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 耕輔は早和のことが好きなのだろうか?

 恋愛対象――などと考えてみても、そんな薄っぺらい言葉が実感としてそぐわない。恋愛というなら学生時代にひとりの女性と数年間、付き合ったことはある。が、今にして思えばあれはただ、互いに未成熟すぎた少年と少女がただ酸っぱくて苦い病気を経験したようなものだった。

 困ったことに、良かった思い出よりもその奇妙な味だけが脳裏に染み付いて、つまり耕輔はそういうことにはもうからっきし愚鈍になってしまって、恋愛などというものは自らすすんで味わうべきものなんかではないと思い込んでしまっている。

 次兄が結婚したときに耕輔に言ったのは、結婚は好きだとか惚れたという感情を排してなおその人が自分にとって必要かどうかを判断しなくてはならない、という言葉だった。つまり恋愛感情というものは経年変化する。だから一時の浮ついた気持ちだけで一生を決めるようなことがあっては互いに不幸になるだけだと言いたかったらしい。

 次兄は結婚に際して強くそう思ったのだろう。何も自分が幸福の絶頂期にわざわざそんなことを弟に言う必要はあるまいと思った。現実主義者の次兄らしいといえばらしいが、それも次兄なりの幸福の表象だったのだろう。そのときはただなんとなく兄の言葉を受け止めていた耕輔だったが、『恋愛』も『結婚』も、そんなふうに一言で言い表せるような単純なものなのだろうかと今では思う。何だか自分にとっては複雑に入り組んだ、果てしなく高い只の壁のように思えてならない。

 早和のために、自分はその越えがたい壁を越えるべきなのか?

 早和がそれほどの存在かと聞かれると、それはちょっと違う。

 確かに、魅力的な女性ではあるし、憎からず思っている。

 奔放過ぎるところが良くないとも思うし、その一方で自分がそんな偉そうに相手を批判できる立場ではないとも思う。

 それに、あちらにとっては耕輔が早和をどう思っているかなどまったく知ったことではない。そんなことを唐突に言われたって迷惑なだけだろうと思う。

 好きかと言われればそれは好きだ。ただ早和に対しては惚れているというより嫌われたくないという思いなのであって、嫌われたくないという感情なら恋人にかぎらず友人や隣人にだって適用できるのだ。

 結局のところ、耕輔が早和に嫌われたくないという感情の正体は、仲の良いお隣さんの心証を損ねたくないというだけのことなのだ。


 早和にせがまれて一日出立を遅らせた当の土曜日である。

 外でトンカン音がし始めたと思ったら、善次郎が板切れを金槌で叩いている音だった。

「何をやってるんです? 善くん」

「ああコンチワ、耕輔さん。これ、夜使うやつ」

「夜? ああ……」

 確か早和が先日、花火大会を見物するために、縁台を両家の間に置いて何やらと言っていたのを思い出す。

 善次郎はその縁台を作っていたのだ。

 そこから始めるのか。

 というか、その一日のためだけにわざわざ縁台を拵えるのか。

「ナニネ、これはあとで花台になるんですよ」

「花台?」

「姉貴がこないだ朝顔市で買ってきた……」

「ああ、あれですか」

 向こうの縁先にひと鉢の朝顔が置かれている。

 先日早和がわざわざ入谷まで行って買ってきたと自慢していたものだ。朝顔など耕輔は小学生のときの理科の観察以来なので、へーとかほーとかいい加減に褒めたに過ぎなかった。

「前々から姉貴にせっ突かれていたんですがね、なかなか時間なくて。ギリギリになるまで出来ないタイプなもんですから」

 と善次郎は苦笑いをする。

「手伝いますか」

「おっ、有り難い。じゃそっち支えててくれますか」

「いいですよ」

 と下駄を引っ掛けて軒下に出て、大工仕事に加わる。善次郎は手際よく釘を打ち付けて足を作る。まるで玄人はだしだ。善次郎にこんな才能があったとは知らなかった。


 花火見物のお膳立てはほとんど全て蕪井姉弟に任せっきりだった。さすがに耕輔も気が咎めて心ばかりの差し入れを考えた。密かに善次郎に相談すると差し入れなら拒まないというので、『かき氷』を用意することにした。但し、単なるかき氷ではない。どうせならと都内の氷屋を探し、ブロック氷を予約注文。蜜も果汁入りで濃い味の本格的なものを求め、餡、練乳、抹茶まで用意した。かき氷機は少し大きめの家庭用のものをこの日のために買いもとめた。

 善次郎は膝を打って、そいつは喜びますよ姉貴、と太鼓判を押した。


「ふう、終わった」

 三人がちょうど座れるほどの縁台を善次郎は難なく作り上げた。花台として朝顔の鉢一つだけ置くには長すぎるが、縁先の並びにはピッタリ嵌まる長さではある。

「ところで早和さんは」

 善次郎は道具を仕舞いながら、

「買い出しに行っていますよ」

「そうですか。何だか一方的に負担ばかりさせてしまって」

「ああもうそういうの気にしないで下さいって言ったでしょう。誘ったのはこっちですからね」

 善次郎は縁台をよっこいしょ、と持ち上げて丁度良い位置に据え付けた。

「何だか色々と増えてますね」

 とは、縁先に立てかけられた葭簀を指して耕輔が言ったものである。かつては夏の民家の軒先によく見られた、立てかけるタイプの簾である。夏らしく涼しげではある。縁先に無造作に置かれている朝顔が、こう状況が整ってくるとなかなか雰囲気を醸して風情がある。

「凝り性ですからね」

「こんなのよく手に入りましたね」

「何だかね、姉貴の中ではいま和風がブームらしいですよ」

「和風? ああそれで朝顔と葭簾……」

「で、浴衣で花火見物とくりゃ極めつきでしょう。こないだは陶器製の金魚鉢が欲しいとか言い出すんで、流石にそれは止めました。結局自分が世話する羽目になりそうなんで」

 耕輔は苦笑いを隠しきれずに、

「何でまたそんな急に」

「あれですよ、あれ」

 善次郎が指したのは、耕輔の家である。

「あれって、どれです」

「耕輔さん家の蚊帳」

「蚊帳?」

「あの中に入って西瓜を食ったでしょう」

「ああ、あのときの……」

「凄い楽しかったらしくて」

「ナルホド」

 そしてそれが素麺に繋がっていくのだな、と耕輔は納得した。ならば今日の『かき氷』も間違いではあるまい。

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