5
その晩遅くに善次郎がまた耕輔の家にやってきた。
「耕輔さん。姉貴に何を言ったんです?」
「ぜ、善くん、聞いてくださいよ」
善次郎は耕輔の向かいにどかりと腰をおろし、
「そりゃ聞きますけどね、ひどく落ち込んでいましたよ」
「お、落ち込んで?」
耕輔の顔からさっと血の気が引いた。原因は昼の会話に間違いない。
「さっきからため息ばかりです。今は寝てますが」
それを聞き、耕輔も大きくため息をついて、
「ああ、僕はもう早和さんに合わせる顔がありません。いっそ人足寄場にでも行ってしまいたい……」
と、頭を抱えてどっと卓袱台に伏す。
「莫迦を言わんで下さい。このご時世にそんなものあるわけないでしょう。さ、説明してくださいよ。詳しくね」
耕輔が昼の出来事を話し終えると「そりゃ駄目だ」と善次郎も頭を抱える。
「どの辺が、どう駄目なんでしょうか?」
実は耕輔は、早和の落ち込みポイントが今ひとつ腑に落ちていないのであった。
「いろいろと駄目でしょう」
「いろいろというのは?」
「いいですか耕輔さん。弟の僕が言うのもなんですが、ふだん姉貴はあんなガサツな感じですが根は案外ナイーヴなんです」
「ナイーヴ」
「はいそうです」
「そこをひとつ、ご指南のほどを……」と耕輔は頭を下げる。
「ならばまずひとつ」と善次郎は指を一本立てて、「『蕪井家秘伝のつゆ』ってのはアレ姉貴の洒落なんで気づいてやってください」
「は?」
「市販品です。おそらく『梅屋』のつゆ、濃縮二倍、スーパーマルスケの特売で三百二十八円のやつです。要するに水道水しか足してません」と声を潜めて大仰に言う。
「善くん」
「何スカ」
「真面目にやってください」
「うへえ。カタいなぁ。ではあらためて」と指を立て直す。「姉貴は耕輔さんに怒られたと思ってます」
「はあ」
「『勝手に人の家を覗き込んだりして、お前は遠慮のない女だ』と」
「そ、そんなこと僕は……」
「『自重してください』と言ったんでしょう?」
「た、たしかに……」
だがそれは、自重してくれないと気恥ずかしい場面に遭遇して早和のほうが後々嫌な思いをするのではないかという、そういうことを言ったつもりだ。それはそう言った。ハッキリと伝えた。
「姉貴はそれを、『お前は自重のない厚かましい女だ』と言われたと解釈してます」
「う……む……」
「で、それより上手くないのが」と善次郎は二つ目の指を立てた。「姉貴は耕輔さんに振られたと思ってます」
「え、ええーっ」
「言ったんでしょう? 『逆の立場で考えてみろ』と」
「言った……言いましたが」
それはもしも早和が他人に見られたくないような姿でいるときに耕輔なんぞが無遠慮に来合わせたら嫌でしょうと、そういう意味だ。というかそういうことを言わんとしていることくらい容易く想像できるはず。
「姉貴はそれを、『お前の下着姿なんぞ見たくもない。嫌な気分になる』と言われたと解釈してます」
耕輔はあんぐりと口を開いたまま、もう言葉もなかった。
善次郎が去って、耕輔は両手を頭に回し、寝転んで天井を見つめたまま、憤慨した。
そんなのはナイーヴというより、早和の勝手な思い込みではないのか。
「つまりそういう主観的な解釈しかできないほど、見えなくなってる、ってえことですよ」
と、善次郎は締め括って帰っていった。
本当にそうなのだろうか。
そんなことで落ち込まれてはこちらが堪らない。
早和の勝手な解釈によって引き起こされたこの事態を、耕輔はどう受け止めたらいいのか。
しかしよくよく反芻してみると、これまでにも早和に部屋を覗き込まれるなんてしょっちゅうのことだったし、耕輔だって気にせず許していたではないか。それはそれで何の問題もなかったはずなのだ。あの時だけ、どういうわけだかこのままではいけないと感じ、きつく注意してしまったのはなぜか。
――やはり、早和の寝言のせいだ。
あれが、耕輔と、早和の間の嵌っていたパズルのピースの要を、微妙に衝いてしまったのだ。
夢は深層心理の表象だという。耕輔が、早和の深層に潜む心にふれてしまったがために、それまで保たれていた状態が衝き崩されてしまったのだ。
明日からどう早和に接すればいいのだろう。
耕輔は横向きになり、蚊取り線香が燃え尽きて、灰が受け皿に落ちるのを黙って見ていた。
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