第9話 此処に
この果てしなく広い外の世界はやはり汚いし臭い。キヨミの湯という狭い世界の方が如何ほど心地が良い。汐実がキヨミの湯に住居を移したのは、祖父の武臣が病死し、悲しみに打ちひしがれている清を見かけたことがきっかけであった。高校卒業を機に実家を離れ、何かしたいことを探すという名の元、キヨミの湯で手伝いをし始めた。汐実は昔から祖父母の元がとても居心地が良かった。所謂おじいちゃん子、おばあちゃん子である。祖父の武臣は先代の魂湯の番頭であり、幽霊と話すことができたが、武臣の死後、汐実が番頭を引き継ぐことになった。清と汐実のみがキヨミの湯の従業員となった直後は、暫く魂湯が開放されず、汐実が魂湯の封を久方ぶりに解いたときには入浴目当ての霊で殺到していた。清は、今でも祖父が私を守ってくれているというが、汐実には祖父やそのまた先祖など、血の繋がっている家族の霊は見ることができなかった。もしかしたら武臣が未だに成仏していないのかもしれない。本当に清の後ろで見守っているのかもしれない。
しかし、なぜ清はこの女の悩みを俺に解決できると思ったのだろうか。清自身は、自分は幽霊は見えないと言うが、もしかしたら曖の話している内容を聞き、直感的に霊に関わる悩みであることを察知したのかもしれない。この咲という霊は曖と似たような姿をしている。きっと今、お互いがお互いのことを思って泣いているのだろう。果たして、この霊が今曖に言っていることを全て伝えても良いのだろうか。
「水を差すようで悪いけど、咲さん」
「はい、誰ですか?」そう言われるのは当たり前だと思うが、それはこっちの台詞でもある。
「汐実って言うんだけど、この人の付き添い」汐実の名を聞くと、咲は大声を出した。
「えっあのキヨミの湯の?毎日通ってたんですけどやばい!」自分の存在はいつこの女に曝されていたのだろうか。ふと祖母の顔が頭をよぎる。
「汐実君、咲は何て言ってるの?」
この異次元の生き物二人からの猛攻をどう受け止めようか。ここで話を続けると周りの人が不審がってしまう。
「汐実君、咲はここから移動できるの?」
「いや、まだできない」
魂湯にいる霊達に聞いたことがある。霊が自由に移動ができるようになる為には、遺体を火葬してもらわなければならない。火葬される前は、遺体の存在する場所にしかいることができず、遺体が見つからなかった霊はそこがどこかも知れない、ただ自分がこの今死んでいる場所にしかいることができない。思念が強ければ死んだ要因となる者や、生前ゆかりの地に移動することができるが、たいていは悪霊と言われる者となり、そうなってしまうと容易に悪霊を退散することはできない。
「咲の遺体がある場所に行けば、俺を介して君に伝えることはできる。遺体が火葬されれば、咲自身の思い出のある場所に行くことができる。まずはその方が良くないか?」
「今ここで、となると怪しまれるかもしれないものね」曖は咲に、「必ず救うからね」と伝えていた。
「私まだ成仏する気になれない」咲は汐実の目を見て頷いた。
「咲さん、火葬が終わった後に、午前二時から三時にキヨミの湯に来てくれないか?そこで話をしよう」咲は再び頷き、汐実にハグをした。
「あんた、幽霊思いで優しいね。ありがとう」
感覚は一切感じられない。咲の表情、声の震え、地から浮いている体の動き、咲の仕草や言動よって視えるはずの無い存在を感じ取ることができてしまった汐実は、少し俯き、咲の足元を見た。そこにいながらも何も見えない咲の影のように、今後の行く先を何一つ想像できなかった。
汐実と曖は、咲に一先ずの別れを告げ、その現場を去った。火葬までの時間は霊にとって辛い。もちろん遺族や友人にも同じことを言える。心の整理がつかないまま、何も解決されないまま離れ離れになってしまうからだ。限りある時間の中で、霊の思いを伝えることはとても難しい。ふと空を見上げると、朝日が顔を出し始め、早朝ながらも忙しないK町を歩くサラリーマンが駅に向かい歩き始めていた。
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