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真夏の日中、冷房のない室内でノートパソコンを使用するのは躊躇われる。最近の機種は熱に強くなっているとは聞くが、高温下で使用すると内蔵の冷却ファンは今にも壊れそうなくらいけたたましく鳴るので気が気でない。やはり涼しい場所で使うにこしたことはない。空調の効いた喫茶店かファミリーレストランにでも行って仕事できればいいのだが、生憎耕輔は周囲が騒がしいと気が散って集中できないタイプだ。それに外に出ると何だかんだで出費も嵩む。
結局のところ、仕事は夜になってからするのがベストな選択だという結論に達した。
だから日中はダラダラ過ごそうと決めた。
幸い今抱えている仕事は納期にいくぶん余裕がある。
人様の働いている時間にこんなふうに過ごすのは何とも気の引けることだが、この尋常ならざる暑気が落ち着くまでの間だけだと心の中で言い訳して、蚊帳も畳まず再び布団の上で横になる。
だが、暑い。寝ていても汗は滴る。むしろ寝ていて背中の半面から汗が蒸発しないぶん、暑くなる道理だ。辺りに生息するみんみん蝉も喉の調子が絶好調とみえて耕輔の苛立ちを募らせるのに一役かっていた。せめて一雨降ってくれたら涼しくなるのに、などと詮無いことを考えてみるが、その兆候はいっこうになく、空は相変わらず乾いている。想像に逃げてしまうのはよほど思考が暑さに浸食されているが故であろう。
そのうちに眠ってしまったのだろう。耕輔は夢を見た。
耕輔は沼のほとりに立っている。泥沼だ。汚い油のようなものが所々に浮いている。古タイヤが五、六本浮かんでいる。一つを岸に上げると底のほうから一つまた浮上してくる。耕輔の他に誰か(善次郎?)がいる。ふたりで必死にタイヤの銘柄を調査している。あと数十分もすれば陽が沈んで暗くなる。暗がりでは作業が継続出来ないので、明日に持ち越しとなってしまう。なので耕輔は大変焦っている。このままでは埒が明かないと踏んだ耕輔は、タイヤを引き上げる傍からとにかく自分が銘柄を確認して順に読み上げるので、ノートPCに打ち込む作業に徹してほしいともう一人の人物に告げる。タイヤはひとつ引き上げるたびに、どんどん湧くように底から浮かんできて、作業が終わる気配はまったくない――。
断続的に、同じ夢を繰り返し見ていた。おかげで、時間的には充分睡眠を摂ったはずが、いつまでも眠くてスッキリしない夕刻を、喪失感と共に迎えることになった。
その深夜、耕輔がいつものように戸を開け放ったまま仕事に没頭していると、「耕輔さん、耕輔さん」と外のほうから呼ぶ声がする。目を凝らすと掃き出しの奥の暗闇から善次郎が手招きをしている。
「おや善くん、今帰りですか? 遅くまで大変ですね」
善次郎は白い半袖のワイシャツのままで、たった今帰宅した様子である。
「ちょっと、来てもらえませんかね」
と、ヒソヒソ声できまり悪そうに言うので、何事か良からぬことが起きたのかと、胡座に組んでいた足を解いて出ていくと、「ちょっと、ちょっと」とさらに招く。
「一体どうしたんです?」
善次郎が向かいの家まで来てほしそうな様子なので、もしや早和に何かあったのではないかと心配になって、耕輔は蚊帳から飛び出して、掃き出しの下に置いてあった下駄をいそいでつっかける。
「しっ」と、善次郎は人差し指を口に当て、物音を立てないように促す。
耕輔の戸惑いが最高潮に達したのは、善次郎が案内した部屋の布団の上で、早和がキルトケットを丸めて抱きしめながら、幸せそうな寝息を立てている姿を見た瞬間だった。
「だっ……ぜ、善くん、これはまずいですよ、いや、本当に……」
即座に後ろを向いて立ち去ろうとする耕輔の腕を掴んで善次郎は、
「いいから、黙って……」
いいから、って全然良くないだろう、と耕輔は心で叫びつつ、早和のあられもない寝姿をなるべく視界に入れないように顔を逸らした。
善次郎が腕を離さないので、そのまま数分、居た堪れない気持ちで俯いていると、
「いひひひひひ」
早和が頓狂な笑い声を上げる。もちろん早和は、眠り続けたままだ。
「な、何ですか今の」
「しっ」
善次郎はいましばらく黙っていろと促す。
「う……ん……」
早和がこちらに寝返りをうって向き直るので耕輔としてはもう勘弁して欲しいという思いで顔を真赤にしつつも、仕方なく元の姿勢のまま押し黙る。
やがて眠ったままの早和がニヤリと笑ったかのように唇を歪め、抱いたキルトケットに顔を埋めるようにして、
「こーすけさぁん……」
と、悩ましげな寝言を呟いた。
そこで耕輔の困惑メーターが許容限界を超えて振り切った。
「いやいやいや……これもう無理、無理だって……」
耕輔は善次郎の手をふりほどき、逃げるように自分の家に駆け戻った。
「――でどう思います?」
善次郎が耕輔の後を追って、家に上がりこんできた。
「どうも何も。ぼ、僕には何のことやらサッパリ――。そ、そんなことより君は明日も仕事あるんでしょう。早く休んだほうがいいんじゃ……」
「いや別に、耕輔さんが姉貴に何をしたと思ってる訳ではないですけどね僕ぁ」
耕輔は冷蔵庫から麦茶を取り出してコップに注ぎ、一気に飲み干した。ぷはぁと息を吐き出すと、心臓の鼓動がドクドクと高鳴った。
「あ、当たり前ですよ。するわけがない。いきなり何ちゅうもんを見せるんですか善くんは」
「このところわりと頻繁なもんですから」
善次郎にも麦茶を注いで卓袱台に置く。
「頻繁……何がですか」
「だから、寝言で耕輔さんの名前を呼ぶのが」
「冗談を」
「冗談なんかじゃありませんよ。素直に考えるなら、姉貴は毎夜、耕輔さんの夢を見ているんでしょう。それも楽しげなやつを……」
「へ、変な言い方しないでくださいよ」
「おっと、これは失礼。でも真面目な話し僕、耕輔さんが兄貴ってのは悪くないと思いますよ、ホント」
「ぜ……」
再び耕輔が顔を赤らめるのをよそに、善次郎は冷えた麦茶を旨そうに飲み干した。
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