8

 小田原の実家から電話がかかってきた。耕輔には昨年末に他界した槇雄という叔父がいる。その初盆だから帰ってこいという内容であった。耕輔もそれについては意識していたので承諾し、帰省の予定日を伝えて電話を切った。

 そしてこれも予め判っていたことだが、帰省する前に得意先から請けた仕事を終わらせなければならない。

 仕事はすでに八割がた完成していた。最終的な動作確認をして簡単なマニュアルを書けば仮納品できる。先方の発注担当者の動作確認を経て問題がなければ検収完了となり納品となる。請求は月締めなので請求書は東京に戻ってからでも構わない。実家にもネット回線はあるので、ノートPCさえ持って帰れば納品後の瑕疵や追加作業があっても対応は可能である。

 耕輔はそのマニュアルの素案をまとめるに当たり、やはり今日だけは消極的な理由でなく、どこか涼しい場所に出かけてでも仕事を進めるべきだと思いたって、戸締まりを始めた。ノートPCをバッグに入れて家を出ようとして玄関の戸を開けると、ちょうどそこへ早和が現れた。

 水色のワンピースに涼しげな帽子をかぶり、バッグを下げているところを見ると、早和も何処かへ出かけるつもりらしい。

「あら。耕輔さんもお出かけ?」

「ええ。今請けている仕事が納期間近なもので、喫茶店か何処か涼しい場所へ行って仕上げてしまおうと思いましてね。何か僕にご用ですか?」

 わざわざ玄関に回ってきたのは、先日のやり取りが頭にあってのことだろう。なんとなく申し訳ない気になった。

「ええ。あっ、でも出かけるならいいの」

「なんですか。言ってごらんなさい」

 早和に対してこのところ妙な態度をとりつづけてきたという、多少の後ろめたさも手伝って、ある程度の我儘なら聞く気で尋ねた。

「ええと……。暑くならないうちにちょっとそこのコンビニへお金を振込に行こうと思ったのだけど、もし留守中に宅配が来たら、受け取りをお願いできないかと思って」

「いいですよ。コンビニへ行って戻ってくるくらい、待ちますよ」

「でも、悪いわ。やっぱり宅配を待ってからコンビニに行くことにする」

「時間の約束があるわけじゃなし、十分や二十分、大丈夫ですから涼しいうちに行っておいでなさい」

「でもお仕事なのに……」

「大丈夫ですから」

 普段ならこの程度のことで遠慮合戦するような早和ではない。どうも先日の会話が祟って面倒な結果を招いたような気がしてならない。

 そこへ丁度タイミングよく、宅配員が荷物を抱えて走ってきた。


「毎度あざーす」と、顔見知りの若い宅配員は、荷物を置いて帰っていった。

 早和を待つ必要はなかったのだが、折角なので待って、一緒に路地を歩く。

「ごめんなさい。足止めさせちゃって。先行ってくれてよかったのに」

「そうですね。何故か待っちゃいました」

 耕輔が笑うと、早和もつられて笑った。

「お仕事、大変ね」

「お盆に実家のほうへ帰省するんで、早めに片付けてしまいたいだけなんです。今年は叔父の初盆で」

「そう、叔父様の……ご実家というと、小田原の?」

「はい」

「うちの親父と一緒に干物屋を始めた叔父でしてね。気前のいい人で、自分ちの商品を何でもほいほい人に上げちまうんです。宣伝活動の一環だ、とか言って。ハハハ」

「ふふ。そういえば、前に頂いたお魚、とても美味しかったわ」

「帰ったら、あっちから冷蔵便で送りますよ」

「やだ……催促したみたい」

「元々送るつもりでしたから、気にしないで」

「有難う。あのお魚なら遠慮しないわ。とっても美味しいもの」

「早和さんたちはここにいますか?」

「ええ。今年は帰らないつもり。耕輔さんは、いつ?」

「土曜」

「えっ……」

 驚く早和の顔がとても残念そうな表情なので、耕輔は気になった。

「どうか……しましたか」

「あの……土曜って……今週の?」

「そうですが?」

「それ……決定?」

「実家にはもう伝えてしまったし、何もなければ、ですが」

「……そう」

 早和が何かを言いたげにもじもじしているので、

「何か? 言ってごらんなさい」

「あの、浴衣が……」

「浴衣? 浴衣って、あの浴衣ですか」

 浴衣にあの浴衣もこの浴衣もない。浴衣といえばひとつだけだ。耕輔が知っている浴衣といえば、夏の夜に縁日に行く際に着るあれである。いや、旅館で湯上がりに着るあれもあった。シチュエーションと着こなしと着る者のこころもちは若干違うかもしれないにせよ、どちらも同じ浴衣である。まあ早和が言うならイメージ的に縁日のほうだろうと勝手に決めつける。

「はい。今年は奮発して、新調しちゃいました。あさって、仕上がってくるの」

 どうやら早和はその浴衣を耕輔に見せびらかしたいのだ。

「あさって? 今日はまだ月曜ですよ?」

 明後日ならまだ耕輔は自宅にいる。早和の浴衣姿なら耕輔にも興味あるし、見ればその場でとてもよくお似合いですよくらいの褒め言葉はスラっと出てきそうだ。つまりはそういうことではないのか。

「花火……」

「あっ、そうか」

 七月の最終週の土曜には、毎年花火大会が催されることになっていることに耕輔は気づいた。

「でも、無理なら……」

「いいですよ」

「えっ? いいの? ご実家のほうは……」

「ナニむこうは別に何が何でも土曜に来いってんじゃないんです。僕が実家でのんびりしたかっただけで、一日遅らすくらい、どうってことでもないですから、行きましょう!」

 とはいえ、遊びに行くためにいまさら帰省を一日遅らせるなどと言ったら嫌味のひとつも言われかねない。ここはひとつ仕事が延びたということにしておこう、と耕輔は心に決めた。

「はい。でも、行く、っていうのは……」

「くわしい予定は後でいいですよね」

「ううん。別に予定とかは必要なくて」

「どうして?」

「出かけなくてもいいのよ。人がゴミゴミしている場所なんかにわざわざ行ったって疲れるだけでしょ? ほら、あそこの路地の真ん中のところに縁台をだして。あの場所ってけっこう特等席なのよ。それで、遠くから花火を見ながら、ビールと枝豆と、高野豆腐!」

「高野豆腐?」

「ビールには高野豆腐でしょう?」

「そうなんですか?」

「蕪井家では、そうなのよ」

「へえ」

「善が、今年はお好み焼きを焼く、って張り切っているわ」

「楽しそうですね」

「楽しそうでしょう?」


 早和とはコンビニ前で別れて、耕輔はそのまま横断歩道を渡って駅の近くの喫茶店に入った。

 それにしても、浴衣に縁台にビールに枝豆、高野豆腐――。

 早和がシチュエーションに拘るタイプだとは思っていなかったが、耕輔自身なんだかうきうきとした気分になってくるのは否めない。自分も早和に合わせて浴衣でも来てみようか、などとあらぬ妄想を膨らませながら、三時間ほど粘ってマニュアルの草稿を書き上げた。

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