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 耕輔の二人の兄、航と拓朗は酒が好きである。普段から何かと理由をつけて飲みたがるのはいずれの酒好きも似たようなものかもしれない。

 二人の酒癖は女性陣や子供たちには今ひとつ不評なようであるが、今日のように供養の席で自分たちだけが酒を飲めなかったとあれば、嫂たちも二人の主張を認めぬ訳にはいかない。

 そしてその晩は田上の実家に次兄の拓朗一家が集い、耕輔と秋里も加わって、賑やかな酒席となった。

 耕輔は翌日の朝東京に戻ることを公言していたが、嫂たちや秋里に勧められていささか飲みすぎてしまった。酔いを醒ますため少し風に当たろうと、ひとりでそっと二階の物干しに抜け出して来た。ついでに早和のところへ電話をかけてみるが、相変わらず繋がる気配はない。


「よう」

 背後からする声に振り向くと航がウィスキーのグラスを持ったまま立っている。

「なんだ兄貴か。どうしたの」

「ちょっといいか」

「うん」

「お前に話したいことがあってな。明日あっちへ戻るんだろ」

 そう言って航は耕輔の隣に並んだ。

 湿った生暖かい夜風が一陣、吹き渡った。

「話?」

 航は珍しく歯切れの悪い態度で、何かを言いだしあぐねているように、

「お前、仕事のほうはどうなんだ」

 と聞いた。

 どうなんだ、という言葉に若干の険が含まれている気がするのは耕輔の勘繰り過ぎだろうか。確かにフリーのエンジニアなど吹けば飛ぶような職業かもしれない。現状の耕輔の境遇について苦言でも呈したいのだろうかとつい訝しく思ってしまう。かつて耕輔が会社を辞めてフリーになったとき、好きなことをやれと言って後押ししてくれたのは航ではなかったか。

「仕事? 今のところは特に問題はないけど……儲かってもいないけど食い詰めるほど困ってもいないという感じだよ」

 確かこの話しは何日か前にも皆の前でした。ひょっとして酔っているだけなのだろうかと考えていると、

「そうか。実はな……秋里のことなんだが」

 全く関係のないことを言い出す。

 耕輔が続く言葉を待って黙っていると、

「秋里を……うちの社員にしようと思うんだが」

 と言う。

 あまりの支離滅裂さに耕輔は当惑した。兄が耕輔に話したいことがあるなど、何か重要なことに違いないと身構えていたのだが、こうも脈絡がないのは、普段の航からは考えられない。本当に酔っているだけかもしれない。

 店のことについては耕輔が関知すべき立場ではない。ましてやその人事について相談をうけるような間柄でもない。秋里を社員にしたいと自分に言われてもそうですか、としか答えようがないのだ。むしろ今まで秋里のことを社員待遇にしていなかったのかと意外にさえ思ったが、社長である航がそうしたいと考えたのならばそうすればよい。

 と、思ったことを言おうとして、全く別の言葉が耕輔の口をついて出た。

「兄貴はそうやって秋里のことを……」

「ん?」

「一生たがみに縛りつけておくつもりなのか?」

 航の顔色が変わった。

「どういう意味だ?」

「秋里は……自分の母親のことで槇雄叔父にずっと恩義を感じてきたんだよ。それと同時に『たがみ』にはずっと負い目を感じていたに違いないんだ。だから今も『たがみ』の家の者たちに不必要な気を使い続けているんじゃないのか? 秋里は賢い子だから、絶対にそういうところは表に出さないけれどさ。もし兄貴が社員になれなんて言ったら彼女はたとえ不本意だとしたって断れないよ。必ずうんと言うに決まっている。もう槇雄叔父さんは居ないんだし、母さんも、兄貴たちも、そろそろ春子叔母さんや秋江さんともっと距離をとったっていいと僕は思うよ。兄貴はあの二人の態度見て、何も感じて無いのか? 秋里には彼女の人生を、自分で選ばせてあげるべきだ」

 話しながら、学生の頃からたがみの工場で懸命に働き続けてきた秋里の姿を耕輔は思い出していた。その光景が記憶に浮かんだせいで、つい激昂してしまったらしい。そしてあらためて思い至った。耕輔は自分自身、当時から父や叔父や兄たちが秋里を便利に使い続けていることを快く思っていなかったのだ。耕輔は言ってから、自らの言葉にこもった熱に唖然とした。

「あ……ええと……」

「ふ……ははは」

 しばらく黙って耕輔の熱弁を聞いていた航は相好を崩して、ウィスキーを一口飲んだ。

「お前がそこまで言うとは思わなかった。いや、お前ならそういうと思った」

「どっちなんだよ……」

 耕輔は照れ隠しに不貞腐れたようなことを言って、下を向いた。

「変わらないよお前は。昔からよくそんなことを言って秋里の肩を持ってやっていたじゃないか」

「そ、そんなことないよ……」

 航は、

「実は今までそれを保留にしてたのは俺もそう思ってたからなんだがな」

 と穏やかに返した。

「は? だったら何故……」

「ところでお前、彼女はいるのか」

「兄貴……酔ってる?」

 ついに耕輔は我慢しきれずに言葉にした。

「はははっ」航は思わず吹き出して、「そういうところも全く変わらんな」

 と、耕輔の肩に手を置いた。

 そういうところ、とはどういうところなのかが耕輔には全く通じていない。

「な、何だよ……」

 この酔っぱらいは一体何を言いだすのかと訝しく思いながら、彼女はいるかと聞かれて脳裏にまず思い浮かんだのは早和の顔だった。だが現時点では彼女などと呼べる関係にまで進展しているわけではない。したがって「いないよ」と否定した。

「そうか。じゃあハッキリ言うが、実は秋里はお前のことが好きらしい」

「はあ!?」

 まさかこの兄が、しばらく会わないうちに酔って突拍子もない冗談を言うような性格になってしまったのかと本気で疑った。だが航の表情は真面目だった。

「昔からずっとだというぞ。お前、全く気づいていなかったか?」

「それ……正気で言ってるのか?」

「正気も正気」

「……だとしても、なんで兄貴が今さらそんなこと」

「黙ってたら秋里は一生言わないだろうし、お前だって一生気づかないだろうからなあ」

 全く気づいてなどいなかった。

「ど、どこかから根も葉もない憶測でも聞いたんじゃないのか」

「いやいや。本人が春子さんに漏らしたのだというぞ。実は三年くらい前、そういう話があったというんだ」

「そういう話?」

「ほら、叔父さん夫婦には子供がないだろう? それで叔父さんが秋里を養子にしようとしたことがあるらしいんだ。そうなれば叔父さんの財産を秋里が自然に相続できるじゃないか。だがそのとき本人が頑なに断ったんだそうだよ。自分は叔父さんの遺産なんて欲しくない、普通に恋愛をして嫁に行きたいから養子にはならないってね。田上になって遺産を相続すれば義理やしがらみができてしまうという秋里の気持ちも理解できないではない。それで叔父さんもそれきり養子の話は諦めたらしいが、そのとき秋里の態度が妙に確信的だったものだから春子叔母さんがもしかしてそれは耕輔のことか、とカマをかけたらしいんだ。そうしたらどうやら当たりだったらしい。俺なんかは全然知らなかったが、実はずいぶんと前から色んな人の間でどうもそうらしいという憶測が飛んでいたらしいんだ。香菜絵や頼子もそう思ってたみたいだしな。お前は思い当たることがなかったか?」

「ないよ、そんなの」

「ふうん」と航は思わせぶりに笑った。「まあいいや。で、そのうち叔父さんがあんなことになってしまったから、養子の話も有耶無耶になってしまったということだ」

「そんなの」

 三年も前の話しじゃないか、と言おうとしたが、航が畳みかけるように、

「お前秋里をどう思う」

「ど、どうって……突然過ぎて何もわからない」

「ハハハ……少しは好きかもしれないとか、考えたことはなかったか」

「全然」

「はぁ……駄目だなこりゃ」

 航はうなだれた。

「秋里がいい子なのは知ってる。僕とも気が合うし……だけどそういう対象として見たことはないよ。秋里だって……今はどうだかわからないだろ。三年も前のことだ」

「そうだな。だが秋里に直接聞くわけにもいかないだろう。聞いたって絶対本心を言わんだろうしな。でもな、そう思ってハタで見てるとわりと頷けるものがあるぞ」

 航はグラスに少しだけ残った琥珀色の液体を一気にあおって、さいごに残った氷を口に含んで噛み砕き、

「なあ耕輔」

「うん」

「これは俺の独り言だと思ってもらってもいいんだが……」

 耕輔は航の言葉の続きを黙って聞いた。

「酔った勢いで言っちまうがな、こっちへ帰って来て、秋里と一緒になる気はないか? いやいや、何もお前も一緒に『たがみ』に入れというんじゃないぞ。お前がやりたければ、好きなことを続けていいんだ。WEBの仕事だったらここでもできるんじゃないのか?」

「何言ってんだよ兄貴……第一、僕にだって好きな女性くらい……」

「さっき彼女はいないって言ったじゃないか」

「いるんだよ。彼女じゃないけど好きな人は!」

 そう言いながら振り向いた闇の奥に、秋里の白い顔があった。

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