第8話 今も尚三〇二号室の住民

 久しぶりに外を歩いたのはいつ以来だろう。久しぶりの外は街灯がひしめいており空は仄暗い。道に散らかったゴミと少々の人。外はこんなに汚いものなのか。やはりわざわざ外出する必要は無い。だが今は咲と云う名の女が死んでいる現場に向かっている。彼女の声を聞いたところで、この曖という女の悩みを解決することができるのだろうか。汐実は曖に導かれるまま、咲が居る、居た場所に向かっていた。


 「このマンションの三〇二号室よ」

 キヨミの湯から僅かもかからなく到着した、オートロックの付いていないマンション。誰かが呼んだのか、既にパトカーと救急車が停車していた。咲を見つけたのであろうか。管理人か隣人が通報でもしたのだろうか。物騒がしい古びたマンションに、事情も知らない野次が集まっている。

 「咲って人の見た目はどんな感じ?」汐実は変わらない声で曖に問う。

 「私みたいな髪色で、顔は可愛い感じ」曖は茶髪で髪が長く、目鼻立ちがしっかりしている。

 「ここからじゃ分からないな」その汐実の言葉を聞いた曖は確信した。この人には視えるんだ。だとしたら一緒に来ない。彼が現場を見ることで解決に繋がることがあると知っている清さんは、あの時この人に持ちかけたのだ。そしてそれに従い、視えるからこそこの人はここにいるのだ。


 「その子の名前を叫んで手を振って」

 「でも周りには人が」

 「友人なんだろ。名前を呼ぶぐらい簡単だろう。他にいっぱいいてどれがその人か分からないんだ」

 この人には視えることが特別だと思っていないのか。所謂視える人とは、自分から申告するものだ。曖はマンションの入り口から、恥ずかしげもなく咲の名を叫び手を振った。すると汐実が「きたきた」と言う。やはり視えるのか、聞くべきか。聞いたところで視えるから来たって分かるんだろう、と言われるのがオチだ。

 「咲はどこにいるの?」

 「今、あんたに泣いて抱きついてるよ」


 感覚はない。体温も感じない。どのぐらいの強さで抱きしめられているのかも、どのように泣いているのかも分からない。もう咲と会えない。今の泣いている顔を見ることができない。くしゃっとした顔を見ることができない。どうして死んでしまったのだろうか。私の傍にいるのなら、今ゼロ距離で抱き合っているのなら、どうか生身の体に戻って息を吹き返してほしい。

 曖は咲の感触を思い出す。咲は胸がふっくらしていて、背は曖より頭一つ分小さい。このぐらいだろうか。曖は見えない咲に腕をかけ、そっと抱きしめた。感覚はない。体温も感じない。胸の感触も無い。既に温もりを感じ取ることのできない咲を感じ取った曖は、咲を思い出した。少し甲高い声、化粧を取ると素朴な顔、愛嬌があり、どんな客にも対等に接する。咲の元に帰ると、恋愛相談を聞いてくれる。仕事の話だってそうだ。曖はお互いの目的のために今を切磋琢磨し、ついこの間まで共に生きた、今はその生身を失い、そこにいるであろう不可視の咲が死んでしまったことを悲しみ、静かに泣いていた。

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