6
耕輔はその日以来、朝起きて出かけ、夜になって自宅へと帰る生活に切り替えた。決まった場所に通うわけではない。図書館に行ってみたり、百貨店に行ってみたり、映画に行ってみたり。とにかく早和と顔を合わせないようにということだけのために、外出を続けた。
しまいには行くところがなくなり、仕事の相手先にアポイントを取って、会社に押しかけた。近くまで出てきたのでついでにご挨拶、とか言ってメールや電話で済むような打合せを無理矢理した日には、自分のしている事の情けなさにひどく心を苛まれた。川岸に座って一日中、川を眺めて帰ったこともあった。こんなことがいつまでも続けられるわけがないこともよくわかっていたというのに、やめられなかった。そこまで情けない思いをしたとしても、まだ早和に会って話しをするほうが苦痛だった。
そしてついに、それらの耕輔の一連の行動の『つけ』を精算する時がおとずれた。
その日は数駅離れた所にある本屋街をぶらぶらと一周りして、晩飯がわりにハンバーガーセットを食べ、帰途についた。ちょうど来た電車に飛び乗って吊革に掴まると、
「あ」
と見上げて声をあげたのが、座席に座っている早和だった。
「さ、わわさん……」
「こんにちは。あれ、もうこんばんわか!」
早和は何事も無かったかのように、親しげに耕輔に声を掛けてくる。
「こ、こんばんわ……」
瞬時に体中の血が沸騰したように動悸が高まる。ちょうど電車が大きく揺れた。バランスを崩して、たたらを踏む。
「大丈夫?」
「はい……なんとか」
耕輔はそれきり黙ってしまった。早和も混んでいる車内で他の乗客に遠慮してか、あまりべらべらとは喋りかけてこない。緊張と静寂がふたりの距離を満たした――実際周囲は電車の騒音でいっぱいだったのだが。
車内アナウンスが次の駅名を告げ、停車した。
人がどっと降りていなくなる。ホーム階段の近くだったこともあり、一気に車内は空いた。
「……座れば?」
早和が言う。
「は、はい……」
言われるまま耕輔が早和からひとつ開けて端の席に腰掛けると、
「どうしてそんなに離れて座るの」
と早和が文句を言う。
「つ、つい癖で。端っこが好きなんですよ」
「ふうん」
早和が妙な目つきで何か言いたげに睨む。
耕輔は仕方なく、すごすごと早和の隣りに移動し、座りなおした。
もうこうなっては逃げ隠れはできない。
仕方なく、当たり障りのない言葉を探して、投げてみる。
「さ、早和さんはお出かけですか」
「はい。お友達とお買い物に行ってきました」
と、持っていた袋をポンと叩く。
「へ、へー。それはよかったですね」
早和がいたってふつうに接してくるので、耕輔もなるべくふつうであろうと、かえってふつうを意識しすぎてしまう。
「耕輔さんは?」
「僕はし、仕事の打ち合わせで……」
「そうですか、お仕事お疲れさま」
「はあ、ありがとうございます」
咄嗟に出任せを言ってしまう。
「最近……」
「はい」
「忙しいみたいね。滅多に顔を見なかったもの」
「ええまあ……そうですね」
目的の駅で降りて、自宅への道をふたりで歩く。
「それ、持ちましょうか」と、早和に気を使って言うが、
「いいです」
とにべもなく断られて、
「す、すいません余計なことを……」
それ以上、何も言えなくなってしまった。
無言のまま、路地の入り口の階段を降りたあたりで、早和がぽつりと言う。
「わたし、耕輔さんにお話ししておきたいことがあります」
「話し……ですか?」
「ええ。さっき耕輔さん、電車の中でわたしを避けたでしょう」
「避けたなんて、あれはそんな……」
「最初離れて座った。癖でつい離れて座るとかありえないし」
「あれはその、一日歩き回って汗をかいていたので……もし汗臭かったりしたら早和さんが嫌なんじゃないかと……でも電車の中でそんな……言えないですし」
耕輔はまたしても、適当な『嘘』をつくしかなかった。
「一日歩いてた? 仕事の打ち合わせだったのでは?」
「そ、そのあと本屋を回ってたんです」
「それ、この前も言いましたよね」
「え?」
耕輔は何を言われているのかが解らない。
「下着の話しです」
「は?」
「耕輔さんがそういう格好でいたら、わたしが嫌なんじゃないかとかって」
「あ、ああ……」
早和はいきなり核心にふれてきた。
「いきなり家の中を覗き込んだことは謝ります。ごめんなさい。でも言っときますがそういうのが嫌かどうかは耕輔さんじゃなくわたしが決めることですから」
「は、はい、それはもう、早和さんのおっしゃるとおりです」
これ以上ない明快な主張に、反論のしようがあるわけがない。
「わたし、嫌だったらきちんと言います。だから……」
「だから耕輔さんも嫌だったら遠慮なく言ってください。耕輔さんはわたしのことが嫌ですか?」
「いいえ、けっしてそんなことは……」
「ほんっとの本当に?」
真正面から真剣な目つきで顔を覗き込む早和。
「ないです、あるわけがない!」
耕輔は力を込めて、本心から否定した。
早和はまったく正しい。早和の言動にひとつも非はないし、耕輔が早和を嫌がる理由など毛頭ない。反論したり責めたりする余地だってこれっぽっちもない。
責められるのなら、自分の想像や善次郎の言葉に惑わされてコソコソと逃げ回っていた耕輔こそ、責められるべきではないのか。
耕輔の力強い否定に、早和はにっこりと笑った。
「ならよかった……お話しは以上です。お休みなさい」
そう言うと、早和は耕輔に向かってペコリとお辞儀をし、小走りで自分の家に駆けて入って行った。
耕輔はそのときの早和の安堵したような顔をいつまでも忘れることができなかった。
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