む魔界一の〝喫茶るしふぇる〟で娘がふたり、お茶している。
片方は比類なきダメっ娘、片方は人間発電所のセクシーな職員だ。
セクシー娘は相方が無事再起できたと聞いて喜んだのだが、なにやら親友は骨抜き状態でマブダチとしてはどうにも気になる。
で、聞いてみた。
「もしかしていい人見つけた、とか? ……まさかねぇ。あははは……は? あれ?」
反応はない。どうやらこれはかなりの重症らしい。
「はぁー……悪魔でいられてよかったけど――天使になるのもよかったかも……」
「って! なっ!」
ガタッと立ち上がり親友の額に手を当てる。とても、極めて、最大に心配顔で親友に諭す。
「アンタ疲れてるのよ! ちょっとお休み貰いな! 早速明日からでも。うん、それがいい、うんうん。――〝針の山タワー〟とかレトロで案外いいらしいよ?」
「世話になったよー。ホント感謝ッス!」
執務室で黒電話を握るのは長髪イケメンの魔王陛下、この軽薄な地の語りさえなければ結構もてるはずなのに。まったくもって素材の無駄遣いだと言いたい。
『僕はたいしたことしてないから。結局お役に立てなかったし』
で、対する相手は、
「いやいや、これで示しはついたさ。さすが神様だよ。俺より二、三枚うわてだって」
神様だったようだ。
『偶然だよ。でも、結果的に彼女は僕を不幸せにできたし、僕も彼女を幸せにできた。そっちもこっちも望むモノを相手に贈れたんだ。お互い計算は合ってるはずだよね』
んだなぁ、と魔王は頷き、
「でさぁ、俺ンとこは損も得もしてないからまぁいいんだけど……もしかしたら、もしかしたらだけど、そっちは逸材逃しちゃったんじゃない?」
『さぁどうかな。――僕は美味しい店に連れてってもらえたら満足だよ』
「そうそうそれよ。針の山タワーって知ってる? 全長六六六メートルの懐かし系観光名所なんだけどさ。そこの〝ビーフンストロガノフ定食さび抜き〟ってのがうまいのよ。そういや、そっちも明日非番じゃなかったっけ?」
魔王のお誘いに、
『今日は断食しなきゃね』
神様は笑って返した。
了
2006/10/07-
立派な悪魔になりたいのっ! 織部健太郎 @kemu64
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます