15

 聞いてはいけない話を聞いてしまったという表情で秋里は立ち竦んでいた。その顔色は蒼白に凍りつき、見開かれた両の目の中には読みがたい複雑な感情が渦を巻いていた。

「あ……」

 と、短く声を出し、秋里は咄嗟に踵を返して廊下の向こうの階段を駆け下りていった。

「秋……」

 一体どの辺りから聞かれていたのだろうか。

 今すぐ追いかけるべきだろうか。

 それとも今はそっとしておいたほうが良いのだろうか。

 情けない顔で目を向けると、航もどうしたら良いのか分からない表情で小刻みに首を振っているばかりだった。

 そこへ、次兄の拓朗が上がってきて、キョトンとした顔で、

「今秋里が凄い勢いで外に駆け出してったけど、なんかあったのか?」

「すまん、しくじった……」

 航が大きくため息をついた。


「何をしてるんだ、早く追いかけろよ」

 話を聞いた拓朗は、血相を変えて航と耕輔を怒鳴りつけた。

「けど、今は一人にしておいたほうが……」

 そう耕輔が言いかけると、

「馬鹿野郎。ずっと昔から誰にも悟られないよう胸の裡に秘めてきた想いなんだろ? そんな重たい想いなんか、絶対誰にも言えないし知られたくないに決まってんじゃねえか。それを兄貴が知ってたばかりか、自分の目の前で当の耕輔にベラベラと喋られてみろ。そんな酷え話があるか。ショックで何を考えるかわからないだろうが! 三人で手分けして探すぞ。三十分経って見つからなかったら、義姉さんたちにも言う。いいな?」

 そう言われて耕輔は俄かに不安になった。あの秋里がまさか早まった真似はするまいとは思うが、そう言われて顔から血の気がすっと引くのを感じた。おそらく長兄の航もそうだろう。それを裏付けるように、

「わ、わかった」

 航がこくこくと頷いた。

 「見つけたらとにかく保護だ。取り乱してたら何が何でも取り押さえろ」

「う、うん」


「あら、どうかしたの?」

 三人揃って廊下を歩いていくのを居間からみとめて母の寿美子が訊いた。

「散歩だよ、酔い醒ましの散歩」

「あんたら三人で?」

 寿美子は先に秋里が出ていったことを知らないようだった。

 まだ大騒ぎすべきではないと判断したのだろう、拓朗が何気ないふうを装って言う。

「そうだよ。たまには兄弟三人水入らずで散歩したっていいじゃないか。ちょっと行ってくるよ」

「兄弟水入らずで散歩って……何よそれ。変なの」

 首を傾げながらそうは言うがそれ以上追求してくる様子もないので、三人は何気ない風を装いつつ、ぞろぞろと玄関を出た。


「兄貴はこっち、耕輔、お前はあっちだ」

「ああ」

「わかった」

 玄関を出ると、拓朗の采配に従って三人は別れ、秋里を探し始めた。耕輔は家の裏手にあたるほうを探すことになった。まずは屋敷の敷地の裏を見て回ったが秋里の姿は発見できなかった。そこでいったん表に出てから左に折れ、ぐるりと裏手方面に回り込んで住宅の並ぶ通りを酒匂川のほうへ歩いて行った。

 夏の夜の住宅街はひっそりとしていた。『川』という連想が、どこか陰湿めいて嫌な感情をかき立てる。耕輔は不吉な想像を振り払うかのように、息を切らして当たりを走り回った。

 肺を焼くような熱くて重たい夜気が、何べんも喉を通りすぎる。

 走りながら、握りしめたスマートフォンを確認する。兄たちからのメッセージ連絡がないかを確かめるために。

 兄たちからの反応は、まだない。

 二十分ほど探し回り、しばらく行ったその先で、暗がりの物陰に人が佇んでいるのを耕輔は発見した。

 どうやら秋里に間違いはなかった。

「あ、秋里……」

 耕輔は立ち止まり、太腿に手を当てて下を向き、屈み込む。

 酔っている上に走ったものだから、頭はズキズキと痛み、目眩はするし、吐いてしまいそうな最悪な気分になって、道の上にへたり込んでしまった。

「耕輔さん……ど、どうしたの? 大丈夫?」

「だ、大丈夫……」

 それでもなんとか立ち上がり、荒い息を整えながらよろよろと近づいてゆくと、秋里は慌てて背を向け、目のあたりを拭った。

 何を話してよいのかわからずに、なるべく秋里の顔を見ぬようにしていると、

「探しに来てくれたの?」

 秋里が心配そうに言う。

「うん……」

 秋里は小さくありがとう、と言った。

 耕輔は反射的に秋里に謝罪をしようとして思いとどまった。簡単に謝って秋里の気持ちが済む問題ではない。一体何を謝ればいいのかと思った。いまは謝罪そのものが不誠実な行為に思えて、言葉を繋げられずにいると、秋里の方から謝ってきた。

「ごめんなさい。聞く気はなかったんだけど……隆くんを寝かしつけていたの……そしたらふたりの声が聞こえてきて」

 秋里が思ったよりも取り乱していないことに、耕輔は胸を撫で下ろした。

「あの……」

 またもごめん、と言いかけた言葉をどうにか呑み込む。

 するとまるで何かを察したかのように秋里がぽつりと言った。

「言葉ってすごい」

 耕輔がその真意を図りかねて黙っていると、

「わかっていたことだけど、やっぱり言葉にされてしまうとね」


 秋里が歩き出すので、耕輔もふらふらと後をついていった。拒絶される素振りは無かった。思ったより冷静なようではあるが、衝動を懸命に押さえつけ、まだ隠している可能性は彼女なら十分あり得ると思った。

 夜道をゆっくりと歩いていると、小さな公園に行き当たった。ふたりは公園のなかに入って、ベンチに並んで座った。

 耕輔は二人の兄に携帯電話から『見つかった。しばらく話して帰る』と短いメッセージを送った。兄たちからはすぐに返信があった。まず拓朗からは『安心した」と一言。航からは『宜しく頼む』と一言。

「ふたりにも迷惑をかけちゃったみたいね……」


 靄のような夏の夜気が辺りを埋め尽くしていた。

 公園の灯が足元を不規則に瞬き照らす。

「耕輔さん、大丈夫?」

「あ……もう平気」

 暫く座っていると気分が落ち着いてきた。

 すると秋里が深く頭を下げて、

「心配をかけてごめんなさい」

「いや、謝るのは僕のほうだ。本当に、ごめん」

 堪らずに、その言葉を吐き出してしまった。


 秋里は耕輔の謝罪については何も言わず、

「安心して。こんなことで自棄になるほど子供じゃないから私。それにね」

「うん?」

「……耕輔さんにほかに好きな人がいることも、ちゃんと知ってたし」

「えっ」

 告げられた言葉は意外だった。

 もしかして秋里は早和の存在を知っていたというのか?

「私、勘はいいのよ」

 と、下を向いたまま何気なさそうに言う。

「耕輔さんのことを好きというのは本当よ。でも耕輔さんにその気はなさそうだし、もうとっくにあきらめはついているの。わたし、ずっと言わないでおこうって決めてたのに、まさかあんなふうに言っちゃうなんて……」

 そう言って秋里は力なく笑った。その笑顔にこもった諦めの表情のせいで、耕輔はとても秋里に同調して笑えるような気分にはなれなかった。

「でもまあ、しょうがないか。まわりにバレバレだったのは自覚してたし」

「そ、そうなの?」

「そうよー。気づいてくれていないのは耕輔さんだけ」

 秋里はそう言って足下の砂を蹴った。


 秋里は大人だ。ふつうなら航と耕輔の無配慮な会話にはもっと激昂してもよいところなのに、きちんと抑えることができている。いっときの激情に縛られて自棄になることもなく、こうして気持ちの整理をすぐにつけられるのは彼女の持っている芯の強さゆえか。

「なんか、みんな勝手に私のこと色々思っているみたいだけれど、私そんな可哀想に見えるのかなあ? まあ、あの母を見ていればそう思っても仕方ないかもね。私、けっこう冷めていると言うか、どこか自分を突き放して見ているっていうかね。いつもそのへんにもう一人の自分がいて、つねに冷静に見られている感じがするの」

 たしかにそういうたぐいの話しは耕輔もよく聞いている。客観的なもう一人の自分がつねに自分の行動を監視しているような感覚を持っている人は意外に多いらしい。耕輔はいつも自分はイコール自分で、それ以外の客体があるような感覚にとらわれたことがない。だからそういうものの見かたが実感として今一つ腑に落ちないのだが。

「私が何をしてもみんな『家庭環境が……』ってすぐ結びつけて考えたがるのよね。だから逆に鍛えられちゃったのかもしれないわ。じっさい私、自分が人より不幸だとか不遇だとか思ったことはないのよ。単に『母子家庭』っていうだけのけっこう単純な割り切りなんだけどな。でもみんなそう単純には思ってくれないみたい」

 秋里の告白を聞いて、まさに彼女は自分を犠牲にして不遇な人生を送ってきたと今まで思い込んでいた耕輔は、自分の勝手な決めつけを恥じるばかりだった。

「ごめん……」

「どうして謝るの?」

 案の定秋里は訊く。その声には純粋に不思議がる気持ちのほか、少しだけ耕輔に対する非難が含まれている。言ってから耕輔は青ざめる。受け取りようによっては秋里に対する侮辱にもなりかねない謝罪の言葉だからだ。


 父がいないから、母子家庭だから不幸だ。

 母親の精神状態が不安定だから不幸だ。

 貧しいから、学生なのに働いているから不幸だ。


 そんなのは本人の気持ちを知らぬ者が偏見でそう決めつけているだけでしかない。


 たしかに秋里は年頃の女の子相応に、仲間と遊んだり、おしゃれを楽しんだりはしてこなかったかもしれない。だが、それは彼女が不幸であるということと同義ではありえない。彼女は彼女なりの充実感をもって自分の人生を選びとり、彼女なりの価値観と誇りをもってこれまで生きてきたのだ。そんなこともわからずに上から目線で可哀想だと思うなど、勘違いも甚だしい。

 言葉にしてしまった以上、真意はきちんと説明しなければならない。

 耕輔自分の浅はかさを心の底から謝罪した。


「僕はずっと間違っていたんだ。君がずっと叔父さんに対して後ろめたさや恩義を感じてそうせざるを得なかったのかと思っていた……」


 秋里が工場に足繁く通うようになったのはたしか耕輔が高校一年生の夏休みだった。二歳年下の秋里はまだ中学二年生で、年端もいかぬ秋里が、学業もあるだろうに、どうしてアルバイトをする必要があったのか、また母親の秋江がよくそれを許したものだと思った記憶がある。

 当時はまだ市内のアパートで生活していた祖父江母子は、たしかに生活も苦しかったことだろう。精神状態もまだ安定していなかった秋江にとっては娘の将来について余裕ある判断ができなかったのかもしれない。特に本人が希望して働きたいと言えばそれはそれで有難いことだったには違いない。

 それから秋里は長期休暇になるたび、また場合によってはそうでない時期の土日でさえ、暇があればたがみの工場に働きにきていたようである。受験の準備に余念のないであろう中三の夏休みでさえ、ずっと工場にいて、耕輔は随分とひやひやしたのである。

 だが耕輔が心配するまでもなく、秋里の成績は優秀だった。翌年冬には市内の公立高校に難なくパスすることができた。その高校に秋里が入学した年、耕輔は同じ高校に三年生として在籍していた。きっと働きながら人知れず努力したのだろうと思った。そんな健気ささえ、耕輔が秋里のことを不憫に思う一因になっていたのだ。


 耕輔は秋里がずっと『たがみ』という呪いに縛られていたのだと思っていた。

 心の病に陥った母、田上家に対する義理、そんなものが枷となって本当に彼女がしたいことができなかったのではないかと決めつけていた。

 だからこそ叔父も事あるごとに秋江、秋里母子のことを不憫だ、と言っていたのでは、とうすうす思っていた。

 だが、秋里に関して言えば、叔父もとんでもない勘違いをしていたのだ。


「いいのよ。耕輔さんがそう思ったって不自然じゃないもの。だいたい高校生の男の子が私の気持ちをわかれだなんて、無理だと思うし。私、たとえ憐れみでも耕輔さんがいろいろ庇ってくれたことは純粋に嬉しかったし、『ひょっとしてこの人私に気があるのかしら』なんて思ったこともあったのよ。違ったみたいだけど」

 秋里はいたずらっぽく笑い、耕輔は縮こまった。

「この際だから言ってしまうとね、たがみで働きはじめたのだって、お金が貰えるのが単に嬉しかっただけなのよ。アルバイト代をはじめて貰ったとき、感動したの。だって、学校で部活をやっていたらただそれだけで終わっちゃうでしょう? でも中学生の私でも、働いたらちゃんとお金が貰えるんだってわかったら、なんか凄い嬉しくて。だからたがみにずっとお世話になっていた理由は、耕輔さんが気にしているようなことじゃないのよ」

「そうだったのか……」

「耕輔さんは社長や拓朗さんよりはましよ。社長はあれだし、拓朗さんもなんと言うか、熱血なわりにけっこう的を外しているのよね」


 ふふふと秋里は諦めのこもったような声を出す。その声にはどこか周囲を突き放したようなところがあり、秋里という人間の複雑さをいっそう際立たせる。その性格の陰影が彼女をどこか計り知れぬもののように見せているのは否めない。

 人は傍目ほど単純ではない。自分に照らしてみればよく解るのに、他人のことはどうしても型に嵌めて考えたくなる。耕輔はいま秋里の本音を初めて聞いた。秋里の賢さは昔から解っていたが、それと同時に人としても複雑さとかなりの振幅を持っていることをあらためて知った。人としての深さ、と言ってもいいのかもしれない。そんな秋里の性格は育ち、境遇が育てたものなのか。いかに自分が今までいい加減に秋里を見ていたか、耕輔は忸怩たる思いにとらわれた。

 だから彼女に対しては、ごまかしや取り繕いをせず、正面から真面目に応対しなければならないと感じた。

「その人のこと、聞かせてくれる?」

 そして意外にも秋里がそんなことを言うので、耕輔は早和のことを秋里に打ち明ける気になった。

 そしてぽつぽつと話し始めた。

 出会いから、つい先頃の花火の夜のことまでを。

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