11
ホームへ降り立つと凄まじい暑気が渦を巻いていた。駅を出て歩く道には逃げ水が立っている。耕輔は駅の売店で冷たいお茶のペットボトルを買って飲んだが、それを飲み干してからわずかでまた喉が渇きはじめた。
駅から歩いて二十分ほどの道を、汗を拭いながら重い荷物を引きずってふらふらと歩く。高校に通っていた頃はたとえ暑い夏であろうと毎日この道を歩いて駅まで通ったのだから慣れては居る筈なのだ。だが今の耕輔にとっては大変に長い、苦痛に満ちた道のりに感じられた。
やっとのことで実家にたどり着く。
耕輔が幼少の頃、実家はもともと駅近くにあった。干物屋の店舗兼自宅になっていて、母屋はその裏手にあった。だが先代の時に店舗の拡張も兼ねて駅から少し離れた場所に家を買ったのだ。
「ただいま」
実家の玄関は開いていた。靴がいくつか脱ぎ捨ててあるのを見ると誰かは居るらしいが、その誰かが耕輔が到着したことに気づいた様子はなかった。みな忙しく立ち働いているのかもしれない。一応はこの界隈で老舗となる店である。
勝手知ったる実家なのでズケズケと上がり込んでいくと居間にいた母親の寿美子が「おや耕輔」と意外そうな顔をする。前もって言ってあったのだからそんな風に驚かなくともよいのにと思う。
「ただいま」
「お帰りお帰り。遠くから疲れたろ」
「近いよ。小田原なんて」
寿美子は静岡出身で、地元にはとても強いシンパシーを示すのだが、東京というと昔からとても遠い場所のように考えている。東京人は皆が皆、生き馬の目を抜くような暮らしぶりであると信じていて、まるで異国の蛮人であるかのように話すのだった。
実家の居間の隣は和室になっていて、二歳になる長兄の娘の佳乃がすやすやと昼寝をしていた。起こさないように、部屋の隅にそっと荷物を置いてから、母の向かいに腰を下ろす。
実はこの家に耕輔の個室はすでにない。かつて耕輔が使っていた部屋は長兄の長男の隆太の部屋になってしまっている。
居間はクーラーが効いていて涼しかった。母の隣ではその隆太が、下手くそな絵をがむしゃらに描いていた。
「あ。おじちゃん。こんちわ」
「隆は絵、うまいな。何描いているの」
「朝顔」
「そうか。学校は夏休みだもんな」
「これ、宿題」
「観察日記というやつか」
「そう」
「それって観察しながら描かないとだめなんじゃないの?」
「枯れちゃった」
隆太の絵には青々とした朝顔の花がいくつも描かれていた。
「それなら枯れた絵を描かないと」
「えーっ、やだよそんなの。こんなの適当描いとけばいーじゃん」
そんなものか。
確かに、思い出してみれば自分の時もそんなものだったのかもしれないと思い直し、朝顔についてはそれ以上の言及を避けた。
母親がはいよ、と麦茶を耕輔の前に置く。有難う、とそれを半分ほど飲んでから、
「兄ちゃんたちは店?」
「うん。最近ネット通販? を始めたじゃないの。お蔭で忙しくしてるわよ」
「知ってる」
実をいえばその通販サイトは耕輔も関わっている。継続的にサイトのメンテナンスもしているし、通販に接続する本家サイトも、店長ブログも、耕輔が長兄の依頼により作成したものだ。もちろん、無償で。
店に顔を出すとみな忙しそうにしていた。
耕輔の姿に嫂の香菜絵が気付いて、
「あら耕ちゃん。帰ったの?」
「うん。今家に寄って荷物置いてきた」
香菜絵は長兄の同級生で、兄は昔から香菜絵一筋だった。当時から親しく行き来していたので耕輔もよく親しんでいる。
やり取りを聞いて、長兄の
「おう耕輔帰ったか」
「うん。ただいま」
しばらく見ないうち長兄はすっかり社長然となって、益々貫禄がついたようだ。耕輔よりも一回りも歳上の長兄は、小さいころから届かぬ存在であった。とくに父の時雄が亡くなったときは、長男らしい立派な采配を見せ、おかげで内外ともに難しい局面を一家で乗り切ることが出来た。口には出さないが耕輔は航をひそかに尊敬している。耕輔が東京に出て行くときも、会社を辞めてフリーになるときも、お前の好きにやってみろと後押ししてくれた兄だ。
耕輔が徐ろに店の商品を物色し始めると、
「何だ、お買い上げか?」
と航がからかうように言ってくるので、
「うん。宅配便で送りたいんだけど」
と真面目に受け応えると兄は意外そうに目を見開いた。
「ひょっとして……彼女か?」
「……彼女に干物なんか贈ってどうするんだよ。お隣の一家だよ。ご飯食べさせて貰ったり、色々世話になってるの」
と、あえて『一家』を強調する。確か前に里帰りした折にもそう言って干物を送っているはずなのだが、兄はすっかり忘れているらしい。
「なんだ、そんならサービスしてやるよ」
「夏だからね、冷凍かパックのがいいわよ」
と嫂が勧めてくれるものを適当に詰めて送ってもらうことにした。
当然ながら、宅配便の伝票には善次郎の名を記した。
伝票を書き終わってふと目を上げると、店内の片隅から耕輔に向けられた控えめな視線に気がついた。
臙脂色の『たがみ』のエプロンを着けた、若い女性店員のひとりである。
耕輔はその女性をよく知っている。
目が合うと女性は、
「あ……」
と短いため息のような声を漏らし、耕輔に向かって小さくお辞儀をした。
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