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 朝方、善次郎が隣家の戸を開けて出勤して行く音を聞いてから耕輔はノートパソコンの電源を落として就寝した。夜通しするほど急いで片づける必要もない仕事なのだが、何かしていないと早和の寝姿や寝言のことをつい思い出してしまうので、意識から追い出すようにして無理矢理仕事をした。お陰で仕事は捗ったし、頭の中は疲れ切って、一気に睡魔が襲ってきた。この状態で寝ればたとえ暑かろうが否応なしに数時間は眠ることができるし、その間は早和とも顔を合わせずに済む。一石二鳥だ、と必要もない理屈をつけて横になった。

 夢すら見ず、目覚めたときはすでに正午で、じっとりと汗をかいてひどく不快だった。

 喉がカラカラに乾いていた。昨晩、作り置いた麦茶を呑みきってしまったので仕方なく蛇口に口をつけて生ぬるい水道水をがぶがぶ呑んだ。

 それからしばらく寝覚めの悪い頭のまま布団の上でぼうっとしていたが、何か腹に入れるべきだと考えて台所に立ち、食材を探すと実家から送ってきた切干大根を見つけた。たった今腹が猛烈に減っているのに悠長に切り干し大根を煮てなどいる場合ではないが、他に目欲しいおかずがないので仕方ない。水で戻すべく作業をはじめたところへ、背後から声がした。


「耕輔さん」

「うひっ」と耕輔は妙な声を上げて飛び上がった。「さささ早和さんお早うございます」

 蚊帳の向こうから早和が無遠慮に部屋を覗き込んで笑った。

「何を言ってるの? もうお昼よ」

 起き抜けは下着姿であったが、さきほど用心して甚平を着ていたため助かった。実は以前にも似たようなことがあり、耕輔は既に学んでいた。最近では部屋の中でもけっして下着一枚などでうろつかないよう気をつけている。

「あ、明け方まで、仕事をしていたんですよ」と切干大根の入ったボウルをわきによけ手を拭いて、「どうしました?」と早和がいる掃き出しのほうへ出てゆく。

「氷を、あったらでいいんだけど、分けてもらえないかと思って」

「氷? ありますよ。どのくらい要り用なんです?」

 言いながら台所に戻って冷蔵庫を開ける。昨日水を入れたものが冷凍室に一皿、凍っていた。

「全部ください」

「はい」

 製氷皿ごと渡すと早和はまだ何か言い足りなそうな様子をしている。

「あのう」

「はい?」

「耕輔さん、お昼よかったら、一緒にどうかなと」

「い、一緒に?」

 唐突な申し出だった。今までにも善次郎を含めて三人で夕食を、というケースはあったが、考えてみたら二人だけで食事をしたことは一度も無かった気がする。むろん早和が食事だと言い張った先日の西瓜をノーカウントとするのならだが。

「あ、ひょっとしてもう食べちゃった?」

「いえ……まだです」

「よかった。きょう実家から届いた荷物の中に、お素麺があったの。この前の西瓜のお礼にと思って」

「それはとても有り難いですが……でもこないだのは貰い物だし」

「ううん。うちの素麺も貰い物なので、ぜひ」

 と、このまま手を引いて連れて行きかねない雰囲気である。

「じゃ……遠慮なくご馳走になります」

「どうぞどうぞ」

 早和の声は鞠のように弾んだ。


 一方耕輔はというと、顰めっ面で「むー」と唸ってから念仏のように「単なるお礼単なるお礼」と二度唱え、心を落ち着けてから敵陣に乗り込むような調子で隣家に上がりこんだ。

 見れば食卓上にはいくつかのおかずと二人分の食器の用意がされていて、中央の涼しげなガラスの器には明らかに一人前とは思えぬ量の素麺が入っていた。そこへ早和が耕輔の氷を投入して完成、ということらしい。

「はい。蕪井家秘伝のつゆです。どうぞ」

 と言って猪口を渡して寄越すので、耕輔はそれを受け取り鼻を近づけて嗅いでみたが、匂いなどで何がわかる訳でもない。

「じゃあ、いただきます」

「いただきます」

 早和と同時に手を合わせる。

 箸をとり、山葵を溶いて、薬味を入れ、素麺をつけて一口すする。

「うまい」

 真夏の暑いさなか、空き腹に冷えている素麺は最高に美味しかった。

「ほんと。夏はヤッパリこれに限るわね」

 早和は、西瓜の時と全く同じことを言った。


「ところで先刻から気になっていたんですが、あれは何です?」

 机の上の書きかけのイラストを耕輔が目にとめて訊いた。それは色彩鮮やかなオリエンタル風の女性であった。

「ラクシュミというインドの女神」

「インドの?」

「ええ。日本では吉祥天、って言われたりするけど」

「ああ、吉祥天」

 インドのほうは初耳だったが、日本の吉祥天なら耕輔も聞いたことくらいはある。

「なんだか神秘的な絵です」

「神様だから」

「なるほど」

 自分で話題を振っておきながら、このまま世間話に持ち込んではならないと耕輔は意識を改めた。今日こそは早和の少々行き過ぎな無邪気さをビシリと窘めてやろうと、猪口を置いてふんぞり返り、

「早和さん」

「はい」

「ええと。何というかですね、さっきのことなんですが」

「さっきのこと?」

「ええ。そうです。もう少し自重してくれませんか……や、くれると……うれしい……かな」

「自重……ですか?」

 早和は意味がわからずキョトンとしている。

「僕にご用のさいは玄関から呼び鈴を押してもらうとか」

「やよ。面倒臭いもの。すぐそこにいるのにどうしていちいち裏に回ってベルを鳴らすの?」

「それは……何というかですね、僕も自宅にいる時なわけですから、寛いでいます」

「はい……」

「時にはハシタナイ……といいますか、端的に言えばパンツ一丁でうろうろしていることもあります」

 そこまで言って早和にはやっと通じたようである。

「……あっそうか。ご、ごめんなさい。わたし、気がつかなくて」

 と心から済まなそうにするので、耕輔も気が引けてしまい、

「い、いえ。怒っているとかじゃ全然ないんです。ただ、僕のそんな姿なんぞ見たら、早和さんが嫌なんじゃないかと」

「えっ。そういう話? ならべつに心配ご無用よ。わたしいつも父がステテコで家の中を歩き回っているのとか見てきて慣れてるから」

「あ……そうですか」

「あっ、でも耕輔さんのステテコ姿ってちょっと想像しがたいわ……」

「いや僕はステテコは穿きませんけど……」

「べつにステテコ限定でものを言っているのじゃないけどね」

「そ、そうですか……ステテコ……いや、そうじゃなくて」

「うーん。いったい何なのよ。寛いでいるところを邪魔されたくないという話しではないの?」

 会話のペースを早和にぐいぐい持って行かれ、本筋からどんどん離れてゆく。ここで逸脱してはいけない、と耕輔はぐっと思いとどまる。

「た、例えば僕と早和さんの立場が逆だったとしたらどうでしょう」

 早和は天井を見つめてしばらく何かを想像して、

「わたしが、下着姿で? 耕輔さんがそれを覗きに来るの? それで耕輔さんはわたしの下着姿を見て、嫌ーな気持ちになるのね?」

 ぶっ、と耕輔は堪らず盛大に吹き出した。

「さっ、早和さん! そ想像が赤裸々過ぎます!」

「ごめんなさい。何が言いたいのか良く分からないわ」

 早和は何食わぬ顔で素麺をツルツルと食べた。

 耕輔の果敢な挑戦はあえなく失敗に終わった。


 それから、耕輔はただ黙々と素麺を口に運び続けた。早和の理解を得られるように話すのは耕輔の会話スキルのレベルでは高度すぎる。これ以上口を開けば開くだけおかしなことになっていくのが目に見えている。ただただ自分の言動に早和が気を悪くしていないことを願うのみの耕輔であった。

「耕輔さん」

「は、はい何でしょうっ」

「おかずも食べてくださいね」

「は、はい」

 最早課された義務を黙々とこなす機械か何かになったようなつもりで耕輔は食事を続け、気づいたときには素麺の器は空になっていた。


 耕輔は早々に早和の許を辞去し、自宅に戻ってから頭を抱えて部屋中を転げ回った。

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